月別アーカイブ: 2013年1月

恵みの御言葉に生きる(2013.1.27)

宣教題  : 「恵みの御言葉に生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカによる福音書 4章14~22節
主イエスは、伝道を始められた時に、「いつものとおり」に会堂で礼拝をされ、自ら説教をされました。それを聴いていた人々は、「イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」います。主イエスが語られる恵みの御言葉は、それを受け止めた人の生涯に驚くべき御業を起こします。

1.恵みの御言葉が開かれる
当時の会堂の礼拝においては、まず聖書が開かれ、それが朗読されていました。ここでは、主イエスが会堂司から渡された「イザヤ書」を開いて、それを朗読されたのでした。誰が、どんな言葉を語るよりも先に、聖書が開かれたのです。
私たちも重んじなければならないことは、聖書が開かれ、読まれ、そして説き明かされることです。そこで大切なことは、私たちが聖書を読む時に、御言葉の方から自らを開いてくださり、私たちがその御言葉と対話したり、また葛藤したりすることです。そして、私たちが御言葉の前に頭を垂れて従っていくことにより、御言葉が理解でき、また知恵と悟りを与えてくださるのです(詩編119編130節)。

2.恵みの御言葉に信頼し切る
朗読された御言葉は(18~19節、イザヤ61章1~2節)、主イエスご自身のことを証言しています。主イエスは、貧しい者に福音を告げ知らせ、罪と死、サタンの虜になっている者を解放されるお方です。そのようにして「ヨベルの年」の恵みが、主イエスの十字架と復活による贖いによって実現されたのです(19節、21節)。
ところで、聖書が大切なこととして伝えていることは、イザヤ書の預言が、「今日、実現した」という一事です。今日とは、主イエスが口を開いて、恵みの御言葉を語られた今日であり、主イエスが救いのためにご自身を差し出された今日です(ルカ2章11節、19章9節、23章43節)。
永遠に変わることのないイエス・キリストは、永遠の救い主です(ヘブライ13章8節)。私たちは、徹頭徹尾に主とその恵みの御言葉に信頼を寄せて生きることが求められているのです。

交わりに生きる(2013.1.20)

宣教題  : 「交わりに生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章13~16節 1ヨハネ 1章3節
神の御子の血によって贖われた者は、神のものとされ、教会の交わりに加えられます。その交わりは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」であり、「わたしたちの交わり」と言われる聖徒の交わりです(1ヨハネ1章3節)。パウロのミレトスまでの旅程には、教会の交わりを証しするメッセージが語られています。

1.主との交わり
ここでのパウロは、不思議な行動をとっています。彼は、ルカたちを船でアソスに行かせ、自らは一人でアソスまでの山道を歩いて行ったのです。彼はそのことを決め、ルカたちに指示するほどに並々ならない決意をしています。そうすることによって彼は、ミレトスでエフェソの指導者たちに決別説教を語るに際して、主イエスと交わり、祈り、考え、黙想しつつ、伝道や教会や聖書についてまとめ上げていったと思われます。
聖書に登場する多くの人物が、神の前の孤独を経験し、それを通して自分を見つめ、神に近づき、神の御心を知らされ、神に仕えることに豊かにされています。こうした主イエスとの交わりは、良いことであり、また幸いなことです。パウロは、その良い方を選んだのです。私たち一人ひとりも、この良いことに身を置くことが必要です。

2.聖徒の交わり
アソスでルカたちと合流したパウロは、ミレトスまで船旅をしました。彼が、エフェソの指導者たちをミレトスに呼び寄せて、決別説教をしたのには理由がありました。それは、五旬祭にはエルサレムに到着していたいとの願いがあったからです。彼は、ユダヤ人たちが重んじる習慣を受けとめつつ、彼らをキリストの福音に導き、ユダヤ人と異邦人の間にある敵意という障害を取り除いて、両者がキリストにあって一つになることに重荷をもっていたからです。
私たちの交わりは、信仰によって与えられた共通の救い・御言葉・礼拝・目標・使命・苦難・栄光を共有する交わりです。私たちは、主との交わりを深め、相違を意識しやすい愛の乏しさを悔い改めつつ、共通のものにしっかりと目を向けていくことによって、教会の交わりを確立していくことが大切なのです。

主の愛のわざを覚えて(2013.1.13)

宣教題  : 「主の愛のわざを覚えて」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : アモス書 2章6~16節
言者を通して語られる神はうっとうしいほどに熱い神である。紀元前八世紀、繁栄する北王国イスラエルで預言者として生きたアモスは、獅子の雄叫びのような主の声を多くの国々に向かって語った(1章2節~2章16節)。

1.主は熱い神:愛ゆえの「熱さ」
主はご自身の民の現状を知っている。不正が蔓延し、人と人との関係がひずんでいる状況を見聞きしたそれゆえに主は痛み、その現実を告発する(2章6~8節)。それは主が民とその歴史に深く関わっておられるからだ。出エジプト、荒野の放浪、約束の地の征服のすべてを実現させたのはこの神である(2章9~10節)。そして、アモスら預言者を送り、主の声を聞かせ、ナジル人を送り、主の聖なることを示しておられる(2章11節)。主はこれほど熱い、愛のわざをされたのは、イスラエルの父祖であるアブラハムと契約を結ばれたからだ。しかし、イスラエルは神の声を聞こうとはせず、主の聖なることを見ようとはしない(2章12節)。熱い神の愛のわざを拒否している。だから、主は預言者を通してほえたける。アモリ人に対してそうであったように大勇士としてイスラエルに攻撃を加えると言われる(2章13~16節)。その愛ゆえに思い切った行動を取られる。

2.主の熱さは悔い改めと使命のため
さばきの預言は、罪に対する神の憎しみの現れではない。民を切り捨てる神のあきらめのよさでもない。ヨナのことばがニネベの民を立ち返らせたように(ヨナ3章)、イスラエルが熱い神の雄叫びを聞き、自分の姿に気がつき、悔い改めることを願う主の愛の現れである。愛ゆえの熱いさばきである。さらに、民が主の名を聖なるものとする(アモス2章7節)という、アブラハムに与えられた使命をイスラエルが諸国民の間で果たすことができるように導くためにもこの預言は語られている。
預言のことばそのものが、熱い神の愛のわざである。それは甘ったるくなく、厳しい。しかし、教会がその使命を果たすものとなるようにと整えることばである。

証人として生きる(2013.1.6)

宣教題  : 「証人として生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : イザヤ書 43章8~15節
イザヤ書に見る神の民イスラエルの姿は、新しいイスラエルと言われる神の教会の姿でもあります。そこには、神の民がどういう人たちの群れで、どういう使命を託されていたかが明らかにされています。その使命は、主の証人として生きることです。

1.どういう資格が必要か
主の証人は、主ご自身が選ばれた、主の僕です(10節a)。従って、主に忠実に仕え、主が崇められることを願う人々です。私たちは、主イエスによって選ばれ、任命された主の証人であることを忘れずにいる必要があります(ヨハネ15章16節)。
そのような資格が与えられるためには、主によって贖われている必要があります(1節、14節)。
私たちは、主イエスが十字架に死んで復活してくださったことによって、すでに罪と死の奴隷状態から贖われているのです(テトス2章14節)。

2.どういう資質を備えておくのか
主の証人は、主御自身を体験的に知り続け、主御自身との親しい交わりを通して信じ続け、自分のものとして身につけるほどに主御自身を理解し続けていくことによって備えられるのです(10節b)。
このように、主の証人としての資質を備え続けていただくことによって、私たちは、謙遜になり、主とその救いの恵みを忘れないでいることができるのです。

3.どういうメッセージを届けるのか
主の証人は、神が唯一であり、この神こそが救い主であるというメッセ-ジを人々に届けるのです。主イエスは、ゲラサで悪霊に取りつかれていた人をいやされましたが、そのことを身内の人に知らせるように言われました(マルコ5章1~20節)。このように、主の証人が語るメッセ-ジは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」ということなのです。

主の証人は、決してあきらめずに、繰り返しキリストを証し続けるのです。そうすることによって、繰り返しキリストによって救われた自分を見つめ、救ってくださったキリストを「折りが良くても悪くても」紹介できるのです(2テモテ4章2節)。