月別アーカイブ: 2013年2月

牧者の心(2013.2.24)

宣教題  : 「牧者の心」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章25~31節
良い羊飼いである主イエスは、羊である私たちのために命を捨ててくださり(ヨハネ10章11節)、私たちを主のものとして養い導いてくださっています(詩編100編3節b)。そして、その群れを牧させるために、聖霊は人を牧者に任じて用いなさるのです(使徒言行録20章28節b)。牧者が求められることは、愛に根ざして真理を語る心を持つことです(エフェソ4章15節)。

1.愛に根ざして
エフェソの長老たちは、神によって立てられ、神に仕える牧者として召されました。長老たちだけでなく、他のエフェソ教会員もパウロも含めて神の教会に属する者はみな、神の御子の十字架の血によって贖い買い取られた一人ひとりでした。それによって彼らは、主なる神との豊かな交わりの関係に生きる者とされたのです。ここに、神の深い愛による救いと導きがあります。
従って、神の教会を牧するために召された者は、主を愛し、教会を愛し、聖徒を愛し、互いに愛し合うことに向き合い続けるのです。愛が通じないと思われる時であっても(2コリント12章15節b)、主の愛に根ざして、愛し抜くのです。牧するとは、愛し抜くことへの挑戦でもあるのです。

2.真理を 
御言葉の真理は、一人ひとりの魂を思いやる愛に根ざして語ることによって伝えられます。パウロは、その心をもって御言葉の宣教に専念しました(27節、31節)。彼は、牧者がその御言葉の宣教を継承していくために、福音信仰から外れた教えに捉われることのないよう自分自身に心を留め、聖書に集中し、語り教えていることに自らが生きているか見張るように命じ、教会の内外からの福音信仰を歪めようとする危機に際して、群れ全体に注意深く目を留め、また目を覚ましているように命じています(28節a、31節)。
牧するとは、信仰によって神のもとに立ち返った一人ひとりが御言葉に導かれ、その豊かな命に生かされ、互いに愛によって結び合わされる豊さを体現できるように働きかけることです。私たちは、互いに向き合い、互いに牧されることを願う群れとさせていただきたいものです。

あなたの神に会う備え(2013.2.17)

宣教題  : 「あなたの神に会う備え」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : アモス書 4章1~13節
「神に帰る」ことを聖書は「悔い改め」と呼んでいる。それは単に謝罪することではなく、行動を変えることだけでもない。神が世界を見られるようにこの世界を見るようになることも「神に帰る」ことには含まれている。

1.信仰は生活のあらゆる側面に関わっている
紀元前八世紀後半に北王国イスラエルへアモスは預言者として遣わされた。辛辣に預言者が民と社会を批判しているから、人々は信仰をなくしているのではないかと考えるだろう。
しかし、実際は、聖所へと人々は行き、数多くのささげものがささげていた(4-5)。そのような行動が罪を犯している、とアモスは批判している。聖所へささげものをしている王宮の関係者のライフスタイルが問題であったからだ。彼らの贅沢な生活は貧しい人の犠牲の上に成り立っていた(4-1)。礼拝に出席する、献金をする、十分に信仰的だと誤解してはならない。信仰はわたしたちのライフスタイルのすべてに行き渡る。

2.神は災いを通して語りかける
主はイスラエルに対して様々な災厄を下してきた(6-11)。それは、ある一面、罪に対する厳しい罰、下されたのろいだろう。しかし、くり返し、「お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」とある。災いは、「神に帰る」ために与えられた神の語りかけ、警告のことばである。

3.神は宇宙大のスケールの方である
アモスは4:13で、創造者であり、地の支配者、歴史の統治者である主の姿をあげ、賛美と信仰告白をしている。彼の告白する神は、生活の細かい所をチェックするような方ではない。むしろ、スケールの大きな方、私たちひとりびとりを思いつつも、大胆に世界を導かれる方である。信仰理解、神のわざの理解とともに、神ご自身がどういう方であるかの理解においても「神に帰る」ことが求められている。
神が世界を見られるようにすべてを見るという意味で「神に帰る」とき、私たちの神と会うことにむけて私たちは備えられる(12)。「悔い改め」ことこそ、最大の備えである。

神の恵みを無にしない(2013.2.10)

宣教題  : 「神の恵みを無にしない」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ4章22~30節 ガラテヤ2章21節a
ナザレの会堂にいた人々は、主イエスが語られる恵みの御言葉が気に入らないと言わんばかりに、神の恵みを無にしてしまっています。彼らは、憤慨し、主イエスを外に追い出し、ついには崖から突き落とそうとしたのです(28~29節)。なぜ、人々が、主イエスを拒否し、その救いの恵みを受け入れることができなかったのでしょうか。

1.偏見のゆえに 
人々は、主イエスをただの人としてしか捉えていません(22節b)。また、主イエスがカファルナイムでなされた奇跡をナザレでも見たいと願っています(23節)。「医者よ、自分自身を治せ」とは、主イエスが十字架に架られた時の嘲りや罵りと同じです(ルカ23章35~39節)。
こうした偏った理解また間違った思い込みは、主イエスの救いを正しく理解しようとしない偏見です。神の恵みを受け損なうことがないように!

2.ねたみと憎しみのゆえに
主イエスは、旧約の預言者エリヤとエリシャの例をあげて(25~27節)、神の救いの恵みが異邦人にまで及んだことを証ししておられます。ところが、人々は、異邦人に救いが及ぶことを受け入れることができなかったために、憤慨し、ねたみと憎しみをもって、主イエスを死に追いやろうとしました(28~29節)。
主イエスの十字架による罪の赦しの恵みを受け損なうことがないように!

3.不信仰のゆえに
「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)と語られた主イエスは、そうした人々の不信仰に驚かれました(マルコ6章4~6節)。不信仰は、主イエスに出会うのを妨げ、神の恵みを受け入れさせず、その恵みを無にしてしまいます。
信仰は、救いを成し遂げられた主イエスを心から信頼することです。私たちは、このような信頼の心をもって、主イエスに近づくのです。

一人ひとりを大切に

「聖書には、どんなことが書いてあるの」との問いかけをうけることがあります。「一言で言うと、天地宇宙を造られた神さまは、ひとり子イエス・キリストさまの大切な命を犠牲にして、私たち一人ひとりを愛いして大切にしていてくださることが書かれているのです」と答えます。

「大切」という言葉は、「大きく切る」と読めますが、もともとは「ねんごろ」とか「ひたすら」という意味があり、「かけがえのないものとして心から愛する」ということです。
愛の神であるイエス・キリストさまは、あなたをかけがえのない人として大切にしていてくださるのです。『わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ』(聖書)。

神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

宣教に生きる(2013.2.3)

宣教題  : 「宣教に生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章17~24節
初代教会から今日に至るまで、宣教は試練の中で前進してきました。そうした試練の中にあってパウロは、エフェソ教会の指導者たちをミレトスに呼び寄せ、決別説教をしています。そこで語られたエフェソ教会のモデルは、あらゆる教会のモデルです。今回は、パウロ自身の生きた証言をとおして、宣教に生きるとはどういうことかを明らかにします。

1.主にお仕えして 
パウロのエフェソにおける三年間の宣教は、エフェソの人々と共に、彼らの前での裏表のない模範的なものでした(18節)。その宣教は、教会内外から批判されたり、また賞賛されたりしましたが、彼はいかなる時も、喜びと感謝をもって主にお仕えしています。パウロは、自らが取るに足りない者であるとの自覚をもって、滅びゆく魂に対して、労を惜しまず、愛を尽くして、喜んで犠牲を払って主にお仕えしたのです(19節)。
これは、私たちの宣教に対する基本姿勢です。

2.主体的な信仰を抱いて
パウロは、公の場や施設で福音を語り、個人的な交わりの場にあっても福音を伝え教えました(20節)。そして、伝えた福音の内容は、主体的に神に対する悔い改めをなし、主イエスへの信仰を言い表わすことでした(21節)。このことが不明確であると、福音を伝えることに確信がもてないのです。
私たちは、主イエスの愛の迫りをいただいて救いの福音を伝えるのです。

3.聖霊に促がされて
パウロの前途には、苦難や迫害が待ち構えていました。そうした中にあっても彼は、宣教の前進のために、不退転の決意と、固い献身の意志をもっていました。そのような力は、聖霊に促がされるところから生じるものでした(22~23節)。
喜びをもって、走るべき宣教の業のコ-スを走り終えるという使命は、主なる神が私たちに与えてくださいます(24節)。それを成し遂げることができるのは、聖霊の促がしによるのです。