月別アーカイブ: 2012年12月

苦しみからの出発(2012.12.30)

宣教題  : 「苦しみからの出発」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章13~23節
過ぎ行く一年が、悲しみや試練が多かった人、充実した一年で将来の見通しのついた人と様々でしょうが、主イエスの御前ではすべてを感謝をもって迎えることができるのではないでしょうか。本日の聖書箇所に見るように、クリスマスの出来事が喜びや明るさのある中で、悲しみや苦しみといった暗さが前面にでています。ヨセフ一行は、苦しみからの出発をしています。

1.自分を王とする歩み
幼子イエスに対して、エルサレムの人々及び祭司長や律法学者たちは無関心を、何よりも幼児虐殺の首謀者ヘロデ王は猜疑心を抱いていました。これは、私たちが生まれながらに持っている主イエスに対する冷淡で、憎悪に満ちた拒絶する態度に通じるものです。さらに、私たちが、主イエス御自身とその御業と御言葉を受け入れないで、自分を王としたがる罪の姿です。お互いが、今そのことを吟味しつつ、悔い改める必要があります。
この罪の暗さこそが、神の御子イエスをその誕生の時から苦しみへ、そして十字架の苦難へと追いやったのです。ただし、神は確かな御意志と御計画をもって、主イエスを十字架の死に至るまで守られました。

2.キリストを王とする歩み
ヨセフに見る神の御言葉に対する忠実さは、マリアを妻に迎え入れ、幼子をイエスと名付けることにおいて明らかでした(1章24~25節)。そして、彼が幼子イエスを連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと(2章13~15節)、幼子イエスを連れてイスラエルの地に帰ったこと(同20~21節)、ガリラヤのナザレへ行くように告げられたことに従ったこと(同22~23節)に見るように、愚直なまでに従ったのです。
そこには、幼子イエスを王の王、主の主であると信じた者の姿があります。このようにして、神の救いの御業は進められていったのです。
このような従順を生み出すのは、「日々、わたしたちを担い、救われる神」の確かさにあります(詩編68編20~21節)。私たちは、この神に感謝し、神を讃えましょう。

クリスマスの驚異(2012.12.23)

宣教題  : 「クリスマスの驚異」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章10~12節
クリスマス、それはキリストにひれ伏して拝む礼拝を意味しており、喜びにあふれる時です。この目をみはるような喜びは、人が作り出すものではなくて、神からいただくものです。それは、どのような中から生まれてくるのでしょうか。

1.素朴さの中に
最初のクリスマスは、誠に素朴な形で起こりました。神の御子イエスは、飼い葉桶で誕生されましたが(ルカ2章7節)、素朴でという以上に粗末な姿においてでした。
神の御子は、東の方から来た占星術の学者たちに対するように、幼子のままで出会ってくださったのです。
この神の素朴さは、キリストの生涯を貫き、十字架にまで至っています。私たちは、神の救いの現れである十字架において、神との出会いをさせていただくのです。

2.単純さの中に
主の天使の知らせを聞いた羊飼いたちは、そのことを単純に信じて神の御子イエスに出会いました(ルカ2章8~16節)。学者たちは、星に導かれるという単純なあり方で、喜びにあふれて幼子イエスに出会い、このお方を真の救い主と信じて、贈り物を献げて礼拝しました。
人間が単純に神を信じ、互いに信頼し合うこと、これが人間が人間とし生きる基本です。クリスマスは、神がこの単純さの中に御子イエスを託してくださった時なのです。

3.純真さの中に
イザヤは、御子イエスの誕生の約七百年前に、救い主の誕生を預言しました(イザヤ書9章5節)。それを成し遂げられたのは、「万軍の主の熱意」であり(同6節)、私たちを罪と死と滅びから救い出そうとされた神の純真さ、愛からでした。
この神の愛に対して、学者たちもまた持てる限りの愛を献げかつ安らいでいます。そして、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、新しい生き方を始めました。それは、私たちの新しい生き方でもあり、神の純真さと人間の純真さが出会う経験をする時なのです。

ひとりの誕生が世界を変える(2012.12.16)

宣教題  : 「ひとりの誕生が世界を変える」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 7章1節~17節
クリスマスは、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)と呼ばれる男の子の誕生を祝う日である。そこで述べられているイエスの誕生の預言は、イザヤ書7章をその背景としている。

1.戦いに巻き込まれるダビデの家の王
紀元前8世紀、イスラエルの王ペカとアラムの王レツィンは同盟関係を結び、大国アッシリアに対抗しようとした。ユダの王アハズはこの同盟に加わらなかったため、二人の王の軍隊からの攻撃を受け、ユダの民はそれゆえに動揺した(1−2)。
主は預言者イザヤを通して、彼らの計画は実現しないと断言した。主がダビデと結んだ契約のゆえに、「タベアルの子を王としよう」とする計画を挫くからである(7)。だから、主を信じて、堅く立つために(9)、イザヤはアハズにしるしを求めよ、と勧めた(11)。しかし、アッシリアの軍隊という目に見える武力こそがユダの安泰のしるしだと考えるアハズは、主からのしるしを求めなかった(12)。

2.ひとりの誕生というしるし
アハズの思惑を見透かした主は、自ら彼にしるしを与えた。それは、妊娠しているひとりの若い女性が男の子を産むこと、彼女が彼をインマヌエル(神が我々と共におられる)と呼ぶことであった。この子どもが三歳になる頃までに、ふたりの王とその国は滅ばされると主は約束された。主が与えたこのしるしそのものは、小さく、普通の出来事である。しかし、それが、神は世界を動かし、変え、ダビデとの契約を守ることを表している。
イエスの誕生は、ベツレヘムという小さな町でひっそりと起こった。しかし、神はそこに共にいて、働かれていた。だから、イエスの誕生は、神が驚くべきことを世界中になされることを表すしるしとなった。このように、小さいことと思える出来事も、神の大きな計画の欠くことのできない一部を担っている。どのような状況下でも動揺することなく、むしろ「神が共におられる」という信仰に立ってなされる小さな愛のわざは、同様に神が世界を変え、ご計画を進めておられる、という驚くべき事実を指し示すしるしである。

導く星(2012.12.9)

宣教題  : 「導く星」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~9節

占星術の学者たちは、神が備えられた星の導きを受けて(民数記24章17節)、遠い道を旅し、ついに神の御子に出会うことができました。私たちの人生が、星という一時的に現れるものにではなく、いつも共におられる神に導かれることほど大切なことはありません。それによって、私たちの人生に新しい歩みが始まるのです。

1.神の導きは確かである
学者たちは、まだ真の神を知ることのない暗い世界に生きていました。それだけに、求めることにおいて熱心であり、真剣であり、切実であったと思われます。彼らは、特別な星の動きを自分たちの知恵や力によって判断してエルサレムまで導かれたのですが、そこには限界があって行き詰ってしまいました。彼らが御子イエスの誕生地ベツレヘムに導かれるのには、神の御言葉による導きが必要だったのです。
神の導きとその御言葉に対する信頼と服従に生きるときに、神は大いなる喜びをもって報いてくださいます。そこには、神が共におられるという確かさ、神の導きに誤りがないという確かさ、神の御言葉は偽ることがないという確かさがあるからです。私たち一人ひとり、教会、そして世界は、この神の導きを必要としているのです。

2.神の導きの中を歩み続ける
学者たちは異邦人でしたが、ひたすら神に向かう姿勢をもって、その導きに従う人たちでした。彼らには、神の御子イエスに出会う確信と喜びがありました。それに対して、エルサレムの人々は、ヘロデ王に対する恐れのゆえに、将来に不安を覚えました。祭司長や律法学者たちは、聖書知識を駆使して神の御子の誕生地を見出したものの、無関心で冷淡な態度をとりました。ヘロデ王にいたっては、ユダヤ人の王の座を奪われるのではとの不安から、憎悪の念に駆られたのです。
私たちは、神に対する無関心、冷淡、憎悪といった態度でいるのではなく、神の御子イエス・キリストの救いに与かる歩みを始めることが大切です。この神の救いと導きの中を歩み続けることは、人生の様々な不安や罪と死の恐れが取り除かれ、喜びに変えられる歩みとなるのです。これこそ、学者たちと同じ歩みなのです。

最も小さいもの(2012.12.2)

宣教題  : 「最も小さいもの」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~6節

神の御子イエスの誕生の時期と場所が大まかに報告されています(1節)。その場所は、旧約聖書に預言されていたように「ベツレヘム」であり(6節、ミカ書5章1節)、その町は小ささを象徴するものでした。ここにおいて、神は救いの御業を始められたのでした。

1.最も小さいものを大切にされる神
神の御子は、大きな都エルサレムではなく、最も小さな町ベツレヘムに誕生されたことに注目したいと思います。このことを通して、神は小ささを大切にされるお方であることを示唆しています。これは、聖書を貫く大切なテ-マです。その例としては、イスラエル民族が選ばれたこと(申命記7章6~8節)、神の御子イエスの地上における父親と母親の役を神から担わされたヨセフとマリアが貧しく小さな存在であったこと(ルカ1章48節)などに見ることができます。
主イエスは、私たちの救い主であり、私たちと共にいてくださる牧者として、神から遣わされて来られました(1章21~23節)。神は、それほどまでに、小さな私たちを愛し大切にしてくださるお方なのです。主イエスの下に赴く一人ひとりとならせていただきましょう。

2.最も小さいものを用いてくださる神
愛の神は、この世における小ささ、貧しさ、卑しさを退けられるお方ではありません。かえって、大切にして用いてくださり、御自身の御業を進められるお方です。これもまた、聖書を貫くテ-マであり、ヨセフとマリア、羊飼いたち、そして東の方から来た学者たちが証ししています。
私たちは、信仰の歩みが深まるにつれて、自らが最も小さなものであることを自覚するようになります(1コリント15章9節、エフェソ3章8節、1テモテ1章15節)。神は、そのような最も小さいもの一人ひとりを用いて、御自身の恵みの御業をなされるのです。私たちは、自己卑下したり、高慢になったりしないで、神への信仰と希望と愛を働かせていただいて、神に用いていただこうではありませんか。