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神の愛の冒険(2017.12.24)

宣教題 「神の愛の冒険」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネ3章16~21節

 クリスマス、それは神が愛ゆえに冒険をされて、私たち一人ひとりの所に来てくださった出来事です(16節)。

1.キリストが十字架に向かう冒険の道  16節a
 神の愛の対象は、まぎれもなく「世」です。それは、愛の神を受け入れない浮き世の世界であり、そこに生きる人の心と生活の罪ある有りさまです。神は、その「世」を無条件の絶対的な愛を持って愛していてくださるのです。
 さらに驚くべきことに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と神の愛の深さが現されました。愛するに価しない者に対して、キリストを十字架に架けるという、最高の価値ある御業を成してくださったのです。神の愛が集中したのは、キリストが十字架に向かうという冒険の道においてでした。

2.一人ひとりが信仰に生きる冒険の人生  16節b
 神の愛の冒険に対して、私たち一人ひとりもまた人生の冒険へと招かれています。その冒険とは、自分の殻に閉じこもって生きることから、神の愛を受け入れ、神に対する信仰に生きることです。それは、愛の神から失われた滅びのなかを生きるのではなく、キリストの復活にあずかって、神との永遠の交わりに生きることです。それゆえに、キリストが救いを成し遂げてくださった十字架を仰ぎ見るのです。神は私たち一人ひとりに、光を選ぶのか、闇を選ぶのかを問いかけておられます(17~21節)。
 「ヨハネによる福音書3章16節」は、私たち一人ひとりが生涯を通じて、日々に心の中に呼び起こして自らに語りかける御言葉です。それは、ただ信仰によってのみキリストに寄りすがり、健やかな愛の心に立ち直り続けることです。

父の愛あふれて(2017.2.26)

宣教題  「父の愛あふれて」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ15章11~24節
この「放蕩息子のたとえ」は、今日の私たちと関わりのない話が語られているのではなく、私たちの人生そのものが描き出されている物語です。正確に言うならば、「失われた息子のたとえ」なのです。

1.人は自由を求める  11節~16節
弟息子は、自由を求めて旅立っています。ところが、その自由を放蕩の限りを尽くして身を持ち崩し、動物以下の生活を強いられました。
人は、自由を誤らせると、罪の誘惑に陥って本来の自由に生きることを失わせます。善悪を区別する力を失わせます。愛情を弱らせ、良心と理性にしたがって生きることを失わせます。ここに、父なる神を離れて生きる人の失われた姿があるのです。

2.人は本心に立ち返る必要がある  17節~20節a
そこで、弟息子は「我に返って」本心に立ち返り、「天」すなわち父なる神に対する罪と、「お父さん」すなわち共に生きる人に対する罪を告白しています。そして、すがる思いをもって「父親のもとに行った」のです。
ここに、父なる神のもとに立ち返る人の姿が表されています。そのまま、ありのまま、立ち上がって父なる神のもとに立ち返る決断をすることが必要なのです。

3.人は神の愛によって回復される  20節b~24節
そのように立ち返った弟息子に対して父親は、「見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。愛は見分ける力があり、走る力があり、無条件に受け入れる力があるからです。父親は、弟息子のそのままを覆い、息子であるしるしの指輪をはめさせ、新しい出発のための履物を履かせ、子牛を屠って迎え入れました。
ここに、独り子イエスを十字架にかけてくださった神の愛が表されています。愛の神は、自分の存在の価値と意味を見いだして、新たに生きる者を喜ばれるのです。

この小さな者たちの一人にしたのは(2016.4.17)

宣教題  「この小さな者たちの一人にしたのは」     宣教 岩上 祝仁師
聖 書  マタイ25章31~46節
トルストイはこのたとえ話をもとに「愛のあるところに神はいる」という小説を書いた。靴屋のマルティンとして有名な動画である。愛の業の大切さを教えている。
マタイは主イエスのたとえ話を主の最後の説教として書いて、重要さを現した。

1. このたとえの中心は単に行ったか行わなかったかではなく、心から出て来る行動に主イエスは注目しておられる。
このたとえには、どちらも・・・・してくれた。・・・・してくれなかったという表現で、私たちの行動が問われている。しかし、良くたとえを読んでみると、行った者も、行わなかった者もどちらも「いつ、わたしは しましたか?(しませんでしたか?)」と語っている。それは無意識の行動、もう少し言い換えると私たちの普段のあり方そのものが問われている。私たちの心と性質が主の前に問われている。「木のよしあしはその実によって知られる。」今朝、まず私たちが罪を悔い改め、主イエスにつながることによって、良き実を結ぶ者とされていることを確認しよう。

2. 主イエスは、この言葉で私たちの生き方そのものを変えようとされた。
私たちは小さい者と相手を認識した時点で、その人を見下し、自分を高めてしまう傲慢の誘惑に陥っている。そして、小さい者のために何かが出来ることで、自己満足してしまう。さらに小さい者から見返りがない時には不平不満が出て来ることにもなる。そんな私たちに対して、主イエスは、最も小さい者のひとりにしたのはわたしにしたのですと語られる。主イエスの愛に応答して、愛の業に励む様にと変えられるからこそ出来るようになる。自分のためでもなく、相手のためでもなく、主イエスのために愛に生きる様にとの主の招きである。
最後に、この神の愛に生きるためには、自らのもっている人間的な愛では到底間に合わない。自らの汚れた愛を主イエスの十字架によってきよめて頂き、聖霊によって私たちの心に注がれ、満たされる神の愛がこれを可能にする。そして、真実に愛を求め、愛に生きる者に主は永遠の御国を継がせて下さるお方である。

仰ぎ見て生きる(2015.1.25)

宣教題  「仰ぎ見て生きる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章15~23節
「ヨハネによる福音書」は、真実な神の愛が響き渡っています。その神を仰ぎ見ることが信じることであり、そこから神と私たちとが響き合う間がらとしての人生がつくられていくのです。それは、どのように生きる日々となり、人生となるのでしょうか。

1. 主体的に生きる
復活された主イエスは、ペトロにこれからの生涯の生き方について話されました。ペトロが、仲間のヨハネを見て、「主よ、この人はどうなのでしょうか」と尋ねました。それに対して、主イエスは「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われました(20~22節)。それは、人がどう見ているか、何と言っているかでなく、神がどう見ておられるか、何といっておられるかに関心を持つようにということです。
このように、主イエスは、ご自身を仰ぎ見て、主体的に生きることを一人一人に勧められるのです。主イエスは、一人一人の魂のために十字架にお架かりくださり、救いの道を開いてくださることによって愛を現してくださいました。人を見てがっかりしたり、逆に威張ったりして振り回されるのではなくて、一人一人を神は愛してくださり、期待しておられることを知って歩み出したいものです。

2. 使命に生きる
ペトロは、主イエスの十字架を前にして裏切ったことを悩み、心痛み悔いていました。主イエスは、ペトロに「わたしを愛しているか」と問いかけられたとき、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えていますが、それを三度も繰り返されています(15~17節)。主イエスを信じることは、変わらずに愛し抜いてくださる主イエスを愛することなのです。
続いて、主イエスは、ペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と使命を託し、「わたしに従いなさい」と招かれたのです(15~19節)。このようにして、主イエスはペトロを信頼され、ペトロもまた主イエスを信頼したのです。
十字架で身代わりの死を遂げられ、復活された主イエスを仰ぎ見るならば、私たちの生き方は変わってくるのです。

愛の秘密(2014.6.29)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ18章15~18節、25~27節 1ペトロ3章18節abc

聖書は、多くの人の神との出会いが記されている書といえるでしょう。ここでは、ペトロと主イエスとの出会い、その出会いが閉ざされずにどのように続いていったのかが語られています。それは、神の愛の秘密とも言えるような出来事でした。

1.私ではない  18章17節、25節、27節
ここでは、主イエスが十字架にお架かりなる前日に、その主イエスを裏切るペトロが語られています。ペトロは、主イエスの弟子だと指摘されたことに対し て、「違う(私ではない)」と言って、三度も主イエスを拒んだのでした。ここには、強い決意を持っていたペトロの無力さ、自分の決意や努力で神の前に正し く歩むことのできない彼の姿があらわにされています。この時、ペトロと主イエスとの距離は門の内外のわずか数メートルに過ぎなかったことでしょう。そんな に近くにおられる主イエスに「私ではない」「知らない」と言ったのでした。
「私ではない」と言い張って主イエスと関わりを持とうとしないで、神に背を向けて生きていこうとすることが罪なのです。その意味では、ペトロと私たちとは同じであることを認めざるを得ないのです。

2.わたしである  18章5節、6節、8節
この時同時に、主イエスは人々に捕らえられて、大祭司のもとに連行され尋問を受けておられました(1~14節、19~24節)。「ナザレのイエスだ」と 答える人々に対して、主イエスは「わたしである」と言われたと三回記されています。ここで主イエスは、ご自分を公然と明らかにされたのでした。このように して、裏切る者たちのために、主イエスは裏切ることなく十字架の道を歩まれたのでした。
このように主イエスは、私たちの弱さや罪ある者であることをよくよく知ったうえで、それらを包みこみ、見捨てることなく、身代わりとなって十字架に架 かって救いを全うしてくださったのです。それは、主イエスの愛を受けるに値する者として「神のもとへと導くため」だったのです(1ペトロ3章18節)。こ の主イエスの愛に包まれて歩み続けていきましょう。

クリスマスの驚異(2012.12.23)

宣教題  : 「クリスマスの驚異」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章10~12節
クリスマス、それはキリストにひれ伏して拝む礼拝を意味しており、喜びにあふれる時です。この目をみはるような喜びは、人が作り出すものではなくて、神からいただくものです。それは、どのような中から生まれてくるのでしょうか。

1.素朴さの中に
最初のクリスマスは、誠に素朴な形で起こりました。神の御子イエスは、飼い葉桶で誕生されましたが(ルカ2章7節)、素朴でという以上に粗末な姿においてでした。
神の御子は、東の方から来た占星術の学者たちに対するように、幼子のままで出会ってくださったのです。
この神の素朴さは、キリストの生涯を貫き、十字架にまで至っています。私たちは、神の救いの現れである十字架において、神との出会いをさせていただくのです。

2.単純さの中に
主の天使の知らせを聞いた羊飼いたちは、そのことを単純に信じて神の御子イエスに出会いました(ルカ2章8~16節)。学者たちは、星に導かれるという単純なあり方で、喜びにあふれて幼子イエスに出会い、このお方を真の救い主と信じて、贈り物を献げて礼拝しました。
人間が単純に神を信じ、互いに信頼し合うこと、これが人間が人間とし生きる基本です。クリスマスは、神がこの単純さの中に御子イエスを託してくださった時なのです。

3.純真さの中に
イザヤは、御子イエスの誕生の約七百年前に、救い主の誕生を預言しました(イザヤ書9章5節)。それを成し遂げられたのは、「万軍の主の熱意」であり(同6節)、私たちを罪と死と滅びから救い出そうとされた神の純真さ、愛からでした。
この神の愛に対して、学者たちもまた持てる限りの愛を献げかつ安らいでいます。そして、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、新しい生き方を始めました。それは、私たちの新しい生き方でもあり、神の純真さと人間の純真さが出会う経験をする時なのです。

想定外の愛(2012.10.7)

宣教題  : 「想定外の愛」   宣教:   鎌野 直人  協力牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 3章1~16節

世界がこうなればいいのに、と思うことがあるでしょう。「物事が正しく行われればいいのに」、「ものだけがすべてではないのに」、「他の人と親しくなれればいいのに」、「人は、世界はもっと美しいはずなのに」。いつの時代も、どこに住む人も、そう願っています。けれども、現実はそうではありません。

1.想定外の条件
ユダヤ人の指導者であったニコデモという教師もそう願っていました。「神の国を見れば、永遠のいのちを得ることができれば、そんな違った世界を見る事ができる」と求めていました。そこで、当時はやりの教師であるイエスの所に尋ねに行きました。ところが、イエスは「新たに生まれなければ」(3)とか「水と霊によって生まれなければ」(5)というニコデモにとっては想定外の条件を突きつけてきます。今まで考えたこともなければ、理解もできない条件でした。
「すばらしい世界が来るように」と願う私たちに聖書が突きつける条件は、私たちにとっては想定外のものばかりです。いや、条件の意味さえも理解できません。自分が今置かれている枠組みがそれをとどめているのです。

2.想定外の愛
しかし、天地を造られた神が私たちのためにこの想定外の条件を満たして下さいました。神がその独り子イエスを与えてくださることによって、それも十字架につけることによってです。私たちのために大切な独り子を与える神の愛は想定外です。神を知ろうともしないし、見ようともせず、むしろ嫌っている世界のために、神は最後まで約束を守ると語られているからです。むごたらしい十字架があなたを、そして世界を癒して、すばらしいものを回復すると約束されているからです。
こんな想定外の愛を受け入れることができるでしょうか。自分の枠にこだわり続ける限り、受け入れることはできません。そのようなは神のすばらしい世界を経験することなく人生の終わりを迎えるでしょう。しかし、イエスを信じる時、この神の賜物を喜んで受け取る時、新しい世界があなたから始まるのです。

神様の愛・真実な愛(2010.6.20)

宣教題  : 「神様の愛・真実な愛」   宣教:   水谷 潔  師
聖    書  : ルカ 19章1節~10節
この聖書箇所において私たちは神様の真実な愛を三つの面で見ることができます。

1.価値創造的な愛(6節)
イエス様は最も愛するに値しない人物を最優先で愛されました。人間の愛の多くは「価値発見的愛」です。相手の中に価値を見出し、それを根拠にその価値の持ち主である相手を愛します。
しかし、神様の愛は相手の価値に無関係で愛し、愛された側に価値を造り出す「価値創造的愛」なのです。価値があるから愛されているのではなく、この愛で愛されているから、私たちは価値があるのです。

2.すすんで犠牲を払う愛(7節)
愛は犠牲を惜しみません。イエス様はザアカイと交わりを持つことによって、本来ザアカイが受けるべき非難を身代わりとなって受けています。しかも「あなたの家に泊まることにしてあるから」(新改訳)とすすんで自分から非難を受ける愛の配慮をしておられます。
このすすんで犠牲を払う愛は、ローマ5章8節が示すように今日、十字架の愛として私たちに注がれているのです。

3.人を造り変える愛(8節)
そのようなイエス様の真実の愛はザアカイを内側から劇的に変えました。あるままで愛された者はあるがままではいられません。そのような愛に応える生き方、愛してくださった方に喜ばれる生き方へと内側から変えられるのです。

結論「木の上から木の下に」(10節)
「失われた」とは「定位置から外れている」という意味です。この愛を知らず、受け止めず、応答しないならそれは「失われている」のです。
私たちの定位置は、木の下です。ザアカイのように木の下でイエスをお迎えするのが定位置です。まだ、木の上でイエス様を眺めている方は、呼びかけに応えて木の下に降りましょう。また、クリスチャンは木から降りた者らしい生きかたをと願います。

ひとり子をたもう神の愛(2010.3.14)

宣教題  : 「ひとり子をたもう神の愛」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖    書  : ヨハネ 3章16節~21節
私たちはこの世に生まれてから、いつも愛を求めて生きています。赤ちゃんの時はお父さんお母さんの愛、大人になると家族や仕事などです。このように私たちはいつも誰かに愛を求めて生きているのです。

1.神はこの世を愛して下さった。
神様はこの世を愛して下さいました。しかし、この世は神様を無視し、罪によって失われた世界と言えます。神様に背いて、罪に満ちた私たちを、神様は限りなく愛して下さっているのです。その愛は、無私で無償の愛、人種的偏見や人間的差別もありません。神様は、私たちが罪人であろうとも愛して下さっているのです。神様の愛は、どのように表されたのでしょうか?

2.神はそのひとり子を賜ったほどに愛して下さった。
キリストの十字架によって、神様の愛が具体的に表されました。人間は罪を持ったままでは絶対に御国に行くことは出来ません。でも神様は、全ての人が救われて御国に行くことが出来るように、キリストをこの世に送られたのです。
神様はどうして、これほどまでにキリストの十字架と言う大きな愛の犠牲を払って下さったのでしょうか?

3.神は滅びから永遠の命に移すほどに愛して下さった。
キリストは、私たちが永遠の滅びから救われて永遠の命を得る為に、私たちの罪の罰の代わりに十字架で受けて死んで下さったのです。
永遠の命とは、肉体の死だけではありません。誘惑に打ち勝つ命であり、試練や困難の中にいても私たちが生き続けることが出来る命なのです。
献身する前、私は試練に遭いました。私を支えてくれたのは、私の祈りを聞かれていた神様だけでした。それまでの私は、人に言えない罪もありました。それにも関わらず私を愛し続けて下さっている神様は、信じ求める者に勝利を与えて導いて下さるお方なのです。日々、神様の愛を求めて、キリストによる救いの勝利を得ましょう。