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この小さな者たちの一人にしたのは(2016.4.17)

宣教題  「この小さな者たちの一人にしたのは」     宣教 岩上 祝仁師
聖 書  マタイ25章31~46節
トルストイはこのたとえ話をもとに「愛のあるところに神はいる」という小説を書いた。靴屋のマルティンとして有名な動画である。愛の業の大切さを教えている。
マタイは主イエスのたとえ話を主の最後の説教として書いて、重要さを現した。

1. このたとえの中心は単に行ったか行わなかったかではなく、心から出て来る行動に主イエスは注目しておられる。
このたとえには、どちらも・・・・してくれた。・・・・してくれなかったという表現で、私たちの行動が問われている。しかし、良くたとえを読んでみると、行った者も、行わなかった者もどちらも「いつ、わたしは しましたか?(しませんでしたか?)」と語っている。それは無意識の行動、もう少し言い換えると私たちの普段のあり方そのものが問われている。私たちの心と性質が主の前に問われている。「木のよしあしはその実によって知られる。」今朝、まず私たちが罪を悔い改め、主イエスにつながることによって、良き実を結ぶ者とされていることを確認しよう。

2. 主イエスは、この言葉で私たちの生き方そのものを変えようとされた。
私たちは小さい者と相手を認識した時点で、その人を見下し、自分を高めてしまう傲慢の誘惑に陥っている。そして、小さい者のために何かが出来ることで、自己満足してしまう。さらに小さい者から見返りがない時には不平不満が出て来ることにもなる。そんな私たちに対して、主イエスは、最も小さい者のひとりにしたのはわたしにしたのですと語られる。主イエスの愛に応答して、愛の業に励む様にと変えられるからこそ出来るようになる。自分のためでもなく、相手のためでもなく、主イエスのために愛に生きる様にとの主の招きである。
最後に、この神の愛に生きるためには、自らのもっている人間的な愛では到底間に合わない。自らの汚れた愛を主イエスの十字架によってきよめて頂き、聖霊によって私たちの心に注がれ、満たされる神の愛がこれを可能にする。そして、真実に愛を求め、愛に生きる者に主は永遠の御国を継がせて下さるお方である。

愛の広さ(2009.9.6)

題   : 「愛の広さ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章38節~41節
主イエスは、ガリラヤを通過してエルサレムへの道を歩み続けながら、弟子たちに必要な訓育をされました。この箇所では、キリストの愛に根ざした広い愛は、どうすれば培かわれていくかを語っています。

1.キリストの側に立っているなら  38~40節
ヨハネは、主イエスの名を使って業をしている者が「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」、と報告しています。このヨハネの熱狂的な姿勢には、誤った仲間意識、偏狭で独善的な分派心があり、主の御業を妨げるものでした。
それに対して主イエスは、たとえ仲間でなくても、主イエスの名を慕い、その名を使って業をしているのであれば、「わたしたちの味方である」と穏やかに語られました。主イエスは、キリストによって、キリストのためになされているかどうかを問われるだけで、そのような広い愛の心が大切であることを教えられたのです。
私たちは、キリストに結び合わされた者としてキリストの側に立ち、キリストの愛をもって互いに受け入れ合う愛の広さと、互いに謙遜をもって仕え合うたくましさが必要なのです。

2.キリストの心をもっているなら  41節
主イエスは、無きに等しいと思われている小さな者に対しても、愛を注がれました。そのキリストの名のために成される愛の業は、たとえ小さなことであっても祝福されました。
主イエスが、最も大きな広い愛を注がれたのは十字架においてでした。この愛に生かされているにもかかわらず、私たちの愛は小さなものになりがちです。私たちが、キリストにある広い愛を培っていただくのは、「すべての聖なる者たちと共に」教会に生きることによってです(エフェソ3章17~19節)。愛は、教会の互いの間で培われ、それが教会の外にも拡がっていくのです。
私たちは、教会を愛し(詩編26編8節)、温かい愛の拡がりをつくり出していく聖徒の群とさせていただきましょう。