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父の愛あふれて(2017.2.26)

宣教題  「父の愛あふれて」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ15章11~24節
この「放蕩息子のたとえ」は、今日の私たちと関わりのない話が語られているのではなく、私たちの人生そのものが描き出されている物語です。正確に言うならば、「失われた息子のたとえ」なのです。

1.人は自由を求める  11節~16節
弟息子は、自由を求めて旅立っています。ところが、その自由を放蕩の限りを尽くして身を持ち崩し、動物以下の生活を強いられました。
人は、自由を誤らせると、罪の誘惑に陥って本来の自由に生きることを失わせます。善悪を区別する力を失わせます。愛情を弱らせ、良心と理性にしたがって生きることを失わせます。ここに、父なる神を離れて生きる人の失われた姿があるのです。

2.人は本心に立ち返る必要がある  17節~20節a
そこで、弟息子は「我に返って」本心に立ち返り、「天」すなわち父なる神に対する罪と、「お父さん」すなわち共に生きる人に対する罪を告白しています。そして、すがる思いをもって「父親のもとに行った」のです。
ここに、父なる神のもとに立ち返る人の姿が表されています。そのまま、ありのまま、立ち上がって父なる神のもとに立ち返る決断をすることが必要なのです。

3.人は神の愛によって回復される  20節b~24節
そのように立ち返った弟息子に対して父親は、「見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。愛は見分ける力があり、走る力があり、無条件に受け入れる力があるからです。父親は、弟息子のそのままを覆い、息子であるしるしの指輪をはめさせ、新しい出発のための履物を履かせ、子牛を屠って迎え入れました。
ここに、独り子イエスを十字架にかけてくださった神の愛が表されています。愛の神は、自分の存在の価値と意味を見いだして、新たに生きる者を喜ばれるのです。

あなたを待っておられる主(2010.12.12)

宣教題  : 「あなたを待っておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネ  1章9~13節
待降節は、救い主を待つ、再臨の主を待ち望むという時です。しかし、ここでは「待つ」ということを百八十度転換させて、イエス・キリストが私たち一人ひとりを待っておられるということに想いを馳せ、それに応えていくときとしたいものです。

1.「まことの光」に立ち返る  9節
イエス・キリストこそが、「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」お方でした。この世界は、今なお神の恵みに完全に服していませんし、多くの人が罪と死の支配にとらわれたままの暗闇の中を歩んでいます。
ですから私たちは、「まことの光」に出会い、立ち返ることが必要なのです。それは、自分が作り出した光の中を歩むことではなく、イエス・キリストが十字架の死と復活によって照らし続けてくださる「まことの光」の中を歩み続けることなのです。
私たちは、「まことの光」であるイエス・キリストを目の前に見ているか、それとも背を向けて暗闇の影を見ているかを問いかけられているのです。

2.神の子とされる  12節
イエス・キリストは、「神の子となる資格を与え」ようと私たちを招いておられます。神の子とされるのは、人間の血筋によってでもなく、人間の努力によってでもなく、また人間の願望によってでもなく、ただ「神によって生まれた」との神の一方的な恵みによるのですから、神が最後まで責任をもって導いてくださいます(13節)。
私たちがそれに与るには、イエス・キリストご自身と、このお方が語られた御言葉と御業を信じ、それを自らにあてはめて受け入れることが必要です。そして、私たちが安んじてイエス・キリストに身を任せていくなら、神の子としての歩みを確かなものにしてくださるのです。