ヨシュア」カテゴリーアーカイブ

民をひとつにするもの(2015.9.20)

宣教題  「民をひとつにするもの」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア22章21~29節 エフェソ4章4~6節
クリスチャンは孤独ではない。神の恵みによって、神の民という「ひとつの民」に入れられた者である。しかし、そのことを頻繁に忘れてしまう。

1. 分裂の危機
神の約束された地の土地の分配が終わったので、ヨルダン東岸を所有地とする二部族半の人々は帰還した(9節)。途上、彼らはヨルダン川沿いにひとつの大きな祭壇を築いた(10節)。これを聞いたイスラエルの人々は、驚き、軍を送ろうとした。しかし、まず、祭司ピネハスらをこの二部族半の所有地へと送り(11~14節)、シロ以外にささげものをする祭壇を築くことは主への背信行為であると訴えさせた(15~21節)。一方で、二部族半の人々は、川の東西に別れていても将来にわたってイスラエルがひとつの民であることの証拠とするためにこの祭壇を建てたと語り、ピネハスらを納得させた(22~31節)。

2. 忘れる、思い出す
十二の部族からなるイスラエルが「ひとつの民」であることは、すべてのイスラエルの人々にとって重要であった。ピネハスは、二部族半が主への背信行為を行うとすべての民の上に主の怒りが下ると考えていた(18節)。二部族半の人々は、自分の子どもたちが「ひとつの神の民に属してはいない」と言われ、神の民から離れ、信仰を失うことを恐れていた(24~25節)。自分たちが「ひとつの民であること」を、相手側が忘れるのではないか、その結果、自分たちが主の祝福から離されるのではないか、と懸念した。そこで、「ひとつの民である」ことを忘れないように、ピネハスは失敗した歴史を思い出すように語り(17節, 20節)、二部族半の人々は主という同じ神を礼拝していることを祭壇を通して思い出すように求めた(28節)。
クリスチャンも、自分たちが神の恵みによってひとつの民とされていることをすぐに忘れてしまう。だから、現状がどうであろうとも自分たちはひとつの民であることを常に思い出す必要がある。そのために、聖書が物語る歴史、人の失敗と神のあわれみの歴史を思い出し、希望を共有すること(エフェソ4章4節)、そして、すべてのものの父である神を共に礼拝する、ひとつのバプテスマによって生み出された民であることを思い出し続けること(4章5~6節)が大切である。毎年、毎週、毎日、礼拝を通して、「ひとつの民であること」を心に刻みつけ続けることが私たちの霊的な歩みを強くする。

信仰の報酬(2015.8.23)

宣教題  「信仰の報酬」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア14章6~15節 ヘブライ11章1節

「信仰の報酬」は、終わりのさばきの時に、主からいただくものとは限らない。今、このとき、私たちに与えられるものでもある。
約束の地へと出発したイスラエルは、カデシュ・バルネアから十二人を探索のために送った。よい地という報告を彼らは携えてきたが、大きな町とアナク人の子孫がいるため敗北するだけだ、と十人が語り、民の心を挫いた。しかし、カレブとヨシュアは、主が与えてくださる、と進言した。民の不信の罪のため、主はイスラエルに40年の放浪を与え、カレブとヨシュアには約束の地での嗣業を約束した(民数記13〜14章、申命記1:19-46)。

1. カレブの信仰
45年が過ぎた。85歳になったカレブはヨシュアに嗣業の地を願った(ヨシュア14:6-12)。彼のことばに彼の信仰の姿を見る。まず、45年前、カデシュ・バルネアで主に従いとおした姿(14:7-8)。次に、主が約束通り、45年間、生きながらえさせてくださったと信じ続けている姿(14:10)。そして、これからも主が共にいてくださって、アナク人を主が追い払ってくださるという確信(14:12)。神への信頼と、神への信頼から生まれる神への忠実さに生きている。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11:1)そのものである。

2. カレブへの信仰の報酬
カレブに主は報酬を与えられた。45年経っても変わらないカレブの肉体的な力(14:11)や彼に与えられる嗣業の土地(14:13)。しかし、これらはだれに対してもそうである訳ではない。年をとれば、弱るし、望んでいたものが必ず与えられる保証はない。しかし、もう一つの主からの報酬があった。45年間、一貫して変わらない彼の信仰そのものである。45年間、主はカレブに信仰を与え続け、年老いてなお、その信仰に生かさせている。
自分の信仰がもっと強くなったら、と自分で自分の信仰を強くできるかのように語る。しかし、信仰は信仰の報酬として神から与えられるものである。与えられたものに生きる毎に、さらに与えられる。だからこそ、偉大な与え主である方を覚え続けたい。

賢明な計略(2015.7.19)

宣教題  「賢明な計略」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア9章16~26節 1コリント3章18節

数ある選択肢の中から何を選ぶかで、その人が賢明であるか、明白になる。イスラエルの連戦連勝のしらせにどのように対応するかで、人々の知恵が試された。

1. 賢明そうな計略
イスラエルが攻略したアイからそう遠くない場所に住んでいたギブオンの民は、生き残りのために計略を立てた。古びた袋、靴、外套、干からびたパンを準備して、遠くからの旅人を装い、イスラエルの所に向かった。和を講じ、自分たちが滅ぼされることがないようにと願って行動した。彼らの虚偽をイスラエルは見破ることができず、契約を結んでしまった。三日後にギブオンの民の嘘に気づいたが、時すでに遅く。契約のゆえに、彼らを滅ぼし尽くすことはできなくなった。奴隷の身分ではあるが、ギブオンの民は命が保たれた。失うものも多くあったが、彼らなりの賢明な計略は、それなりに功を奏した。

2. 愚かな計略
ギブオンの民とは対照的なのが、彼ら以外の住民たちである(1~2節)。戦闘によってイスラエルに対抗しようと考えて、諸国連合を結成した。これは愚かな計略であった。10章以降に描かれているように、彼らはイスラエルの前に無残にも敗北する。いのちさえも失った。
彼ら同様に愚かさであったのは、イスラエルの民自身である。旧来の住民たちを滅ぼし尽くすように主から命じられていたのだが、ギブオンの民の計略を見抜くことができず(疑問には思ったが)、主の指示を求めることもなかった(14節)。善かれ悪しかれ、ギブオンの民との共存が彼らの運命となった。

3. 賢明な計略
最も賢明であったのは、2章に登場したラハブである。主のなされたわざを聞いて、主を神として認めた一方で、ギブオンの民のような策略を立てることはしなかったからだ。彼女は、イスラエルの神とその民を信頼することを選び取り、その結果、命が救われ、イスラエルの一員となる。
自分の知恵が神の偉大なみわざを見えなくしてしまうことがある(1コリント3章18節)。不安は確かに残る。しかし、「神を信頼する」選択を「あえて」行うとき、ラハブが味わったように主の真実を体験することができる。神を「あえて」信頼することこそ、最も賢明な計略である。

礼拝の一大原則(2015.6.21)

宣教題  「礼拝の一大原則」            宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア7章1~15節、ローマ1章25節

1. 主の憤り
エリコの攻略(6章)を終えたイスラエルの民は、荒野を上ってアイへと侵攻を進めようとした。大きな町を滅ぼした安心からだろうか、全軍が出撃する必要などないと彼らは考えた。そして、三千の兵で攻め上った所、イスラエルは敗北し、敵に打ち殺される者もあった(2~5節)。この現実に直面したイスラエルは嘆き、ヨシュアは神に祈った(6~9節)。しかし、この敗北はイスラエルに対する主の憤りの現れであった(1節)。この憤りは、イスラエルの民の油断と見事なまでの敗北に現れていた。

2. 滅ぼし尽くしてささるべきものへの不誠実
敗北の原因は、滅ぼし尽くして献げるべきものに対して、イスラエルが不誠実であったことである(1節, 11~12節)。本来は火で焼き尽くされるべきもの(6章24節)が主から盗み取られ、アカンが所持していた(22節)。彼は、主が命じた契約を破り(11節)、むしろ、「見て、欲しくなって」それを取った(21節)。彼は、主よりも、自らの欲望をより重んじてしまったのだ。皮肉にも、滅ぼし尽くすべきものを自分のものとしたアカンが、その全所有物が火で焼かれ(25節)、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。そして、滅ぼし尽くされるべきものが滅ぼされて初めて、イスラエルの民は、アイと戦い、勝利を得ることができた(8章)。

3. 礼拝の一大原則
礼拝とは、私たちにとって何が一番大切なのかを表す行為である。アカンは、上着と銀と金の延べ板を主よりも大切なのとした。エリコの分捕りもの、すなわち滅ぼし尽くすべきものを礼拝したのだ。そして、滅ぼし尽くすべきものを礼拝したアカンは、滅ぼし尽くすべきものとなってしまった。造り主の替わりに、造られたものを礼拝し、そのようになって滅んでいくのか。それとも、造り主を礼拝し、その結果、神のかたちにある、本物の人間になっていくのか(ローマ1章25節)。私たちは問われている。
神でないものを礼拝することが偶像崇拝である。そして、偶像崇拝の罪の本当の恐ろしさは、最もなりたくないと思っている自分になってしまうことである。だからこそ、毎週の礼拝を通して、造り主を礼拝する者として整えていただき、与えられた使命を全うできる、本物の人間にならせていただこうではないか。

主の戦い方(2015.5.17)

宣教題  「主の戦い方」             宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア6章1~21節 マタイ5章16節

エリコを攻略しようとするイスラエルの民にとっての正しい戦い方とはどのようなものだろうか。

1.ヨシュアの命令に民が従う(6章1節, 6~21節)
城門を閉ざしていたエリコとの戦い方について、ヨシュアは民に命令を下した。一日目、祭司たちには契約の箱を担ぐ者と、角笛を吹き鳴らす先導者を備えることを、民にはその後を進んで町の周りを回るのとともに、主の箱の前を武装した兵士たちが進むように命じた(6~7節)。さらに、鬨の声を上げるように命じるまではことばを発しないようにとも命じた(10節)。彼らは忠実にその命を六日目まで守った(12~14節)。七日目には、七度同じように町を回った後、祭司が角笛を吹く際に、鬨の声を上げ、町のものをことごとく滅ぼし尽くすように命じた(15~19節)。民はヨシュアの命令に従った(20~25節)。契約の箱を担いで、城壁の周りを回るという奇妙な行動を求める命令に、民は最後まで従った。

2.ヨシュアを介して伝えられた主の命令に民が従う(6章3~5節)
ところが、ヨシュアの命令は、彼自身のものではない。主から受けた命令を民に伝えたに過ぎない(3~5節)。ヨシュア自身も、主の命令に従うひとりの人である。つまり、エリコでイスラエルが行ったのは、主の命令を一言たがわずに守る、上意下達という戦争の基本的な戦い方であった。

3. すでに勝利をとられている主の戦い方(6章2節)
主の命令に完璧に従ったから、イスラエルはエリコを攻略することができたか。そうではない。なぜならば、これは主の戦いであるからだ。まず、祭司たちが担いだ契約の箱は、主ご自身の臨在そのものである。この箱が町の周りを回ることを通して、主はエリコを着々と攻略された。さらに、主は「わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」(2節、新改訳)と語っている。主は戦いの前にすでに勝利をとっておられる。民は、主の勝利を目に見えるかたちにしたにすぎない。不完全で、失敗の可能性のあるイスラエルを通して、主はご自身の戦いを戦われる。これこそが、主が選ばれた戦い方である。
主の戦い方は、ヨシュアの時代も、今も、変わらない。主はすでに勝利をとっておられる。すでにご自身の光を輝かしておられる。そして、弟子たちという弱く、だめな人間を通して、主の光をこの世界で輝かそうと願っておられる(マタイ5章16節)。私たちも主の戦い方に加わらせていただこうではないか。

理不尽な戦闘準備(2015.4.12)

宣教題  「理不尽な戦闘準備」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア5章1~12節 エフェソ6章10~13節

 約束の地に入ったイスラエルの民たちはどのようにして来たるべき戦闘の準備をしたのか。

1. 理不尽な戦闘準備
 エジプトを脱出し、四十年の荒野の放浪の中で死に絶えた者たちは戦士であったが、カナンの地で戦おうとしている彼らの息子たちは、荒野で生まれた者であり、戦士ではなかった(4-6)。彼らは、戦いの備えをすることなく、むしろ、主の言葉に従い、自らに割礼を施した(2-3)。さらに、彼らは過越祭を祝い、酵母を入れないパンの祭を守った(10-11)。彼らの行動は、戦闘の準備としては明らかに理不尽である。彼らは勝つことを放棄したのだろうか。

2. 割礼と過越
 割礼は、創世記において主がイスラエルの先祖であるアブラハムに命じられたものである(創世記17章)。主は、アブラハムに数多くの子孫を与え、さらにはカナンの地を与えると約束をされた。自分たちは荒野で生まれた新しい世代の民だが、父たち同様に主の約束を継承していることを、民は割礼を通して確認した。次に、過越は、エジプトに奴隷となっているイスラエルの民を主が解放したことを思い起こす祭儀である(出エジプト12章)。これまでと同じように、主はこれからも救い出し続けてくださり、すべての必要を与えて、養って下さることがこの祭儀を通して思い起こされる。主がなしてくださったわざによって、これまでも、そしてこれからもイスラエルは存在することを、割礼と過越を通してイスラエルは確認した。

3. 理に適った戦闘準備
 だから、割礼も過越も、実は理に適った戦闘準備である。主がイスラエルの真ん中を歩まれているから、彼らはヨルダンを渡ることができた。カナンの王たちが恐れていたのは、イスラエルではなく、彼らのために戦われる主であった(1)。つまり、主が戦われるならば、イスラエルの勝利は確定している。これからの戦いも主の戦いであると確認することこそ、彼らにとっての最善の戦闘準備であったのだ。
 キリスト者の生涯は、「暗やみの世界の支配者」との戦いの日々である(エフェソ6:12)。この戦いに必要なのは、「神の武具」(11)、すなわち「神が戦われる」武具を身に付けること。礼拝は、これが私たちの戦いではなく、主の戦いであることを思い起こさせ、この武具を身に付けさせてくれる。主に戦っていただく、つまり、「主の依り頼む」(10)ならば、勝利は確定している。

神のわざを記憶し続ける(2015.2.8)

宣教題  「神のわざを記憶し続ける」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア4章1~24節、2テモテ2章8節

毎週、なぜ礼拝に来るのだろうか。祈るため、きよくされるため、安心のため、単なる習慣?。イエス・キリストを思うため(2テモテ2章8節)に集められている。では、具体的に何を思い出すのだろうか。

1. ヨルダン川を渡る
イスラエルの民がヨルダン川を渡り、十二の石の記念碑を建てることがヨシュア4章には記されている。ヨルダン川を渡る途中で、主はヨシュアに、十二人の男が十二の石を担ぎ、それを宿営の地に据えることを命令した(4章1~9節)。祭司たちは民が渡る間、ずっとヨルダン川の真ん中に立ち止まっていた(4章10節)。ヨルダン川の東岸に嗣業の地を得た部族も、民の先頭に立って川を渡り(4章11~13節)、この出来事を通してヨシュアは大いなる者とされた(4章14節)。そして、主の命に従って祭司たちが川から上がった時、川は元の状態に戻った(4章15~18節)。ヨシュアは、対岸のギルガルに宿営した民に十二の石の記念碑の意味を語った(4章19~24節)。

2. 十二の石の記念碑の意味
なぜ、このような記念碑を作ったのだろうか。ヨルダン川の流れが主の箱の前でせき止められたことを記念するためである(4章7節)。しかし、単なる自然現象が起こったのではない。これは、イスラエルの神が全イスラエルのためになされたわざである。そのような神のわざを記憶し続けるために、出エジプトの時と同じようにご自身の民を自由にし、民を回復する神に目を向けるために記念碑は作られた(4章23節)。そして、主のわざを記念し、それを記憶し続ける時、世代が変わっても同じように働かれる神を民は知り、恐れ敬いつつそのような神に従うようになる。そして、そのような神の民の姿を見た世界中の人々は、川や海を自由に動かすことのできる神とその力を知るようになる(4章24節)。記憶し続ける民は、宣教のわざに与るようになる。
礼拝は、十二の石の記念碑を見ることに比べられよう。イエス・キリストの十字架を思い、神が私たちを自由にし、回復したことを思い出す。そのような素晴らしい神を恐れ敬い、この方に従って行こうと改めて心に決める。そして、私たちの姿を見て、世界中がこの神の素晴らしさを知るようになる。礼拝という恵みは、私たちを世界へと宣教に遣わす。

約束の地の保証(2015.1.11)

宣教題  「約束の地の保証」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア3章1~17節  エフェソ1章13~14節

約束の地に数多くの民が住んでいることをイスラエルの民は知っていた。だからこそ、彼らを完全に追い払うことができるのか、不安であった。しかし、彼らの神は、約束の地の保証を与えられる。

1. エジプトを打ち破られた神があなたがたの間におられる
ヨシュアたちがヨルダン川の岸に着く時から遡ること40年前、主は、エジプトの葦の海を乾いた地に変え、イスラエルの民にそこを渡らせた。そして、同じ海の水を神は用いて、追い迫るエジプトの軍隊を完全に打ち破られた。イスラエルの民たちの真ん中で、レビ人の祭司たちが担いでいた契約の箱は(3:6)、出エジプトの際にモーセと共にいた主が、ヨシュアやイスラエルの民と今、共におられることの証ししている(3:7)。そして、この方が、驚くべきことを行われる(3:5)。

2. 水がせき止められることが約束の地での勝利の保証である
ヨシュアは、契約の箱を担ぐ祭司たちに対して、ヨルダン川の水際に行き、川の中で立ち止まるように命じた(3:8)。祭司たちが契約の箱を担いで民の先頭を進み、ヨルダン川にその足を浸けた時、川の水は壁のように立ち止まった。そして、民たちは干上がった川床を渡ることができた(3:14−17)。この出来事こそが、約束の地に住む諸国民を主が完全に追い払うことの保証である(3:10−13)。40年前、大国エジプトとその強力な軍隊を水をもって打ち破った方が、確かに今、イスラエルの民と共にいることをこの出来事は証言しているからである。どのような強大な敵もおそれるに足らない。

3. 新天新地における復活のいのちの保証
私たちクリスチャンには、死に打ち勝つ復活のいのちの保証が与えられている。イエスの十字架と復活を通して神が死に打ち勝たれたことを福音が私たちに告げているからであり、イエスを死人のうちから復活させた聖霊が私たちに信仰を与えて下さっているからである。つまり、私たちの復活の約束の証印であり、新天新地が私たちに与えられることの保証は、私たち教会に与えられている聖霊である(エフェソ1:13−14)。そのような保証が与えられているのだから、激流に一歩踏み出す勇気の源である方に信頼しつつ、死の恐れに惑わされることなく、歩み続けていこう。

福音から生まれるもの(2014.9.22)

宣教題 「福音から生まれるもの」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書 ヨシュア2章1~24節 ローマ1章5節

よい知らせは人を動かし、人を変える。聖書が語る福音は、神がなされた素晴らしいわざの知らせである。そして、このよい知らせから生まれるものがある。

1. 神の素晴らしいわざ
荒野を放浪していたイスラエルの民は、約束の地に入ろうとしていた。新しい地に進む前に、ヨシュアは二人の斥候をヨルダン川の向こうにあるエリコに送った。最初に攻めるであろう町と周辺の様子を探るためであった。斥候たちはエリコに侵入するが、捕らえられそうになる。しかし、遊女ラハブの機転により追っ手から守られる(1~7)。その後、ラハブは、彼らに自分たちが聞いたこと、そしてそれに対する人々とラハブ自身の反応を話す(8~11)。ラハブは、神が葦の海でエジプトの王ファラオを打ち破ったことと、その神の働きをイスラエルの民がヨルダン川の向こう側で行ってきたことを知っていた(10)。イスラエルの民がエリコに到着する以前に、神とイスラエルのうわさはエリコに届いていたのだ。彼女は福音をもうすでに聞いていた。

2. 福音から生まれるもの
神の素晴らしいわざの知らせを聞いたエリコの人々はどう反応したのだろうか。彼らは恐怖におびえており(9)、イスラエルに立ち向かおうとする意志さえももっていなかった。世界を支配しているのは、イスラエルの神である主であることに気がついたからである(11)。本当の神を神とする思いが、ある者たちのうちに生まれた。だから、ラハブ自身は、二人の斥候に助けを求めたのだ(12~13)。福音を聞いても、それを拒絶するエリコの王のような者たちもいる。しかし、主を神とする者たちも誕生している。福音は神に信頼する神の民を生み出す。二人の斥候はラハブにどうすべきかの指示を与えたあと(17~21)、彼女の知恵に助けられて、無事にエリコを脱出し、ヨシュアのもとに戻る(22~24)。そして、イスラエルの民は神の素晴らしいわざが、自分たちを通して続いて行われることへの自信を深めていった。

十字架と復活によって神の民が誕生した。そして、神の素晴らしいわざの知らせである福音は、世界中に響いている。福音に反発する者たちの中にさえも、まことの王である主を恐れ、神の民に加わり、主に従う者はおこされている(ローマ1:5)。このように、福音は新しい神の民を生み出す神の力である。この力にもっと自信をもって、神の素晴らしいわざの知らせを語ろうではないか。

主のことばに従う勇気(2014.8.17)

宣教:鎌野直人 協力牧師
聖書: ヨシュア1章1~18節   ヨハネ16章33節

偉大なリーダーの死を迎えた時、どのような組織も危機を迎える。出エジプトを導いてきたモーセの死を迎えたイスラエルもそうであった(1~2)。モーセが 民とともにいたからこそ、主は民とともにおられ、荒野放浪の40年は導かれてきたからだ。しかし、モーセが死んだ今、約束の地を征服するという主の約束は 継続されるのだろうか。モーセの後継者として指名されたヨシュアはその働きを全うできるのだろうか。

1.イスラエルは前に進む
主はヨシュアに、モーセが死んだ今だからこそ、ヨルダン川を渡り、約束の地へ進むように命じた(2)。その際に、ヨシュアには、約束の地は、神が与えて くださるものなのか、それともイスラエルが自分たちで占領するものなのか、という問いが投げ掛けられた。まず、その地は、主がイスラエルに与えようとして いる土地であり(2)、もう与えた、と主が約束されている土地である(3)。しかし、何もしなくても与えられるものではない。「あなたたちの足の裏が踏む 所を・・・与える」(3)とあるように、その土地を自分たちの足で踏む、つまり戦うことが求められている。与えられているという確信に立ちつつ、準備し、 行動するとき、主の約束は継続され、実現していく(10-11)。

2.主のことばに従う勇気
ヨシュアは明らかにモーセとは違う。しかし、主は、モーセに約束されたように(出エジプト33:14)ヨシュアにも「あなたと共にいる」(ヨシュア 1:5)と語る。主がヨシュアとともにいるからこそ、主は民とともにいる。モーセの時と何一つ変わらない。ヨシュアはその使命を果たすことができる。この ときに、ヨシュアに求められていることは、モーセを通して主が命じられ律法を日々味わい、それを実行する勇気である(7?9)。モーセのような偉大な指導 者にならなくても、主のことばを味わい、それに生きるヨシュアとイスラエルの民を通して、神は世界に働き続けられる。モーセの時代になされたことと同じこ とを、ヨシュアの時代にも主はなさろうとしている(12~18)。

 教会はキリストのからだである。イスラエルの民と同じように、主が約束し、与えてくださっていることが、私たちのわざを通してこの世界で実現していく。 それは、すでに十字架と復活において勝利を取られたキリストが、私たちと共におられるからである。だからこそ、みことばを口ずさみ、整えられ、それに生き る勇気をもって、困難が多くあるこの時代に主に従っていこう。