エフェソ」カテゴリーアーカイブ

理不尽な戦闘準備(2015.4.12)

宣教題  「理不尽な戦闘準備」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア5章1~12節 エフェソ6章10~13節

 約束の地に入ったイスラエルの民たちはどのようにして来たるべき戦闘の準備をしたのか。

1. 理不尽な戦闘準備
 エジプトを脱出し、四十年の荒野の放浪の中で死に絶えた者たちは戦士であったが、カナンの地で戦おうとしている彼らの息子たちは、荒野で生まれた者であり、戦士ではなかった(4-6)。彼らは、戦いの備えをすることなく、むしろ、主の言葉に従い、自らに割礼を施した(2-3)。さらに、彼らは過越祭を祝い、酵母を入れないパンの祭を守った(10-11)。彼らの行動は、戦闘の準備としては明らかに理不尽である。彼らは勝つことを放棄したのだろうか。

2. 割礼と過越
 割礼は、創世記において主がイスラエルの先祖であるアブラハムに命じられたものである(創世記17章)。主は、アブラハムに数多くの子孫を与え、さらにはカナンの地を与えると約束をされた。自分たちは荒野で生まれた新しい世代の民だが、父たち同様に主の約束を継承していることを、民は割礼を通して確認した。次に、過越は、エジプトに奴隷となっているイスラエルの民を主が解放したことを思い起こす祭儀である(出エジプト12章)。これまでと同じように、主はこれからも救い出し続けてくださり、すべての必要を与えて、養って下さることがこの祭儀を通して思い起こされる。主がなしてくださったわざによって、これまでも、そしてこれからもイスラエルは存在することを、割礼と過越を通してイスラエルは確認した。

3. 理に適った戦闘準備
 だから、割礼も過越も、実は理に適った戦闘準備である。主がイスラエルの真ん中を歩まれているから、彼らはヨルダンを渡ることができた。カナンの王たちが恐れていたのは、イスラエルではなく、彼らのために戦われる主であった(1)。つまり、主が戦われるならば、イスラエルの勝利は確定している。これからの戦いも主の戦いであると確認することこそ、彼らにとっての最善の戦闘準備であったのだ。
 キリスト者の生涯は、「暗やみの世界の支配者」との戦いの日々である(エフェソ6:12)。この戦いに必要なのは、「神の武具」(11)、すなわち「神が戦われる」武具を身に付けること。礼拝は、これが私たちの戦いではなく、主の戦いであることを思い起こさせ、この武具を身に付けさせてくれる。主に戦っていただく、つまり、「主の依り頼む」(10)ならば、勝利は確定している。

心の底から(2015.3.8)

宣教題  「心の底から」               宣教 池口留都伝道師
聖 書  エフェソ4章17節~5章5節
私たちの生き方、行動、私たち自身を決めるのは、私たちの心の中にあるものです。そして心の中にあるものが、私たちの刈り取る結果を決めます。

1. 古い人と、その心の中
異邦人と書かれている、古い人は、愚かな考えを頼りにし、歩みます。よいものを見ても、それをよいものだと分からず、悪いものを見ても、それをよいものであるかのように思ってしまいます。知性が暗くなっているからです。その原因は、心の中にある、無知とかたくなさです。その結果、態度は無神経、無感覚、鈍感で冷淡、まひした状態になり、行動は醜く、生き方は絶望的です。これは、生まれながらの人の姿、この世の姿そのもので、キリストと神との国を受け継ぐことはできません(5章5節)。

2. 心の底から新たにしてくださる、イエス様
しかし、あなたがたはそのように歩んではいけない、と主は言われます。なぜなら、キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだからです(4章21節)。私たちを自由にする、イエス様にある真理。それは、「…古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け…」(4章22~24節)です。私たちは、イエス様の十字架のもとに古い人を脱ぎ捨て、復活されたイエス様によって、新品の、新しい人格、つまり、イエス様の心、人柄、かおり、性質を、着せていただけるのです。表面ではなく、心の底から、私たちを変えてくださるのです。イエス様のように。

3. 新たにされた心で、愛する
心の底から新たにされた歩みは、愛によって歩む生き方です(5章5節)。私たちの心、感情の対処の仕方、言葉、働く意味…すべてが、キリストのからだを建て上げるための有益な賜物として、新たにされ、用いられます。そこにある関係は、「実に、神の国がここにある」…という、私たちの関係です。
心の底から新たにされ続け、愛による歩みをさせていただきましょう。

約束の地の保証(2015.1.11)

宣教題  「約束の地の保証」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア3章1~17節  エフェソ1章13~14節

約束の地に数多くの民が住んでいることをイスラエルの民は知っていた。だからこそ、彼らを完全に追い払うことができるのか、不安であった。しかし、彼らの神は、約束の地の保証を与えられる。

1. エジプトを打ち破られた神があなたがたの間におられる
ヨシュアたちがヨルダン川の岸に着く時から遡ること40年前、主は、エジプトの葦の海を乾いた地に変え、イスラエルの民にそこを渡らせた。そして、同じ海の水を神は用いて、追い迫るエジプトの軍隊を完全に打ち破られた。イスラエルの民たちの真ん中で、レビ人の祭司たちが担いでいた契約の箱は(3:6)、出エジプトの際にモーセと共にいた主が、ヨシュアやイスラエルの民と今、共におられることの証ししている(3:7)。そして、この方が、驚くべきことを行われる(3:5)。

2. 水がせき止められることが約束の地での勝利の保証である
ヨシュアは、契約の箱を担ぐ祭司たちに対して、ヨルダン川の水際に行き、川の中で立ち止まるように命じた(3:8)。祭司たちが契約の箱を担いで民の先頭を進み、ヨルダン川にその足を浸けた時、川の水は壁のように立ち止まった。そして、民たちは干上がった川床を渡ることができた(3:14−17)。この出来事こそが、約束の地に住む諸国民を主が完全に追い払うことの保証である(3:10−13)。40年前、大国エジプトとその強力な軍隊を水をもって打ち破った方が、確かに今、イスラエルの民と共にいることをこの出来事は証言しているからである。どのような強大な敵もおそれるに足らない。

3. 新天新地における復活のいのちの保証
私たちクリスチャンには、死に打ち勝つ復活のいのちの保証が与えられている。イエスの十字架と復活を通して神が死に打ち勝たれたことを福音が私たちに告げているからであり、イエスを死人のうちから復活させた聖霊が私たちに信仰を与えて下さっているからである。つまり、私たちの復活の約束の証印であり、新天新地が私たちに与えられることの保証は、私たち教会に与えられている聖霊である(エフェソ1:13−14)。そのような保証が与えられているのだから、激流に一歩踏み出す勇気の源である方に信頼しつつ、死の恐れに惑わされることなく、歩み続けていこう。

闇から光に(2014.9.28)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ヨハネ20章1~10節 エフェソ5章8節

人間は、生活や社会を明るくしようとして、様々な努力をしてきました。しかし、そのことが人の心の闇まで追いはらうことはできませんでした。人々の心は、暗さがますます深まっています。こうした闇を抱える私たちに、キリストは光となって照らし続けていてくださいます。

1.神ぬきの人生の闇から光に ヨハネ6章16~21節
ガリラヤ湖を舟で渡ろうとしていた弟子たちは、途中で強い風に見舞われ、舟が沈みそうになりました。舟にキリストをお乗せしないで漕ぎ出したことと、周りが「既に暗くなっていた」(17節)という様子が分かります。
このことは、私たちが経験する神抜きの暗闇の人生を歩む姿を表しています。しかし、そのようなとき、キリストに心と人生に乗り込んでいただいて光の中を歩むことが大切なのです。

2.罪ある人生の闇から光に ヨハネ13章21~30節
イスカリオテのユダの裏切りの場面です。彼が最後の晩餐の席から外へ出たとき、それは「夜であった」(30節)とあります。人が裏切る心は、夜のような闇の状態であって、決して晴れやか心ではありません。
私たちは、神を裏切るという罪の暗闇の中を歩むことから、光の中を歩み出す必要があります。そのために、神が独り子イエス・キリストを十字架にお架けくださって救いの道を開いてくださったのです。

3.未来なき人生の闇から光に ヨハネ20章1~10節
マグダラのマリアがキリストが死んで葬られた墓にやって来たのは、「まだ暗いうちに」(1節)でした。これは、彼女の心が「死んだらおしまいだ」との絶望感におおわれ、その心が暗かったことを象徴しています。
キリストの復活がなかったら、私たちの未来に対する保証も、手がかりもないことになります。しかし、感謝すべきことは、キリストは事実復活されたのです。十字架に死んで復活されたキリストを信じて結び合わされ、「光の子として」歩み出しましょう(エフェソ5章8節)。

恵みに生きる(2014.8.31)

宣教 宮崎 浩 師
聖 書 エフェソ1章1~14節
パウロはローマの獄の中でこの手紙を書いています。「獄中書簡」とも呼ばれています。そして、この手紙の箇所は「恵み」について教えています。「恵み」とは、常に信仰と結びついていて、信仰は「恵み」による感謝から来るものです。

1.神の豊かな恵み   4~7節
私たちの信仰にとって大事なことは「恵み」とは何かという認識です。信仰と言いながらキリスト教の信仰とは違うものに変質したり、簡単に信仰から離れていく人が多いのは私たちキリスト者の「恵み」の理解に問題があるのです。「恵み」はギリシヤ語でカリスマと呼ばれ、「賜物・贈りもの」という意味があります。人間が努力したり、働いて得ることのできるものではなく、三位一体の神による一方的なものであり、「恩寵」と呼ばれるものです。そして、その輝かしい恵み、豊かな恵みは、①選び(4節)②罪の赦し(7節)③神の子である身分(5節)です。主イエス・キリストを信じ、従う時に「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に」(ローマの信徒への手紙10章12節)与えられる賜物・贈りものなのです。

2.神の恵みに生きる 8~14節
イエス・キリストを信じる者には豊かな恵みが与えられています。神に選ばれていることのこの上もない喜び、イエス・キリストの十字架で流された血により私たちの罪が完全に赦されていることで恐れからの解放感、心の平安を得ることができたこと、また私たちが神の国に入ることができる相続者であることで将来への希望をもつことができたことです。そして、その恵みは誰も奪うことのできないもの、その保証として神は聖霊による証印を押されたのです(13節)。それらの恵みのなかで私たちが生きるとき、個人の信仰生活、教会生活、家庭生活が輝かしいものとされます。その生活は神が導き、神が共に働き、万事が益となるからです。(ローマの信徒への手紙8章28節)そして、神の栄光がほめたたえられるのです。どうぞ私たちに聖霊が与えられ、心の目が開かれ神を見、神の豊かな恵みが明らかにされ、神との愛の交わりを常に持ちつつ生きることができますように。

楽園を創造される主(2013.6.9)

宣教題  : 「楽園を創造される主」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ41章17~20節 エフェソ3章6節
講壇横に生けられている生け花は私たちに創造の神のすばらしさを思い起こさせる。しかし、種類の異なるこれだけの花が実際に群生している場所はない。イザヤ41:19には主が備える楽園(森林植物園)の姿が描かれているおり、そこには杉、アカシヤ、ミルトス、オリーブ、糸杉、樅、つげが同時に群生している。そんな場所は実際には存在しない。なぜ、主はこのような楽園を創造されるのか。

1.気がついている必要を満たす主(41:17-18)
人が生きるのに水は必須である。苦しむ人、貧しい人はそれを自分たちで見出そうとするが、決して、見出すことができない。そんな私たちの必要を主はご存じであり、それを満たされる。弱者をあわれむ王として、当然のわざである。その際、主が下さるのは、コップ一杯の水ではない。荒野に大河と泉を起こし、そこに湖を生み出す。渇いている人が気がついている必要を満たし、さらには溢れるほどに主は与えて下さる。

2.使命が果たせるように整える主(41:19-20)
イスラエルの聖なる神は、人々の気がついている必要を満たせばそれで十分だ、と考えてはいない。溢れるばかりの水をもって、荒野に楽園を創造する。この楽園は、主が新しく創造する神の民を指し、三つの特徴を持つ。
(1)一つになりえないはずの人々が共に集められている。
(2)聖なる霊が臨在される神殿として組み立てられ、諸国の民に主の御手のわざのすばらしさを証しする神の家族となる。(エフェソ3:6)。
(3)その結果、主の偉大な力とそのわざに気づき、閉ざされていた目が開かれ(41:20)、主に与えられた使命を知り、それを果たしていく。
今、感じている必要を主が満たしてくれればいい、という小さなフラワーアレンジメントに留まっている限り、主の偉大なご計画になかなか気がつくことはできない。楽園を創造する主のわざに目を開かれ、この世界で私たちに与えられた使命へと進ませていただこう。