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遣わされる人(2013.9.15)

宣教題  : 「遣わされる人」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録22章6~21節
使徒言行録には、パウロの回心の経験が3回記されています。これは、パウロが自分を誇っているのではなくて、福音の出来事に巻き込まれている自分を実例として語らざるをえなかった恵みなのです。そこには、遣わされて生きる者の生き方が証しされています。

1.恵みによって変えられる 6~11節
パウロの回心の経験は、彼がキリスト者を迫害していた時に、神によってもたらされた突然の出来事でした(6節)。パウロは、復活の主が彼と問答されたことを通して、主が教会とご自身とを同一視しておられることを知りました(7~8節)。そして、パウロは、自分がこれから何をしたらよいのか、今までの自分の生き方が間違いではなかったのかと自問自答するようになったのです(10節)。
それに対して、主は、パウロがどこへ行って、何をすべきかを明らかにされました。そのために、彼の目を見えなくさせることによって、彼を弱い者とされたのです(11節)。
私たちの信仰体験は、個々に異なりますが、復活の主の恵みによって変えられるという共通の経験をさせていただけるのです。

2.恵みのもとで命じられる  12~21節
アナニアを通してパウロの目を見えるようにされた主は、彼に主の御心を悟らせ、主と会わせ、主の御言葉を聴かせることにより、復活の主の証人とされました(14~16節)。
続いて、エルサレムに帰って来たパウロは、主との交わりを通して主の導きを仰ぎました。その導きは、これまでのようにエルサレムに行くということではなくて、エルサレムから急いで出て行き、行って異邦人のために遣わされるということでした(17~21節)。彼が、この二つの板挟みから解放されるただ一つの道は、主の命令に従うことでした。それによって、彼はさらなる世界宣教へと遣わされていくこととなったのです。

私たちは、「急げ」「出て行け」「行け」と主が命じられることに従うときに、御言葉の深い意味と主の御計画が開かれていくのです。

危機に際して(2013.8.4)

宣教題  : 「危機に際して」   宣教:   川原﨑 晃 牧師 聖    書  : 使徒言行録21章27~36節 2コリント1章9節 主なる神が用意されている危機は、危険(ピンチ)と好機(チャンス)が織り成される時です。主は決して、ピンチをお与えになるだけではなく、その裏側には必ずチャンスを用意されています。主と共に歩む者が経験する危機は、何を明らかにするでしょうか。 1.主は御計画を遂行される パウロは、死を迎えてもおかしくなかったという経験を何度かしています。この度もその一つに数えられます。アジア州のエフェソから来たユダヤ人は、パウロが死罪に値する重大な宗教的罪を犯していると訴え、全群衆を扇動してパウロを捕らえて境内から引きずり出したのです(27~30節)。そして、民衆がパウロを殺そうとしていた時、エルサレムを支配していたローマの千人隊長はパウロの身柄を確保させ、兵営でエルサレムが混乱状態に陥った真相をつかむために連行させたのでした(31~34節)。こうしてパウロは、危機一髪のところで窮地から助けられたのです。その背後には、パウロを通して主が福音宣教を進められる御計画があったのです。 私たちの信仰生活には、窮地に追い込まれて万事休すと思えることがあります。そうした中において主の助けがあるのは、主の御業が進められるという御計画があるからです。 2.復活の主の助けがある  ここに見るパウロの受難は、26章まで続きます。その有り様はエルサレムにおける主イエスの御受難と並行しています(36節、ルカ23章18節)。パウロは、アジア州のエフェソにおいても自分の命の危険を感じる苦難の中を通され(19章)、それは生ける望みを失うほどで、死の宣告を受けた思いをもったことでした。そのように、彼は一方で万事休すではないかとの恐れと、他方で死から復活された主イエスが共にいて助けてくださるという神への信頼が交錯する中で、神に望みを置いたのです(2コリント1章8~10節)。 全てを御支配しておられる私たちの主は、私たちが危機感を抱く時であっても、それを喜祈感に変わらせてくださるのです(1テサロニケ5章16~18節)。

楽園を創造される主(2013.6.9)

宣教題  : 「楽園を創造される主」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ41章17~20節 エフェソ3章6節
講壇横に生けられている生け花は私たちに創造の神のすばらしさを思い起こさせる。しかし、種類の異なるこれだけの花が実際に群生している場所はない。イザヤ41:19には主が備える楽園(森林植物園)の姿が描かれているおり、そこには杉、アカシヤ、ミルトス、オリーブ、糸杉、樅、つげが同時に群生している。そんな場所は実際には存在しない。なぜ、主はこのような楽園を創造されるのか。

1.気がついている必要を満たす主(41:17-18)
人が生きるのに水は必須である。苦しむ人、貧しい人はそれを自分たちで見出そうとするが、決して、見出すことができない。そんな私たちの必要を主はご存じであり、それを満たされる。弱者をあわれむ王として、当然のわざである。その際、主が下さるのは、コップ一杯の水ではない。荒野に大河と泉を起こし、そこに湖を生み出す。渇いている人が気がついている必要を満たし、さらには溢れるほどに主は与えて下さる。

2.使命が果たせるように整える主(41:19-20)
イスラエルの聖なる神は、人々の気がついている必要を満たせばそれで十分だ、と考えてはいない。溢れるばかりの水をもって、荒野に楽園を創造する。この楽園は、主が新しく創造する神の民を指し、三つの特徴を持つ。
(1)一つになりえないはずの人々が共に集められている。
(2)聖なる霊が臨在される神殿として組み立てられ、諸国の民に主の御手のわざのすばらしさを証しする神の家族となる。(エフェソ3:6)。
(3)その結果、主の偉大な力とそのわざに気づき、閉ざされていた目が開かれ(41:20)、主に与えられた使命を知り、それを果たしていく。
今、感じている必要を主が満たしてくれればいい、という小さなフラワーアレンジメントに留まっている限り、主の偉大なご計画になかなか気がつくことはできない。楽園を創造する主のわざに目を開かれ、この世界で私たちに与えられた使命へと進ませていただこう。