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平安を生み出すもの(2014.10.19)

宣教題  :「平安を生み出すもの」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ20章19~23節

復活された主イエスは、ユダヤ人を恐れ、また先行き不透明な状況に不安を覚えて戸を閉ざしていた弟子たちを訪れられ、真ん中に立たれて「あなたがたに平和(平安)があるように」と二度語りかけられました。その「平安」は何を生み出すのでしょうか。

1.恐れから確信を  19~20節
弟子たちは、主イエスと同じように捕らえられてしまうのではとのユダヤ人に対する恐れ、また十字架の主イエスを捨てて逃げてしまったことに対する主イエ スへの恐れがあったために、戸を閉じて鍵をかけていました。それは、恐れと不安のゆえに心を閉ざしている人の姿を表しています。また、神がそうされたと思 い込んでしまって、主イエスにも心を閉ざしてしまう人の姿でもあります。このように主イエスに心を閉ざすと、恐れが支配し、愛は冷え、喜びは消えうせてし まいます。
主イエスは、弟子たちに「手とわき腹をお見せになった」ように、今も変わらずにご自身の十字架と復活を明らかにしておられます。ここに、不信からくる恐 れはなく、信じ確信することからくる大いなる喜びがあるのです。復活の主イエスと共に歩む者には、この確信を欠かすことができないのです。

2.不安から継承する使命を  21~23節
続いて主イエスは、自信喪失して無力になり、これからの歩みに不安を覚えていた弟子たちに、ご自身の使命を継承させるために遣わすことを明らかにされま した。その使命が遂行されるためには、人間の知恵や努力や工夫の一切を用いて可能にしてくださる聖霊が注がれる必要がありました。その使命とは、先に罪の 赦しに与った者が、主イエスの名によって、主イエスに代わって罪の赦しを告げることです。これは、主の弟子である私たちにのみ託されている驚くべき使命で す。
私たちは、主イエスに対して心を開き、互いに心を開き、共に生きる人々にも心を開いて、聖霊による確信をいただき、聖霊の導きのうちに継承してきた使命を果たしていくのです。

最高の愛の犠牲(2014.5.15)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ17章15~19節

主イエスのこの時の祈りの中には(ヨハネ17章)、父なる神が主イエスを通して、弟子たちに、そして今も変わらずに私たちに与えてくださったものが語られ ています。それには、「永遠の命」(2節)があり、「(御)言葉」(8節)があり、「栄光」(22節)があります。さらに、次のようなものを与えていてく ださっています。

1.特別な身分を  15節、19節
私たちは、イエスを救い主として信じて行こうと願いつつも、不安や疑いが生じることがあります。そこで、主イエスは、神の愛から離れることのないように 私たちを守ってくださいます(11節、15節)。さらに、主イエスは、私たちが神のものとされ、「真理によってささげられた者となる」という特別な身分を 与えてくださるのです(19節b)。
実は、このことのために、主イエスは、「わたしは自分自身をささげます」(19節a)と言われました。すなわち、罪のないお方が十字架に架かられるとい う、全く理屈に合わないことを一身に負ってくださった、最高の愛、最高の決意、最高の犠牲を表してくださったのです。このようにして、神のものとされると いう特別な身分に与ると、自分の心の現実とはっきりと向き合うことができるようになります。

2.新たにされた使命を 16~18節
そして私たちは、この世から逃避して生きるのではなく、この世の現実の中で生活しながら、神のものとされた者として生きていくのです。それを主イエス は、「彼らも世に属していないのです」(16節)、そして「わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)と言わたのです。
ここで礼拝を共にした私たちは、聖書の御言葉によって整えていただき(17節)、新たにされた使命をもって、職場に、学校に、家庭にと赴いて行きます。私 たちは、御自身を献げ尽くしてくださった主イエスの最高の愛の犠牲に立って、日々新たにされた歩みをさせていただきましょう。

楽園を創造される主(2013.6.9)

宣教題  : 「楽園を創造される主」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ41章17~20節 エフェソ3章6節
講壇横に生けられている生け花は私たちに創造の神のすばらしさを思い起こさせる。しかし、種類の異なるこれだけの花が実際に群生している場所はない。イザヤ41:19には主が備える楽園(森林植物園)の姿が描かれているおり、そこには杉、アカシヤ、ミルトス、オリーブ、糸杉、樅、つげが同時に群生している。そんな場所は実際には存在しない。なぜ、主はこのような楽園を創造されるのか。

1.気がついている必要を満たす主(41:17-18)
人が生きるのに水は必須である。苦しむ人、貧しい人はそれを自分たちで見出そうとするが、決して、見出すことができない。そんな私たちの必要を主はご存じであり、それを満たされる。弱者をあわれむ王として、当然のわざである。その際、主が下さるのは、コップ一杯の水ではない。荒野に大河と泉を起こし、そこに湖を生み出す。渇いている人が気がついている必要を満たし、さらには溢れるほどに主は与えて下さる。

2.使命が果たせるように整える主(41:19-20)
イスラエルの聖なる神は、人々の気がついている必要を満たせばそれで十分だ、と考えてはいない。溢れるばかりの水をもって、荒野に楽園を創造する。この楽園は、主が新しく創造する神の民を指し、三つの特徴を持つ。
(1)一つになりえないはずの人々が共に集められている。
(2)聖なる霊が臨在される神殿として組み立てられ、諸国の民に主の御手のわざのすばらしさを証しする神の家族となる。(エフェソ3:6)。
(3)その結果、主の偉大な力とそのわざに気づき、閉ざされていた目が開かれ(41:20)、主に与えられた使命を知り、それを果たしていく。
今、感じている必要を主が満たしてくれればいい、という小さなフラワーアレンジメントに留まっている限り、主の偉大なご計画になかなか気がつくことはできない。楽園を創造する主のわざに目を開かれ、この世界で私たちに与えられた使命へと進ませていただこう。

壮大な任務(2012.3.25)

宣教題  : 「壮大な任務」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 1章57節~80節

人は、「神の憐れみ」の大きさの前に、確かな愛を、確かな結びつきを、そして確かな使命(任務)を見い出すことができます。ザカリアとエリサベト夫妻に託された任務は、壮大なものでした。ただ、それは、信仰者であるならば誰にでも託されている任務なのです。

1.主をほめたたえる
約束どおりに男の子が与えられたことは、ザカリア夫妻だけでなく周囲の人々にとっても大きな喜びでした。彼らは、神から命じられたとおりに、その子の名を「ヨハネ」と名付けました。その時、ザカリアの口は開かれ、神を賛美したのでした(57~64節)。彼は、沈黙を強いられた期間、憐れみの神に委ねるという信仰に導かれ、その信仰をエリサベトと共に分かち合えるほどに強められ、「ザカリアの預言」となったのです。
ザカリアは、旧約聖書に証言されている神の救いの御計画が、イエス・キリストによって確実に進められ、その救いが完成されることをほめたたえています(68~73節a)。それは、イエス・キリストが「あけぼのの光」となって「訪れ」てくださり、罪と死の暗黒の中にいる人々を救い、「平和の道」に導かれることなのです(78~79節)。
私たちに託されている任務は、この救い主をほめたたえることなのです。

2.主に仕える
主をほめたたえるところに、「主に仕え」て礼拝し、神のものとされて聖別された歩みが造られていきます(73節b~75節)。そして、ヨハネのように、「罪の赦しによる救いを知らせる」器として神が用いてくださいます(76~77節)。
人が救い主と出会うために、私たちがいくらかの奉仕をさせていただく中で、主ご自身が働いてくださいます。人の救いを願う私たちの祈りの中で、主がその人に働きかけてくださいます。つたない私たちの信仰の証しの言葉の中で、主ご自身の力が働き、それを聞く人が新しく造り変えられ、信仰告白へと導かれるのです。
憐れみの神は、このような「主に仕える」という壮大な任務に、一人ひとりを招いておられるのです。