月別アーカイブ: 2016年9月

恵みの風を受けて(2016.9.25)

宣教題  「恵みの風を受けて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ3章1~16節

信仰の人生を帆船にたとえるならば、風は神の恵みであり、信仰はそれを受け止める帆ということになります。
ここに、夜の訪問者ニコデモと主イエスとの対話があります。主イエスはこの対話の中で、信仰の帆を張るために二つの「ねばならない」ことを語られました。

1.人は、新たに生まれなければならない  3節
ニコデモは、道徳的に正しく、指導力があり、旧約聖書に通じ、人生経験に富んでいた人物です(1節、4節、10節)。主イエスは、そのニコデモも「新たに生まれなければ」神の恵みの世界を見ることはできないことを明らかにされたのです。彼は、新たに生まれることを肉体面からしか理解できない限界がありました(4節)。
さて、人はだれでも例外なく、新たに生まれることが必要なのです。これこそが、人が神の恵みの世界に生きるための唯一絶対条件です。肉体の誕生は尊く神秘的です。それ以上に、神の恵みの世界に入れられる霊の命の誕生も尊く神秘的です。私たちは、本来の人間になるために、この二つの誕生が必要なのです。

2.イエス・キリストは上げられねばならない  14節
新たに生まれることができるのは、人の力を超えた聖霊の働きによります(5~8節)。それは、人の目には見えなくても、はっきりと体験できることです。
そのために主イエスは、イスラエルの民が不信仰に陥った際に猛毒の蛇にかまれた者は死に、上げられた青銅で作られた蛇を仰ぎ見た者は生きる者となったように(民数記21章4~9節)、罪の猛毒におかされて死ぬべき罪人に代わって、十字架に上げられた主イエスを仰ぎ見る者は救われることを明らかにされました(14~15節)。
人はだれでも、ただ十字架の主イエスを信じ仰ぐことによって新たに生まれ、神の子とされ、永遠の命を得て生きるのです(16節)。ですから私たちは、主イエスの救いの恵みを受け入れる信仰の一歩を踏み出すのみです。

礼拝ご案内・行事予定(2016年10月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
2日(日) 第1聖日 世界聖餐日礼拝「福音を生きる」
1テサロニケ2:1~12
命なるキリスト
ヨハネ11:17~27
鎌野 健一
9日(日) 第2聖日 神学校デー礼拝「神の言葉が働く」
1テサロニケ2:13~16
祈りと証し
16日(日) 第3聖日 礼拝 「もっと強いお方」
ルカ11:14~26
ぶどうの木なるキリスト
ヨハネ15:1~8
大塚 章信
23日(日) 第4聖日 礼拝 「低いところに来られる神」
イザヤ57:14-21、フィリピ2:8
ペテロの信仰告白
マタイ16:13~20
真田 重治
30日(日) 第5聖日 特別伝道礼拝 「あなたの名を呼ぶ神」
ルカ19:1~10
ダニエル汚れから離れる
ダニエル1:8~16

増永  茂

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

10月行事予定

2日(第1聖日)世界聖餐日礼拝 10月誕生者祝福 聖餐式  エノク会例会
9日(第2聖日)神学校デー礼拝 役員会 15日 CS秋の遠足
16日(第3聖日)礼拝 災害避難訓練
22日(第4聖日)礼拝 Happy Sheep
30日(第5聖日)特別伝道礼拝 特別伝道集会

11月行事予定

6日(第1聖日)聖徒の日記念礼拝 11月誕生者祝福  召天者合同記念会
13日(第2聖日)幼児成長祝福礼拝 聖餐式 バルナバ・ミッション祈祷会  青年会さんび集会
20日(第3聖日)収穫感謝日礼拝  大掃除
27日(第4聖日)待降節・伝道礼拝 教師研修会(3)

あらゆる問題の根(2016.9.18)

宣教題  「あらゆる問題の根」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ56章9節~57章13節 ローマ1章23節

山積みの問題に直面すると、素早く一度に全部解決できる方法に私たちは探す。しかし現実は、問題の根が深いため、簡単に解決できる方法などない。聖書は、あらゆる問題の根は、神が造られたものを神として重んじること、すなわち偶像崇拝だと言っている(ローマ1:23)。本来あるべき位置を逸脱するならば、すばらしいものも問題を引き起こしていくのだ。

1.なすべき働きをとどめる偶像崇拝
神の義のわざである「バビロン捕囚からの帰還」をイスラエルは経験したにもかかわらず、当初思っていたような変化が起こらない。むしろ、国や社会の現状を見張るべき人が、その働きを怠っている。危険の到来を警告すべき人が、その仕事をなまけている(イザヤ56:10)。指導者たちは民を導く知恵を持たず、自分勝手に歩んでいる。誰一人として本来なすべきわざを行えないでいる。自分が得をすることだけを求め、足る事を知らないからであ(56:11)。これも一種の偶像崇拝だ。

2. 偽りの希望に生きるようにさせる偶像崇拝
偶像崇拝をしている人々もいた(57:3)。彼らは、主に対して真実に歩むことによって平和をもたらそうとしていた人をあざけった(57:1~2, 4)。偽りの神々のために自分の子どものいのちさえも犠牲とした(57:5)。「高い山」(57:7)すなわちエルサレムの神殿に上り、そこで自分が選んだ神を礼拝した(57:7~9)。驚く事に、偶像崇拝によって力を得たのだ(57:10)。しかし、いざという時、彼らが拝んでいる存在は彼らの叫びを聞く事はない。むしろ風の一息で失せてしまう(57:13)。彼らは偽りの希望に生きている。その希望は必ず失望に終わる。
あらゆる問題の根に取り組むために大切なのは、主に「身を寄せる」(避け所とする)という応答をもって、神に問題を地道に解決していただくことである。解決のための手段を自分で集めてなんとかすることをあきらめて、神にそれを集めて頂くのだ(56:8)。そのとき、私たちが義と誠実と真実をもって神に対して答えることができるように、問題の根に向き合うことができるように、神は私たちを押し出してくださる。

祈ることをまなぶ喜び(2016.9.11)

宣教題  「祈ることをまなぶ喜び」      宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章1~13節

神との交わりであり会話である祈りが、貧弱なものになってしまっていることがあります。そのような時、「主よ・・・わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)と、弟子たちが主イエスに願ったことに立ち止まることが必要です。祈りを教えられ、まなぶことに喜びを見いだすのです。

1.まねる祈り  2~4節
ここで主イエスは、主の祈りを教えておられます。「父よ」と親密な関係をもって、神の御名を賛美し、神の恵みの支配が実現していくように祈ります。そこから始まる実生活が、日々の糧が与えられ、罪を赦していただき、試みからの解放がなされるようにと祈ります。この祈りをまなぶ、まねることから、その祈りの言葉を味わい、祈りを重ねていくのです。
神は、たどたどしい祈りやうめくような祈りを聞き分けてくださいます。それとともに、主の祈りに代表されるように、教会の歴史の中で培われた祈りをまねることを通して、豊かな祈りへと導かれるのです。

2.愛しとりなす祈り  5~10節
ここでのたとえ話は(5~8節)、「しつように」臆面もなくしきりに求める祈りの姿勢を語っています。積極的に求め続け、探し続け、たたき続けて願い続けています(9~10節)。このように、遠慮することなく、積極的であることが必要ですが、それは神を強制して自分の要求を承服させる祈りではありません。その祈り求めることが、神との正しい関係をもって、たとえ話にあるように人と人との愛の関係が成り立つところの祈りであることです。
私たちが、まねる祈り、愛しとりなす祈りをまなぶ喜びへと導かれるために、聖霊を与えていただくことを求めるのです(13節)。聖霊は、どう祈ればよいか分からない弱い私たちを助け、執り成し続けていてくださるからです(ローマ8章26~27節)。

主に結ばれて日々に新しく(2016.9.4)

宣教題  「主に結ばれて日々に新しく」      宣教 細見剛正師
聖 書  2コリント5章13~17節

私どもの魂の故郷は、神戸中央教会です。天幕伝道で救われ、伝道者として形づくっていただきました。今日、引退後もこのように伝道者としてご奉仕させていただき、この度は特に教会創立70周年の栄えある日に、礼拝説教のご用にお招きを受け、言葉に表せない、感激と喜びに溢れています。ありがとうございます。

テレビ番組「大改造!劇的ビフォー・アフター」を見ていると、古いぼろぼろの傾きかかった家が見ちがえる程に改造されて、「何ということでしょう!」と驚嘆の声をあげます。今日だれもがこれと似た、これ以上に必要とされているのは、私たちの内側の霊魂の大改造ではないでしょうか。私たちはこれを成し遂げる力ある匠であるイエス・キリストを知っています。『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた』(2コリント5章17節)。イエス・キリストもまた同じく工事は、土台、基礎から始められます。

「ローマの信徒への手紙6章」を開きましょう。『あなたがたは知らないのですか』とパウロは大事な点に私たちを注目させます。知っているつもり、でもなおざりにされている信仰生活のそもそもの出発点です。『キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを』(3節)。私たちは、信仰に入りながらなぜ挫折し、燃え尽きてしまうのでしょうか。自我に死んでキリストに生きていない、神だけが出来る神のわざを自分の力でやり遂げようとするからではないでしょうか。皆さん、頑張らなくていいのですよ(広辞苑で頑張るの語源は我を張る)。主に結ばれた日々に新しい三つの姿がここに生まれてきます。(1)新しい動機:キリストの愛(2コリント5章14節)、(2)キリストの目で見る(同16節)、(3)キリストの使者としての自覚(同18~21節)です。神のあなたへの約束、『見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか』(イザヤ43章19節)。