月別アーカイブ: 2016年8月

神様の切なる願い、それはリバイバル(2016.8.28)

宣教題  「神様の切なる願い、それはリバイバル」   宣教 犬塚直樹師
聖 書  創世記35章1~15節

神様の御思い、願いは何でしょうか。それは、リバイバルです。リバイバルとは神様があなたを訪ねて下さること。ご自分の民に出会ってくださり、死んでいた魂を甦らせてくださることです。なぜなら私たちの魂は何度も死んでしまうことがあるからです。創世記35章はヤコブの生涯の集大成で、リバイバルが訪れると、どのように目に見える祝福があるか分かります。

1.肉の人ヤコブ
家族さえも陥れ自我丸出し、自分さえよければという人でした。信仰者家庭に生まれましたが、自分で神様に出会った体験がなかったので、自己中心のところがありました。あなたは神様に出会いましたか。あなたは救われましたか。

2.ヤコブの転機
第1のリバイバルはベテル(28章)です。お兄さんに追われ、孤独で危機的な状況で神様に出会いました。神様の方から近づいて下さいました。今までアブラハムの神、イサクの神でした。しかし、ヤコブは主が私の神であることを体験しました。そして3つの請願をするのです。①主を私の神とします②宮を建てます③十分の一をささげますと。けれども彼の信仰は順調ではなく、3つの請願は忘れてしまい、魂は死んでいくのです。
第2のリバイバルはヤボクの渡し(32章)です。再び兄エソウに会うという不安と恐怖に満ちた時も、神様は彼を訪ねてくださいました。ヤコブの家庭を祝福しようと主自ら来られたのです。御使いとの格闘で、もものつがいがはずれ砕かれました。神様が求めておられることは「砕かれた魂。砕かれた、悔いた心」です。

3.ヤコブへの祝福
(1) 神様に出会う、これ以上の祝福はありません。神様は不信仰や失敗を繰り返してきて、もう投げ出されてもいいような彼を愛し彼に出会って下さいました。(2)祝福の約束を受けるのです。主は御言葉を実現するために来られます。問題の解決がそこにあるのです。(3)ヤコブが祝福されたばかりか、その子ヨセフが幻を受けて、やがてイスラエルの民を救いました。こんな祝福が自分や家族、孫にまで広がるのです。
では、リバイバルはどんな人に与えられるのでしょうか。神様を慕い求める人です。

礼拝ご案内・行事予定(2016年9月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
4(日) 第1聖日 平和聖日・伝道礼拝「主に結ばれて日々に新しく」
2コリント5:13~17
休会
11(日) 第2聖日 礼拝「祈ることをまなぶ喜び」
ルカ11:1~13
祈りと証し
18日(日) 第3聖日 礼拝 「あらゆる問題の根」
イザヤ56:9-57:13、ローマ1:23
世の光なるキリスト
ヨハネ9:1~11

真田 重治
25日(日) 第4聖日 伝道礼拝 「恵みの風を受けて」
ヨハネ3:1~16
羊飼いなるキリスト
ヨハネ10:1~15
増永  茂

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

9月行事予定

4日(第1聖日)教会創立70周年記念礼拝&長寿祝福礼拝 洗礼式 感謝愛餐会、敬老感謝会
11日(第2聖日)礼拝 聖餐式 9月誕生者祝福
18日(第3聖日)礼拝
25日(第4聖日)伝道礼拝  アンサンブル・シオン定期演奏会

10月行事予定

2日(第1聖日)世界聖餐日礼拝 10月誕生者祝福 エノク会例会
9日(第2聖日)神学校デー礼拝 聖餐式   15日 CS秋の遠足
16日(第3聖日)礼拝 災害避難訓練
22日(第4聖日)礼拝 Happy Sheep
30日(第5聖日)特別伝道礼拝 特別伝道集会

義をもって義に応える(2016.8.21)

宣教題  「義をもって義に応える」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ56章1~8節  マルコ1章15節

聖書が語る神は、すべての民がご自身ところに集められることを願っておられる。だからこそ、見捨てられたかと思える人々の所に主は人を遣わされた。

1. 集めようとしておられる主
神の民に加わることができない人々がいた。王宮に仕えるために去勢した宦官たちは、子孫など残しえない枯れ木だ(56:3)と考えられていた。しかし、その名は永遠に覚えられると主は約束される(56:5)。主のもとに来たとしても、異邦人は一段低く見られると考えられていた(56:3)。しかし、神殿でささげものをささげる祭司とする、と主は言われている。神の民に入れないはずの人々を、主は新たに集めよう願っておられる。

2. 義をもって義に応える民
「恵みの業」(56:1)は「義」と一般的に訳される。イスラエルと契約を結ばれた主は、契約に則ったわざ、すなわち義をなされ、民を敵の手から救われた。一方的な神の恵みのわざ、義のゆえに、イスラエルも神との契約にふさわしい形で応えるように招かれている。律法にふさわしい歩み、義こそその応答である(56:1-2)。感謝と喜びのゆえに、心を込めてひとつひとつの正しいわざをなす。このようなイスラエルの義を用いて、主は更に多くの民を自らのところに集めようとしておられる。

3. 集められる者はすでに集められた者のように
さまざまな人が主のもとに集められる。しかし、彼らには一つだけ共通点がある。神の契約を固く守ることが求められている点である(54:2, 4, 6)。つまり、イスラエルのみならず、すべての人に義をもって義に応えることが求められている。そのような意味で、主が新たに集める人は、すでに集められた人々に似た者となる。
イエスのわざによって、神の国は到来した(マルコ1:15)。さらに多くの人を集めようとしておられる神の意図、義をもって神の義に応える私たちという神の手段、私たちの影響力の三つを知ることは大切である。更に多くをご自身のところに集めようとする神は、私たちを通してその義のわざをなされるのだから。

この恵みにしっかり立って(2016.8.14)

宣教題  「この恵みにしっかり立って」        宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章12~14節

「クリスチャンとしての立ち位置は」との問いに対して、ペトロが「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」と語っているように、恵みのうちに立ち続けることです。ペトロがここに至るまで、簡潔かつ力強く「勧告をし」「証しし」てきた恵みとは、どういうものなのでしょうか。

1.神の恵みで満ちている
ペトロが、「あなたがたにこのように短く手紙を書き」と言っているのは、「神のまことの恵み」の豊かさを語り尽すことができないほどに、神の恵みは大きく、偉大であるということなのです(12節)。
この手紙には「恵み(カリス)」との言葉が多用されていますが、「神の御心に適う」とも翻訳されており(2章19~20節)、神の恵みの豊かさを表しています。苦しみもまた神の恵みであり、その時にこそ、ひときわ聖霊なる神はクリスチャンに寄り添い、その恵みを自覚させてくださるのです(4章14節)。神の恵みを立ち位置とするゆえに、「信仰にしっかり踏みとどまって」歩むのです(5章9節)。

2.恵みの交わりに生きている
この手紙が結ばれるに際して、神の恵みに共に生きるペトロの協力者が紹介されています(12へ13節)。シルワノ(シラス)は、パウロと労苦を共にする協力者でした(使徒言行録15章40節、16章19節)。彼は、ペトロが「忠実な兄弟と認めて」おり、洗練されたこの手紙を書いたのです。また、失敗経験のあるマルコを再出発させ、「わたしの子マルコ」と呼んでいます。そのマルコが「福音書」を残したのです。
さらに、ローマにあってペトロと共に戦う人々との祈りによる交わりがありました。ペトロ自身は、「互いに」真実な愛と平和(平安)が保たれた交わりを願って祈っています(14節)。その彼を支えていたものは、主イエスの絶えざる執り成しの祈りでした(ルカ22章32節)。私たちは、この祈りの交わりを重んじるのです。

平安であるように(2016.8.7)

宣教題  「平安であるように」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ14章27節、20章19~20節

教会で広く用いられている言葉の一つに「シャローム」があります。「平和」とか「平安」と訳されており、語感からすると、前者はより外面的な他との関わりを示しており、後者はより内面的な心の状態を表しています。両方の意味を含んでいるのですが、今こそ私たちの心と生活に必要とされるものです。

1.平和をつくるために
主イエスは、何が幸いといって、「平和を実現する人々」すなわち平和をつくる者こそが幸いであると言われました(マタイ5章9節)。私たちの個人の生活、家庭の生活、社会での生活、また国家に関することなど全てにおいて、他者との関わりの中にある平和を積極的に求めて平和をつくり出すことが求められています。
ところが、そうした平和を乱す争いの芽は、私たち自身の中にある争い合う欲望にあります(ヤコブ4章1~2節)。ですから、その自己中心の罪を解決していただき、私たちの内に揺るがない平安をいただくことによって、真に平和をつくり出す道が開かれるのです。

2.キリストの平安を与えられて
主イエスは、十字架にお架かりになる前夜、弟子たちにぜひとも受け取って欲しい、持っていて欲しいと願われたのが「平安」でした(14章1節、16章33節)。それは、キリストの平安であり(14章27節)、復活された主イエスがお与えになる「平安」でもあります(20章19~20節)。
この平安は、「世が与えるように与えるのではない」とあるように、富や、教養や、善行や、運に関係なく、主イエスに対する信仰によってのみ与えられるのです(14章1節)。そこには、主イエスの十字架の身代わりによって罪が全く赦され、復活の主イエスが与えてくださる永遠の命に生きる喜びをともなった平安があります。キリスト信仰者の失うことのない財産は、キリストの平和(平安)です。