月別アーカイブ: 2009年5月

教会の起源(2009.5.31)

題   : 「教会の起源」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  2章1節~13節
五旬節の日が来て」とは、イ-スタ-から50日目にあたるペンテコステの日を言います。この日は、キリスト教会の起源として祝いの時でした。また、キリストの救いがあまねく拡大していくという、豊かな霊の収穫の時の始まりでした。

1.神の霊によって  1~4節
「一同が一つになって集まっていると」、突然聖霊が降りました。聖霊は、風が激しく吹くように、神に背を向けて生きていた者に新しい神の命を与え、次から次へと新しい命を生み出していきます。聖霊は、炎のように、私たちの罪や汚れを焼き尽くし、キリストのお姿を私たちの内に焼き付け、私たちをキリストのものとして燃え続けさせてくださいます。そして、聖霊は、舌に象徴されるように、私たちが福音の言葉を語れるようにしてくださいます。
聖霊は、「突然・・・天から・・・一人一人の上にとどまった」のであり、その結果「一同は聖霊に満たされ」たのです。このようにして、教会は、聖霊によって始められたのであり、今も変わらず聖霊が働いておられるのです。

2.神の言葉によって  5~13節
ペンテコステの出来事は、宣教する教会が始まった時でした。聖霊に満たされた人々は、「゛霊゛が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のでした。人々が驚いたことは、各地から来ていた人々の生まれ故郷の国語で、「神の偉大な業」が語られていたことです。この時、「天下のあらゆる国から」の人々によって福音が語られています。しかも、文化・国語・地方性にマッチした形で「めいめいが生まれた故郷の言葉」によって語られています。このように、聖霊が一人一人に降る時、神は私たちをご自身の器として用いてくださるのです。
ところで、聖霊が降ったその時から、教会は宣教の群れとなりました。聖霊の満たしとその支配の中にあったからです。私たちは、失敗や挫折があっても、閉塞感を覚えることがあっても、時が良くても悪くても、宣教する教会を導かれる聖霊の働きに、心と思いを向けていく必要があるのです。

恵みを無にしない(2009.5.24)

題   : 「恵みを無にしない」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコによる福音書  8章1節~21節
主イエスは、「群衆がかわいそうだ」と言われ(2節)、いつも憐れみを注ぎ続けられました。そこから溢れ出た今回のパンの奇跡は、先回のパンの奇跡(6章30~44節)と同様に、主イエスの恵みの御業でした。私たちは、今日も変わらない主イエスの恵みを無にすることはできません。

1.満ち溢れる恵みであるから
先回の奇跡と今回の奇跡には、多くの共通するものがあります。中でも、「残った」パン屑を籠に集めたことは(8節)、神の恵みを無駄しないことを教えています。 ところで、主イエスは、偽善と世俗主義の悪影響が及んで、神の恵みが変質させられることを嘆き悲しまれました。弟子たちが、信仰をもって神の恵みを受け止めることができなくなったからです(11~21節)。
さて、私たちは、神の満ち溢れる恵みを変質させ、信仰によって受け止めることができず、それを無にしていないかと問われます。キリストの救いの恵みは満ち溢れており(2コリント9章18節)、その喜び、慰め、栄光、感謝、希望も満ち溢れています。主イエスに心柔らかくしていただき、信仰の目、信仰の耳を開いていただきましょう。

2.拡大されていく恵みであるから
先回の奇跡と今回の奇跡には、相違点もあります。注目すべきことは、先回は弟子たち方が心配して主イエスに相談しましたが(6章35~36節)、今回は主イエスの方から話しかけておられます(8章1~2節)。
前者は、主イエスが弟子たちの信仰をテストされたことに重きをおき、後者は、弟子たちの異邦人に対する冷淡な態度に対して主イエスが憐れみの御業をされたことに重きをおいています。
私たちは、常に主イエスの御業に満ち溢れ、それが拡大されていくことが求められています。ですから私たちは、今ある全てを主イエスの御手に委ねて、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」(1コリント15章58節)と、神の恵みを拡大させていく使命を果たしていくのです。

受け継がれる祈り(2009.5.17)

題   : 「受け継がれる祈り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  1章12節~26節
復活された主イエスは、40日後に昇天されました(9節)。その時から使徒たちは、10日の間、神の約束に従ってエルサレムで過ごしました(4節)。その期間、「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)のです。

1.信じ抜く祈り
使徒たちは、主イエスが昇天された後、どうすべきかと協議していたのではありませんし、今後の長期計画を練るために集まったのでもありません。ただ、彼らは、エルサレムの「泊まっていた家の上の部屋」で、約束の聖霊が与えられることを信じ(ヘブライ11章6節)、祈り待ち望みました。しかも、「熱心に祈っていた」と、祈りに打ち込んでいたのです。10日間祈りは、彼らにとって信仰の試される期間でした。
キリスト教会の歴史は、信仰による待望の祈りを体験した人たちによって進められてきました。それは、私たちの教会にとっても例外ではありません。祈る時間がないほど忙しいスケジュ-ルになって、優先順位を間違えないようにしたいものです。祈りに忙しい教会であらせていただきましょう。

2.一致して心注ぎだす祈り
ここには、使徒たちだけではなく、主イエスに従ってきた人たちが集まり、「心合わせて」同じ心で、祈りに打ち込んでいます。ここでの彼らは、主イエスの救いの御業が何を意味するのかを問い直し、自らを吟味し、悔い改め、罪を言い表し、互いに赦しあう時となりました。真の一致は、主イエスの十字架のもとで、真実な悔い砕かれた心を注ぎだすところから生まれてくるのです(ヤコブ5章16節)。
さて、12使徒の補充のために選ばれたのは、他の使徒と行動を共にした「主の復活の証人」でした(21~22節)。そのために人々は、祈って、「すべての心をご存じてある」主に判断を委ねています(23~24節)。
祈りは、教会が進んでいく上で、人ができる最善の備えです。こうした祈りこそが、いつの時代にも、いかなる状況下にあっても、受け継がれていくのです。

喜びにも、悲しみにも(2009.5.10)

題   : 「喜びにも、悲しみにも」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  18章9節~15節
アブラハムとサラ夫妻は、神の召しを受けて、未見未知のカナンの地に旅立ちました(創世記12章1~5節)。その時から、妻サラは、呟くことなく、夫に従って行きました。この出発は、彼女の生涯にどのような信仰をもたらしたでしょうか。

1.神の真実への信仰
サラは、不妊の女でしたが(創世記11章30節)、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ロ-マ4章⒘節)を信じる必要がありました。ところが、彼女は、神の時が待ちきれず、女奴隷ハガルを夫にすすめるという不信仰の行動を取ったのです。その実は、嫉妬と憎しみが渦巻く家庭のトラブルを刈り取ることとなりました(創世記16章)。
しかし、神は、約束どおりサラに祝福を与えられました。神は、ご自身の使者を通して彼女に懐妊したことを知らせ(同18章13~15節)、約束の子イサクを与えられたのです(同21章1~8節)。
こうして、信仰の弱いサラは、悔い改めて、神は約束されたことは必ず成し遂げられる「真実な方」であるとの信仰に飛躍したのです(ヘブライ11章11節)。神の真実が最大限に現されたのは、イエス・キリストの十字架です。私たちは、いかなる時にも十字架を仰ぎ、神の真実に対する信仰を貫くことが必要です。

2.従順の信仰
アブラハムとサラ夫妻の最大の試練は、最愛の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との神の命令でした(創世記22章)。アブラハムは、自らも納得できないことでしたし、他者に説明することはとうていできないことでした。しかし、彼は、神の命じられることに従ったのです。また、「サラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました」(1ペトロ3章6節)。
彼女は、喜びにも、悲しみにも、神に従順な夫の行く所どこまでも従ったのです。このサラの強い感化が、神を畏れ、父母に仕える従順の子イサクを生み出したと言えるでしょう。
主イエスは、「多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5章8節)。まして私たちが従順を学び続けることは、当然のことなのです。

開かれる世界(2009.5.3)

題   : 「開かれる世界」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコによる福音書  7章31節~37節
神の福音に与かった人は、それを分かち合うことを願います。この福音は、今日にいたるまで、「この方のなさったことはすべてすばらしい」(37節)と証しされ、伝道されてきました。この福音の世界は、これからも開かれ続けていきます。

1.自分の魂が開かれる
連れて来られた「耳が聞こえず舌の回らない人」は、コミュニケ-ションが遮断され、視界のみの世界に生きていた人でした。主イエスは、この人の痛みにご自身の体をくっつけて触れられ、それが主イエスご自身の深い憐れみによる御業であることを明らかにされました。そして、「エッファタ」と言われて、この人の人格全体を解き放たれたのです(33~35節)。
私たちの間のコミュニケ-ションが、不足し、断絶している原因はどこにあるのでしょうか。私たちが、神の語りかけに魂の耳を開いていない、神に語りかける魂の口がきけないでいることにあります。しかし、憐れみの神は、私たちが神と心を通わせることができるように、さらに私たちお互いが心を通わせることができるように、イエス・キリストによって救いの道を開いてくだったのです。

2.隣人の魂が開かれる
かつては、主イエスに退去を求めたゲラサ人が(マルコ5章17節)、ここでは、耳の聞こえないで舌のもつれていた人を主イエスのもとに連れてきました。かつては、自分たちの豚のほうを大切に思っていましたが、今や隣人の救いを願っています。汚れた霊にとりつかれていた人が、主イエスによって解き放たれた救いを「デカポリス地方に言い広め」ていたからです(同19~20節)。一人の人の真実な証の持つ力は、どんな人の魂も開き、変えてしまうのです。
主なる神は、私たちを主の弟子として、必要な舌と耳を備えてくださいます(イザヤ50章4~6節)。舌は、すべて疲れて重荷を負う人に与える主の言葉です。そのために、主なる神は、神に聴いて悟ろうとする私たちの耳を全開してくださいます。 主の弟子は、周囲にいる隣人の魂のために、開かれた心、開かれた耳をもって、開かれた福音の言葉を語り続ける者なのです。