月別アーカイブ: 2009年4月

信仰の余裕(2009.4.26)

題   : 「信仰の余裕」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ  7章24節~30節
ここに登場する母親は、わが子を愛するゆえに、その娘のあまりにも重い病のいやしを主イエスに願い求めています。
それに対して主イエスは、冷淡とも思える言葉を語り、態度を取られました。しかし、母親は主イエスに対する信仰を失いませんでした。その余裕は、いったいどこからきているのでしょうか。

1.キリストの愛を知るゆえに
母親が、主イエスに願い続けたのは(26節)、主イエスが沈黙されたからであり、無視するような態度を取られたからです(マタイ15章23節)。挙句の果て拒絶されました(27節)。
しかし、母親は主イエスの語られたことに腹を立てることなく、拒絶の言葉と受け取ることもありませんでした。それどころか、満腹した子供たちの食べこぼしを小犬も食べますと、主イエスの豊かな愛と恵みに与かることを願っています(28節)。ですから、「主よ」と呼びかけることができたのです。
私たちが祈り願うことの答えが得られないとき、なお信じ、祈り続けることができのは、神の御言葉をどう聴くかにかかっています。いかなるときも、主の愛に信頼することです。そこに、信仰のゆとりが生れます。

2.キリストを信じ抜くゆえに
母親は、主イエスの「足もとにひれ伏し」懇願しています(25節)。彼女は、ひれ伏したまま主の御言葉を聴き、見上げながら、「主よ、お言葉どおりです」と謙虚に語っています(28節、口語訳聖書)。主の御言葉を聴き取ることができ、主の恵みを見ることができるのは、魂がひれ伏し、ひざまずいている時です。
ところで、主イエスの語られた通りに信じた母親は、あれほど執拗に懇願した人とは思えないほどに、あっさりと家に帰っています(29~30節)。それは、見ないで信じる信仰だったからです。
私たちは、罪人であり、弱く小さな者でしかありません。主イエスは、そんな私たちを愛し抜き、救いを成し遂げてくださいました。私たちは、主イエスの前にひれ伏し、信じ抜くだけです。そこから、信仰の余裕が生れるのです。

教会が若かった時(2009.4.19)

題   : 「教会が若かった時」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  1章1節~11節
あらゆる時代のキリスト者と教会を目覚めさせ、鼓舞してきたのが「使徒言行録」です。そこに証されていることは、教会の前進が聖霊の御業によるということです。そこには、聖霊によって変えられた人々がおり、聖霊に満たされた人々の力強い証があります。こうした教会の若さの秘訣は、いったいどこにあるのでしょうか。

1.キリストの証人が用いられる
聖霊は、キリストに贖われた人々とキリストの体である教会を通して、今も働きを継続しておられます。それは、地理的にも時間的にも、何ものにも拘束されずに、世界的な拡がりをもって進められています。
そのためには、私たち一人ひとりが「わたしの(キリスト)証人となる」必要があるのです。証人は、最も説得力を持つ事実を証言します。それは、キリストの十字架と復活の出来事の証人であり、その十字架と復活が自分の生涯にどのような変革をもたらしたかの証人です。そのために、しばしば不利で危険な立場に立たされることがあったり、キリストのゆえに殉教することもあるのです。
キリストの証人は、最も身近な人々から、「地の果てに至るまで」の拡がりの中で用いられていくのです。

2.聖霊が臨まれる
キリストの証人になれるのは、その人に能力があるから、訓練を受けたから、熱心であるからではありません。その秘訣は、「聖霊が降る」ことによって「力を受ける」からです。それは、いつでも、どこでも、どんな状態であっても、「イエスは主である」(1コリント12章3節)と証させてくださる力です。また、キリストの栄光のみを現わすことを第一とする力です(ヨハネ16章14節)。
私たちは、聖霊が臨まれるために、「私ではありません。キリストです」との信仰の転換をさせていただく必要があります。その転換が、一時的ではなく継続されていく時に、聖霊によって力が与えられていることを自覚することができるのです。
教会が若いとは、聖霊が臨み続けているキリストの証人によって、キリストとその救いの事実が証言され続けて前進している教会です。

石はすでに(2009.4.12)

題   : 「石はすでに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 16章1節~8節
聖書の時代から今日までの多くの人々は、「聖書は信じられない出来事である」と受け止めてきました(11節、13節、14節)。
さて、主イエスが葬られた墓に最初に行ったのは、三人の女性たちでした。彼女たちは、「石は既にわきへ転がしてあった」との事実と、「あの方は復活されて、ここにはおられない」との御使いの知らせに恐れています。

1.大きな「石」が取り除かれた出来事
キリストの復活は、大きな石が転がしてあった、ということに象徴される出来事でした。大きな石は、誰の上にものしかかっており、どんな手立てをもってしても、また誰も取り除くことのできないものです。それは、人間の死という現実と、それをもたらした原因である罪の支配の中にいることを言っています。
主イエスは、このような私たちの現実から解き放つために、私たちをまるごと受け入れ、十字架に死んで私たちの罪を赦して罪の無いものとしてくださり、復活されて私たちの最後の敵である死に勝利してくださいました。この救いは、一時のご利益に与るものではなくて、死を越えた永遠までも保障するものです。いかにも神らしい実力をもってなされた雄大な救いです。

2.神が「既に」なされた出来事
このように、主イエスの十字架と復活の御業は、何ら人の手を借りることなく、神の側で「既に」成し遂げてくださったことでした。私たちは、この事実を信じて仰ぎ続けるのみです。
ところで、復活された主イエスに出会うことが、わざわざ「ペトロに」と言われています。彼は、十字架を前にした主イエスを否認したことを悔い改め、信仰の回復をいただきました。その恵みを覚え、新たに生きる道と使命を与えられたことに、誰よりも感謝しているのです。
今日まで教会の全ての業がなされ続けてきたのは、キリストの復活の事実によります。何よりも、私たちが、主イエスに対する信仰と希望と愛をいただいて歩み続けていることこそ、キリストが生きておられることの歴然たる証拠なのです。

むりやりの恵み(2009.4.5)

題   : 「むりやりの恵み」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 15章21節~41節
主の十字架は、神の必然の出来事でした(マルコ8章31節)。主イエスは、この十字架の道を黙々と進んで行かれました。その十字架の周りには、一緒に十字架に架けられた人たちをはじめ、多くの人々が向かい合っています。
私たちは、今、どのように十字架に向かい合っているでしょうか。

1.十字架の主に直面している  39節
主イエスは、十字架にかかって、私たちの罪を担ってくださいました(1ペトロ2章22~24節)。そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれました(34節)。この叫びは、私たちが受けなければならない罪ゆえの審きを、その審きを受ける必要のない主イエスが身代わりになって審かれてくださったことを表しています。
その十字架の前に、主イエスを見下す人々(29~32節)、背を向ける人々がいました(23~24節)。しかし、百人隊長は、「イエスの方を向いて、そばに立っていた」のです。そして彼は、十字架の主の前に真正面に立って、「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。私たちは、主イエスを十字架に追いやったことがどんなに深い罪であるかを知って、十字架の主に真正面に向き合う者でありたいものです。

2.十字架の恵みに直面している  21節
主イエスは、十字架を担いで刑場までの道をたどられました。途中、その十字架を「無理に担がせ」られたのがキレネ人シモンでした。彼にとっては、これは苦痛の時でしたが、十字架の主イエスを最後まで見守り、その叫びと祈りを見聞きしました。むりやりに担がされた十字架は、時間の経過とともに喜びに変わり、家族にまで救いが及ぶ恵みとなったのです(ロ-マ16章⒔節)。
私たちは、シモンと同じように、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マルコ8章34節)との招きに「日々」(ルカ9章23節)に応答していくなら、主イエスの恵みの大きさ、その救いの重さを見せていただき、ダイナミックな信仰の歩みとなります。主イエスは、責任をもって、十字架を貪る者の歩みを全うさせてくださいます。