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Kobe Central Church

主の愛は訴えている(2012.3.18)

宣教題  : 「主の愛は訴えている」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 13章1節~20節

主イエスは、十字架の死という「御自分の時が来た」ことを自覚され、弟子たちを最後の極みまで「愛し抜かれ」ました。それは、十字架の死に至るまで愛を貫かれ、私たちの救いを完成してくださったことを意味しています。主イエスは、今もこの愛を訴え続けられておられ、私たちにそれに応えるように求めておられます。

1.謙って受け入れる   2~11節
主イエスは、貪欲になって悪魔に振り回されているイスカリオテのユダや後に主イエスを否認するペトロが悔い改めることを願われて、訴えるようにして彼らを愛いし抜かれました。そして、彼らに対して、当時の異邦人の奴隷が行った洗足をされたのです。それは、この後主イエスが十字架の身代わりの死によって彼らの罪を赦してきよめてくださることを象徴する行為でした。
その主イエスの御心を理解できないでいたペトロは、洗足を拒んだり、また的外れな応答をしています。彼は、謙って主イエスとその恵みの御業を受け入れることができなかったのです。
私たちは、主イエスによる救いの恵みと、救われた歩みを全うさせてくださる主の恵みを、謙って受け入れるものとさせていただきましょう。

2.謙って仕える   12~20節
このような主イエスの愛に生きる者は、謙って仕える愛に生きる者に変えられます(14~15節)。そうすることによって、真の幸いと祝福を経験する者となるのです(17節)。しかし、謙って仕える愛を経験しなかったイスカリオテのユダは、悪魔にねらわれる隙がありました。その結果、父なる神、そして御子イエス・キリストを受け入れることができなかったのです(20節)。
私たちが謙って仕える愛を経験するのは、主人や客人ではなく、食卓に仕え、客の足を洗う僕です。教会は、そのことを学び、また経験する神の愛の学校です。主イエスは、謙って私たちに仕えてくださっています。私たちは、この主イエスと結び合わされて、謙って仕える喜びを経験していきましょう。

主がしたとおりに(2012.3.18)

宣教題  : 「主がしたとおりに」   宣教:   水野 晶子 師
聖    書  : ヨハネによる福音書 13章1節~15節

今年もレントを迎えています。このレントの期間、一日一日を主の十字架を思いつつ歩ませていただきたいと思います。主は十字架を前にして、弟子たちと食事する最後の日、特別な意味ある日に何をされたのでしょうか?

1.ご自分の愛を示された。(1節~11節)
時が切迫している中で、イエス様は何よりも弟子たちを愛されました。時を知ることも空気を読むこともできない弟子たちはこの大切な時に、「誰が1番偉いか?」ということに夢中で、言い争いになってその場の雰囲気を台無しにしていました。主は彼らのいやしい姿、自慢好きで、偉くなりたいという欲望も、ユダの裏切りや弱さもみんなご存知でした。彼らがどんな性格であろうと、イエス様は最後まで彼らを愛し抜かれたのです。1番偉いのは誰か?1番高い地位につくのは誰かと争っている弟子たちに、どのようにして主の御心を伝えたらいいのか?主は夕食の席を立ち、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、たらいに水を汲まれ、奴隷となり、膝まずいて弟子たちの足を洗われました。主の御手は嵐を静め、盲人の目を開いた偉大な御手が、体の中で最も卑しく、最も軽んじられている足に触れ、洗われました。一番汚れていたのは彼らの心でした。主はその心に触れられ、清められたのです。主は私たちにも「足を出しなさい」ときよめようと待っていてくださいます。

2.主がなしたことの意味(12節~15節)
イエス様はこの洗足を通して弟子たちにカルバリで起こる事の洞察を与えられました(フィリピ2:5~8)。天の栄光を捨てて、衣を脱ぎ、人となられ、しかも奴隷となり、十字架にまで従われ、手足から血が流され、最後に槍でわき腹が突き刺され血と水が流れ出たのです。この血と水こそ私たちの足を洗う尊い水と血なのです。一人残らず洗ってもらう必要があります。イエス様は「わたしがしたとおりにするように命じられました」。それは下へ下へ降っていく姿勢、互いに足を洗い合う関係が求められているのです。主の愛と謙遜とを身に着けさせていただき、人が生かされ救われるために、人生をかけてキリストが歩まれたように生きるものとならせていただきましょう。

今は悔い改める時(2012.3.11)

宣教題  : 「今は悔い改める時」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   1章16節~34節

アテネに到着したパウロは、世界の文化人を相手取って福音を告げ知らせました。その伝道説教の結論は、「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じられています」というものでした。神の御心に適った悲しみがもたらす悔い改めは(2コリント7章10節)、どのような神の救いをもたらすのでしょうか。

1.新しく創造される  16~21節
アテネの町の至る所に偶像があるのを見て「憤慨した」パウロは、様々な立場の人々と「毎日」論じ合っていました。なかでも、哲学的・合理的考え方をする者たちは、主イエスと復活についての福音を聞いて、愚かな話しと受け取ったのでした。彼らは、パウロが語ることがどういう「新しい教え」なのかと興味本位な質問をしています。
ところで、パウロが福音を語る時には、時間の経過とともに古くなっていく時間的な新しさではなくて、時間が経過しても決して古くならない質的な新しさという理解をもっていました。私たちが、十字架に死んで復活されたキリストに信仰によって結び合わされるならば、全く質的に新しい者に造り変えられるのです(2コリント5章17節)。今こそ、悔い改めることによって、新しく創造された者とされましょう。

2.祝福された死が始まる  22~34節
パウロは、アテネの人々の宗教心に敬意を払いつつ、聖書が明らかにしている神について宣教しています。まことの神は、天地の主である創造の神であり、人間の命の神であり、歴史を支配される方で、私たちの身近な神であることを明らかにしています(22~29節)。そして、最後に、キリストによる審判の日に際して、キリストが復活されたことが死者の復活の確かな保証であると宣言しています。それゆえに、神に立ち帰ることを迫っているのです(30~31節)。悔い改めてキリストの福音を受け入れる時に、祝福された死の始まりの中に生きる者とされるのです。
今も変わらずに「イエスと復活について福音」が告げ知らされています。まず、悔い改めてそれを受け入れましょう。そして、それを大胆に、確信をもって知らせ続けましょう。

あわれむ神(2012.3.4)

宣教題  : 「あわれむ神」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  1章39節~56節

マリアの賛歌には、共通する神のご性質が語られています。それは、「憐れみ」という言葉に表されており(50節、54節、55節)、神は約束されたことは誠実に果たされるお方です。憐れむ神は、私たちに信仰による変革を経験させてくださいます。

1.神をあがめる信仰  46~50節
神から受胎告知を受けたマリアは、急いでザカリアの家に行きエリサベトに挨拶しました。彼女たちが喜びを共にした時に、マリアに歌が生まれたのでした(39~45節)。
マリアは、測り知ることのできない神の御思い・御計画・御約束・御業に対して、全存在をもって神をあがめ、讃え、自分の身を投げ出しています(46~47節)。そうすることが出来たのは、自分に目を見はるような高貴さや華やかさがないにもかかわらず、神が目を留めてくださり、大いなる救いの御業を進められることを知ったからです(48~49節)。彼女は、神を畏れ敬いつつ、その憐れみを讃えているのです(50節)。
憐れみの神は、罪に汚れ、自らの力で聖なる者になれないことを徹底して自覚する者を目に留めてくださり、神の救いを受け取らせてくださるお方です。私たちは、「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられる」信仰に生きる者とさせていただきましょう(フィリピ1章20節)。

2.生き方を変える信仰  51~55節
マリアは、憐れみの神が人間の価値観を変えてくださることを歌っています。それは、主なる神が現わしてくださった謙遜に生きること(51節)、その御支配に生きること(52節)、主なる神の恵みの豊さに生きること(53節)といった生き方です。神は憐れむことを決して忘れるお方ではなく、一人ひとりを通して、家族に、また周囲にそれを及ぼしていかれるのです(54~55節)。
ところで、マリアとエリサベトは、約三カ月に渡って神の憐れみを喜び合っていたのでした(56節)。そうした共にいる姿、喜ぶ姿、歌う姿は、今日の教会の姿でもあるのです。私たちは、「すべての聖なる者たちと共に」(エフェソ3章18節)、神の憐れみの交わりを共にし、そこに留まり続け、拡げていく生き方をさせていただきましょう。

神の民の魅力(2012.2.26)

宣教題  : 「神の民の魅力」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖   書  : 申命記 4章5節~8節 マタイ 5章16節

人の前ではなく、神の前を歩むことを私たちは重んじています。しかし、人々に見られ、比較されてはじめて、神の民の魅力は明らかになります。ですから、人々の前でどのように生きるかも神の民はいつも問われています。

1.見られる存在として生きる
イスラエルに律法が与えられたのは、約束の地の「真ん中で」(申命記4:5、新改訳)それを行うためでした。さらに、律法に従うイスラエルを通して「諸国の民・・・知恵と良識が示され」(4:6)ます。このように、イスラエルは諸国民に見られる存在として生きる使命が与えられていました。隠されたともしびではなく、光を輝かすランプです(マタイ5:16)。「見せる」のではありません。人々の行き来の激しい場所で、淡々と律法に従って歩む姿が自然と人々の「目にとまる」のです。そして、目にとまって初めて、人々は「すべての掟を聞く」(申命記4:6)ようになるのです。この順序が逆になってはいないでしょうか。

2.比較される存在として生きる
見られ、そしてイスラエルの生き方を示した掟が聞かれたならば、諸国の民は比較を始めます。その生き方が「知恵と良識」(4:6)に満ちているか、主への祈りに信頼した生活であるかが比べられます。最終的には、イスラエルと他の国々ではなく、イスラエルに掟を与えた主が他の神々と比較されます(4:7~8)。聖書に描かれている神の姿、聖書が求めている人、教会、社会の姿は、どこに出しても恥ずかしくないものです。けれども、この聖書に生きるよう招かれている神の民はどうでしょうか。
魅力ある民とは「大いなる国民」(4:7~8)です。しかし、神の民の偉大さは、御言葉を私たちに与えられた主の偉大さであることを覚え、この方を指し示す民としての歩みへと進ませていただきましょう。

御言葉の力(2012.2.19)

宣教題  : 「御言葉の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 17章10節~15節

パウロたちの福音宣教は、テサロニケにおいても、ベレアにおいても迫害に遭いましたが、その度ごとに次の素晴らしい場所に導かれていきました。このように、苦しみに遭い、卑しめられ、貧しくなることは良いなのです(詩編119編71節)。そのとき、福音を語る者も聴く者もともに、御言葉の力を経験するのです。

1.日々の平時において   10~12節
パウロとシラスは、テサロニケにおけると同様に、ベレアでも福音を語りました。ここでのユダヤ人たちは、語られる御言葉に対して、素直に開かれた心で、熱心かつ真剣に聴きました。そして、「そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」ほどに探究心がありました。このようにベレアでは、テサロニケ以上に福音に対して良い反応があったので、多くのユダヤ人と異邦人が信仰に導かれたのでした。
こうした姿勢は、御言葉に対して鋭敏な感覚を養い、御言葉に照らして何が正しいかが判断でき、聖書の真理に生きる信仰者が生み出していきます。そのために、説教者と聴衆に求められることは、日々に御言葉に聴き、黙想することです。また、御言葉を力を尽くして究めていくことです。

2.危機に際して   13~15節
しかし、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアにおいてもパウロたちの福音宣教活動を妨害しまた。これに対してベレアの信徒の対応は、実に素早くパウロをアテネに逃れさせました。ただ、シラスとテモテはベレアに残って、誕生したばかりの信徒の信仰の訓育をしたのでした。このようにベレアの信徒は、危機意識をもって臨んだシラスとテモテによる信仰の導きを、素直に、熱心に、聖書に問い続けたのでした。その結実として、後日ベレア教会から指導者が生まれています(20章4節)。
「素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ」るとは、主イエスとその御言葉の前にひれ伏す姿勢でもあります。それは、ベタニアのマリアに見られる信仰の姿勢でした(ルカ10章39節、ヨハネ11章32節、同12章3節)。
危機における御言葉に対する姿勢は、平時の御言葉に対する姿勢の応用なのです。

神の企て(2012.2.12)

宣教題  : 「神の企て」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 1章26節~38節
「神にできないことは何一つない」(37節)と語られている御言葉は、私たちを捉えます。それは、神が語られた企て(ご計画)は必ず実現される「全能の神」であることを明らかにしています。私たちは、この問いかけにどう応答していくのでしょうか。

1.全能の神の前に立つ
神は、天使を通して、マリアにご自身の企てを打ち明けられています(30~33節)。それに対してマリアは、「どうして、そのようなことがありえましょう・・・」(34節)と訴えています。これは、神は全能であられるが、人は限界あるものであると言い表している言葉です。
私たちは、神の全能の前に、自らが無力であること、乏しいこと、悩んでいること、罪深いことを認めなければならないところに追いやられることがあります。その時に初めて、私たちは、全能の神との生きた関わりを持たせていただくことができるのです。
つまり、「いと高き神の子」であられるイエス・キリストによって、死をも滅ぼされた全能の神の前に(32~33節)立たせていただく経験をするのです。

2.全能の神に委ね続ける
神は、マリアの恐れや不安を解消させる御言葉を(28節、30節、35節、37節)、次々と語られました。彼女は、この神の御言葉に促がされ、導かれて、神の恵みの企ての世界の中に足を踏み入れていったのです。そして、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)との決断をしたのです。この決断をもって、神は救いの企てを実行されていったのです。
私たちは、神の御言葉が成し遂げられるようにとの決断をし、それを全能の神の前に委ね続ける信仰に生きる者です。そのためには、いつも神の御言葉を聴き続けていることが大切です。それが、私たちの決断を支えるのです。
私たちが、全能の神の企てと御言葉に自らの人生を委ねて、信仰の翼を神の全能に向かって大きく広げるなら、神の力を捉えることができます。そして、信仰の高値へと引き上げられていくのです。

福音の力(2012.2.5)

宣教題  : 「福音の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 17章1節~9節、1テサロニケ1章4節~7節
イエス・キリストの救いの福音は、人を新しく造り変え、その存在と言動が周囲にまで波及させていく力があります。それは、聖霊の力、そして聖霊による強い確信によってもたらされます(1テサロニケ1章5~7節)。そのために、福音に対する私たちの姿勢は、どうあればよいのでしょうか。

1.福音に心を開く  使徒言行録17章1~4節
パウロは、三週間にわたって「聖書を引用して論じ合い」ながら、イエス・キリストによる救いの事実を「説明し、論証し」ました。その結果、ユダヤ人、ギリシャ人、高貴な婦人たちが「信じて・・・従った」のです。聖書が開かれて説明される時に、聴く者の心も開かれて、語られていることが自分のこととして体験されるのです(ルカ24章32節、45節、使徒言行録16章14節、17章3節)。
私たちの救いの根拠は、私たちの内側にあるのではなくて、私たちの外側にあります。私たちが、「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れる」ならば(1テサロニケ1章6節)、聖霊は私たちの心の目を開いてくださり、肉眼で見ることのできる世界だけではなく、もう一つの神によって新たに生きる世界をみせてくださるのです。これが、福音の力です。

2.福音に生きる  使徒言行録17章5~9節
ユダヤ教の指導者たちは、イエスを主と告白する者たちが起こらないように政治的な非常手段に訴えました。そして、パウロたちを「世界中を騒がせてきた連中」と非難したのです。しかし、パウロたちは決して騒動や革命を起こそうとしたのではなく、ロ-マが誇る文明社会に福音の一石を投じたのです。その結果、福音は瞬く間に拡がっていったのでした。
福音は、聖霊の力と聖霊の強い確信をいただいた私たちを用いて前進していきます(使徒言行録2章17節、1テサロニケ1章5節)。それは、背伸びするのでもなく、肩を張るのでもなく、「私は主の前にこう生きる」という真実に福音に生きる姿勢から生まれてくるのです。

神にあがなわれた民(2012.1.29)

宣教題  : 「神にあがなわれた民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト 6章2節~9節、コロサイ1章13~14節

エジプトで奴隷として重労働の下に置かれていたイスラエルの民がどれほど努力しても、自分たちを王パロの支配の下から救い出すことはできませんでした。しかし、主が彼らを救い出したことによって(6章6節)、彼らは主の民となりました(6章7節)。この主の働きを「贖(あがな)い」と呼んでいます。

1.イスラエルをあがなわれた主
旧約聖書においては、大家族のひとりが、他のメンバーの利益のために犠牲を払ってする行動を「贖い」と呼びます。家族の借金を支払いきったり(レビ25章)、兄弟の名前を残したりする行為です(ルツ記)。つまり、主は、イスラエルの父祖との契約によって彼らの「父・神」となられたからこそ、犠牲を払ってまでもエジプトの手からイスラエルを救われたのです(出エジプト6章4~5節)。
さらに、強制労働を課し、子どもを殺し、主を礼拝することをゆるさないエジプトに勝たれた主は、罪の力からイスラエルを解放しました(6章6節)。主の勝利は、イスラエル自身の罪に対してではなく、エジプトの罪に対するものです。そして、「あながわれた」イスラエルは、王である主の支配下に置かれました。

2.御子によるあがない
御子キリストの十字架によって神はあがないをなして下さいました(コロサイ1章14節)。ですから、十字架は、父である神がわたしたちのために払われた大きな犠牲です。さらに、闇の力である罪に勝利されることによって、その奴隷であったわたしたちをあらゆる点において解放し、御子の支配下へと移して下さいました(1章13節)。このようにして出エジプトをモデルとする、十字架による勝利のわざ、あがないを喜んで受け入れた私たちは、今度は主にならうべきです。闇の力の支配下にある人を解放する主のわざの一翼を担わせていただきましょう。

祝福としての沈黙(2012.1.22)

宣教題  : 「祝福としての沈黙」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  1章5節~25節

バプテスマのヨハネの誕生は、喜びの知らせでした(14節、19節)。後に彼が、主イエスに先立って罪の悔い改めを迫り、人々を主の救いに巻き込んでいったからです(15~17節)。神は、ザカリアがこのことを受け入れられるようになるために、口が利けなくさせられました(20節)。この沈黙は祝福となりました。

1.神の御言葉を聴く祝福
ザカリアは、老夫婦に子どもが与えられるという思いがけない知らせを受けましたが、その事実を受け入れることができない不信仰に陥りました(18節)。すると、ザカリアは、ものが言えなくなり、ヨハネが生まれるまで約10カ月の間、何が起こったかを誰にも語ることができなくなったのです(19~22節)。ところが、口が開かれるや神を讃えています(64節、68節)。彼にとっては、その一生にまたとない、沈黙の時だったのです(詩編62編1節)。
主イエスは、いかなる時も静かに父なる神の御心を聴き、それを成し遂げようとされました。とりわけ、十字架のご受難に際しては沈黙されています(1ペトロ2章22~25節)。私たちは、神の御言葉を聴くために沈黙し、神の御言葉を聴きつつ祈ることが大切なのです。

2.神の再創造にあずかる祝福
神は、ザカリアの不信仰を審こうとされたのではありません。この沈黙の間は、神の力が彼ら夫婦に働いています。彼らが事の次第を語ったのではなく、エリサベトが身ごもった事実が事の次第を明らかにしました(23~25節)。このようにして、彼ら夫婦は、神のご計画を受け入れることのできる者に変えられていったのです。
私たちは、信仰を持ちつつ、個々の問題や課題に対して疑いを抱き、信じ抜くことにおいて揺れ動きやすいものです。そうした時、主イエスが私たちの生活と人生の中に入り込んできてくださり、心を神に向けさせ、信仰による再創造の御業を成してくださいます(詩編62編8~9節)。
神は、決して沈黙の時を無駄に用いられるお方ではないのです。

喜びに生きる(2012.1.15)

宣教題  : 「喜びに生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書      : 使徒言行録 16章25節~34節、フィリピ4章4節

「喜びを物語る」イエス・キリストの福音は、主イエスと私また私と他者との出会い、関係、結びつきを通して波及していきます。その結果私たちは、主イエスにあって常に喜びに生きる者とされるのです。

1.主への礼拝に生きる
ここに至るまで、占いをしていた女性、彼女によって利益を得ていた人々、役人が登場しましたが、彼らに迷信と商売と政治の混乱した状況が伺えます(16~24節)。続いて登場した看守には、仕事上の失敗によって自縄自縛している様子があります(26~27節)。彼らには、救いを失った人間の共通した姿が見てとれます。福音は、そういう状況の中に伝えられる必要があるのです。しかし、そういう世界に福音を伝えることは、伝道の苦しみを経験することでもありました(23~24節)。
ところでそうした最中、パウロとシラスは真夜中の牢獄の中で、神を賛美し、神に祈るという神への礼拝をささげています(25節)。ここに、教会が教会であり続ける姿があります。イエス・キリストの救いに与かっている私たちは、いかなる時にも礼拝をささげる喜びに生きるのです。

2.主の救いに生きる
パウロとシラスは、看守の求めに対して、彼とその家族に対して神の言葉を語り、全家族が主イエスを信じることを勧めました(29~32節)。看守は、パウロとシラスが深い淵にあって神に賛美して祈り、敵対している者を思いやるという神のなされる御業に触れ、またパウロたちの導きに対して信仰の応答をし、家族も一緒に洗礼を受けたのです(33節)。そして彼は、パウロたちを自分の家に招いて食事を共にして信仰と愛の交わりを持ち、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだのです(34節)。
イエス・キリストの十字架と復活は、私たちの罪を解決し、神との関係を回復します。そこには絶えず「喜び」と「神の平和」があり、「広い心」があります。そして力を合わせ、福音のために戦う喜びがあります(フィリピ4章2~7節)。私たちには、このような主の救いに生きる喜びがあるのです。

喜びを物語る(2012.1.8)

宣教題  : 「喜びを物語る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書   1章1節~4節

ルカによる福音書は、喜びの福音書と言われるほどに、主を讃え、喜んでいる内容で満ちています。そして、主イエス・キリストがどういう方であったか、何をなさった方であったかを物語り、主の恵みを伝えています。その結果として、人々が喜び物語る中に巻き込まれていくことを語っているのです。

1.「私が」巻き込まれる  1~3節
著者ルカは、異邦人の医者であり(コロサイ4章14節)、パウロと伝道を共にした協力者であり(フィレモン24節)、その殉教の死の時まで共にいました(2テモテ4章11節)。彼は、使徒言行録も書き記すほどにキリストに捉えられていました(使徒言行録1章1~2節)。
そんなルカが、実際主イエスを見聞きした人々の言葉を聴き、語り伝えるために仕える人々の言葉に耳を傾け、書き連ねられた言葉を熟読し、自らも「マルコによる福音書」などを基に詳しく調べて、順序正しく書いて伝えようとしたのです。
ところで、「わたしたちの間に実現した事柄について」と語っていますが、ルカ自らもそこに含まれ、巻き込まれているとの信仰に立っているのです。同じように私たちも、そこに含まれ、巻き込まれているのです。

2.「一人ひとりを」巻き込む  3~4節
ルカは喜びの物語を「テオフィロ」一人に語りかけています。彼が求道者であったか、信仰をもってまもない人であったかは不明ですが、彼に確かな信仰の決心が与えられ、信仰が強くされるようにと願って訴えかけているのです。そこには、主イエスの福音の喜びを味わい知った者の篤い思いがあります。
福音は、本来一人ひとりの魂に向かって注ぎ込むように語られるものですが、結果として、それが全ての人に向かって語り伝えられるのです。ですから、「私に語られているメッセ-ジである」との姿勢が一人ひとりに求められるのです。
私たちは、喜びの物語に巻き込まれる時を大切にして、そこから始まる喜びの出来事を生活の中で語り続け、書き表し続けていきたいものです。

若者も老人も(2012.1.1)

宣教題  : 「若者も老人も」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   2章16節~21節

約束の聖霊が降られたペンテコステは、キリスト教会の誕生を意味しました。ペトロは、この出来事が旧約のヨエルの預言の成就であると宣言したのです(ヨエル3章1~5節)。ここに、教会は本来どのような性質を持っているかを明らかにしています。

1.「主の名を呼び求める者」の集まり
「主」とは、イエス・キリストご自身であり、「主の名を呼び求める」とは、イエス・キリストを信じ、信頼することです。教会は、全ての者の罪のために十字架に架かり、死から復活されて今も生きておられるイエス・キリストを信じ、そのことによって救われた人々の集まりです。
この信仰を基盤にして共に礼拝し、様々な活動や必要のために集まるのが教会です。
このような教会につながる私たちは、いかなる状況下でも主なる神を呼び求める道が開かれているのです。

2.様々な立場を越えた集まり
聖霊は、新約の時代に生きる「すべての人に」注がれ、男も女も、若者も老人も隔てなく、イエス・キリストとその救いを証しし、宣べ伝えるように導かれています。これは、教会の素晴らしい特質の一つです。
そして教会は、若者も老人も互いに尊びながら、現実をしっかりと見つめて、これからどうなるかを洞察します。その上で、どうすべきかという構想や幻を見させていただく神のビジョンに生きるのです。

3.神の時を待つ集まり
ペンテコステの日にヨエルの預言が成就したのが、約八百年経過してからでした。主の弟子たちに聖霊が臨まれたのは、彼らが待望の祈りを始めてから十日目でした。神の時が成就されるのは、神の御心一つです。
主の名を呼び求める者の集まりである教会は、目先の方法論や姑息な手段に頼るのではなく、困難があっても決していらだたず、各自が神の前に真実に生きるとともに、神の時の来ることを信じて、その時を待つのです。

将来は明るい

年の初めにはいろいろ計画を立てたり、目標を掲げたりします。ただそれが、私の計画、私の目標と言う前に、神の計画は何だろうかということに思いを向けていくことがより大切なことです。 これについて、聖書に記されている私たちに対する神のご計画を紹介します。『わたしは、あなたがたのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災わいの計画ではない。将来と希望を与えるものである』と宣言されています。 私たちを愛してやまない、生きておられる真の神を信じるとは、神は災いと見えることをも含めて、すべてのことを益に変えてくださると信じることなのです。そういう意味で、私たちの将来はいつも明るいのです。 神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

暗闇に輝く光(2011.12.25)

宣教題  : 「暗闇に輝く光」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書   9章1節~6節

1.死の陰、暗闇
クリスマスには「暗やみ」が強調される。人々は暗やみの中を歩き、死の陰の地を歩んでいる(9:1)。国家的、宗教的、戦争による暗やみが国を覆っていた。心の奥に潜む暗やみ、自分の歩みの中にある暗やみがある。そして、私たちはその奴隷となっている。暗やみは表には出てこず、むしろ私たちのうちで増殖する。

2.暗闇に届く光
しかし、クリスマスには「暗闇に届く光」も強調されている。「大きな光」の到来というよい知らせが語られるからだ(9:1)。光が一切届かない場所にさえ届く光が到来する。光の到来は、当初、驚きと痛みを伴う。しかし、しばらくの後、喜びの宴がはじまる(9:2)。

3.王の誕生による解放と戦いの終わり
暗闇に光が届くきっかけとは何だろうか。天地創造の神が与えられた神の働きを代行する子どもの誕生である。彼は人知を越えた知恵で世界を治め、敵を打ち負かし、民が安心する統治を行い、戦いを終わらせ、国々に平和をもたらす(9:5~6)。あらゆる重荷と苦しみからの解放が到来し(9:3)、あらゆる戦いが終わりを告げる(9:4)。
クリスマスにその誕生を喜び祝うイエスこそ、暗闇に届く光をもたらす平和の王である。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。しかし、イエスの誕生だけですべての問題が解決したわけではない。イエスご自身が最も深い暗闇をその生涯と働きの中で通られた。世の暗闇が最も明らかとなる十字架で、憎しみ、苦しみ、暴力、痛みをご自身の身に負われた。だからこそ、暗闇の中にある私たちにイエスの光は届く。
イエスの再臨という夜明けが近いことをクリスマスは私たちに告げている。だからこそ、万軍の主の熱意によってもたらされた(9:6)光を覚え、感謝と賛美をささげつつ、主の再臨を待ち望もう。