月別アーカイブ: 2012年7月

福音を宣べ伝える民(2012.7.29)

宣教題  : 「福音を宣べ伝える民」   宣教:   鎌野 直人協力牧師
聖    書  : イザヤ 52章7節~10節  マルコ 1章15節

すべてが順調に行っている時に福音は必要ないかもしれません。しかし、最悪としか思えない現実の直面している時、良い知らせは必要です。

1.神は王になった
歴史の中でも最悪の状況に陥っていたイスラエルが聞いたのは、「シオンよ、あなたの神は王となられた」(イザヤ52:7)という知らせでした。すべてを分裂と争いへと仕向ける存在が支配していた世界に、主が王として即位されました。勝利をとられた主を中心に据えて、世界が再編成されるのです。そして主はシオンへと帰還されます(52:8)。
主によって救いと平和が、イスラエルを奴隷から解放し、ひずみ、破れ、とげとげしくなったあらゆる関係の修復がもたらされました(52:7)。ご自身が特別に選んだ民に対して果たすべき責任であったわざを主が実行されたからです(52:9)。そして、イスラエルに主がなされたわざとそのインパクトをすべての民は目の当たりにします(52:10)。

2.福音を宣べ伝える
「神は王となった」という福音を宣べ伝える召命を私たちはいただいています。福音とは、徹頭徹尾、神のわざについての良い知らせです。イスラエルの神である主が世界の王となったのも、目で見ず、耳で聞くことができなかった民が福音を知ることができようになったのも、すべて神がなされたからです。さらに、私たちだけが福音の宣教者ではありません。様々な方法を用いて、神ご自身がこの福音を宣べ伝えておられます。主の恵みのわざのゆえに新たに造り変えられた者として、どのような状況の中にあっても喜びの賛美の声を世界中にあげることこそわたしたちがもっと励むべきことではないでしょうか(52:9)。
イエスご自身、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とこの福音を宣べ伝えました。イエスのわざを通して、神は王となり、シオンに帰り、世界は再編成されたのです。ですから、わたしたちがおかれている現実が最悪であったとしても、「神は王」です。そのことを確信しつつ、どのような中でも、喜びの讃美の声をあげましょう。神のすばらしいわざの知らせを世界は心待ちにしているのですから。

キリスト者を生かす(2012.7.22)

宣教題  : 「キリスト者を生かす」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  19章1節~10節

私たちにとって大切なことは、聖書に証言されているイエス・キリストを信じ、このお方と結びつき、信頼して従っていくことです。これは、信仰告白に対する私たちの在り方も同じです。そのために、聖霊は今も、信じる私(たち)の内に働き、また私(たち)を通して働いておられます。

1.私(たち)の内に働かれる
パウロは、アポロからヨハネの洗礼について教えを受けていたエフェソの弟子たちに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と問いかけました。彼らは、聖霊のことが分からず、イエス・キリストを救い主また主と信じていませんでした。そこでパウロは、彼らに最善の道を明確に示しました。その結果、「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた」という御業が瞬間的に起こったのです(2~6節)。
聖霊は、見ることも触れることもできない、まるで風のように働かれます(ヨハネ3章5~8節)。聖霊は、私たちの心の目を開いて、私たちの真相を認識させてくださり、イエス・キリストの永遠の救いを明らかにしてくださり、信仰へと導かれます(エフェソ1章17~19節)。また、聖霊は、私たちの全存在・全生活をキリスト御自身とその愛で支配されます(エフェソ3章14~19節)。そして、聖霊は、神の言葉を大胆に語らせ、しかも他国の言葉で話すことを自由にさせてくだるのです(使徒言行録19章6節)。

2.私(たち)を通して働かれる
聖霊は、ペンテコステの時の12人の使徒たちに対すると同じように、エフェソにおいても聖霊に満たされた12人を用いて、小アジアへの宣教を進められました(7節)。
パウロが会堂で熱心に神の国について論じ説得したときに、心を頑なにして不信仰を表わし非難をする者たちが起こりました。しかし、それをも転じて福となして、他の場所での働きを進めることになりました。そうした二年の働きの結果、小アジア全域に福音が伝えられていったのです(8~10節)。
聖霊が、私(たち)の内に働かれ、それによって私(たち)を通して働かれるには、私(たち)が心砕かれ、イエス・キリストの恵みの御支配に委ねていくことが大切なのです。

傾聴される神(2012.7.15)

宣教題  : 「傾聴される神」   宣教:   仁科 千永子 師
聖    書  : 創世記  21章1節~21節

1.登場人物
一家の中心的存在であり、物事を決する家長としてのアブラハム、その正妻サラ、約束の子イサク、女奴隷ハガル、彼女が産んだ子イシマエル、この5人のバトルが繰り広げられています。神はアブラハムに「大いなる国民の基」となる事を約束されました(創世記12章1節)。しかし、サラには子が生まれませんでした(同16章1節)。そこでサラはハガルによって子を得る事を夫に勧め、彼もこの提案を受け入れ、そこに生まれたのがイシマエル(主は聞かれるの意)です(同16章15節)。ハガルがイシマエルを産んだ時、アブラハムは86歳でした。しかし、「来年の春にサラに子が与えられる」と神は約束され(同17章)、サラにも直接語られました(同18章14節)。

2.約束の成就 イサクの誕生
神は約束通り、アブラハム100歳サラ90歳の時、イサクが誕生しました。この時イシマエルは14歳、イサクが乳離れした日、盛んな宴会が開かれました。世界中がバラの花束で埋まるほどの感謝と喜びの日に「あってはならない事」が起こりました。サラが「あなた!何とかこの親子を追い出して下さい」と怒り爆発したのです。

3.イシマエルとハガルの事
荒野をさまよう親子の旅、やがてパンも水も尽きてしまいました。「私はこの子の死ぬのを見るに忍びない」と、何の希望もない精も根も尽き果てた母親失格の姿があります。泣く子の声を聞かれた神は、ハガルの目を開かれました。ハガルは、あれ程さまよっても見つけられなかった井戸の水(湧きあがる恵みの水)を見つけ、それをわが子に飲ませたのでした。まさに人間の苦悩、絶望の中での神の恵みです。
結論:100%の人はいない。
全ての人には苦悩があり、私たちにも苦悩があります。しかし、その苦悩を「神は聞きたもう方」です。そこに、「祈り」が生まれるのです。私たちは、「祈りを傾聴される神」から恵みを頂き、信仰に立ち「明日の主」に全てを委ね従っていきましょう。ここに私の全てを知りつくされ、最善に導かれる神の祝福があるのです。

成長をめざして(2012.7.8)

宣教題  : 「成長をめざして」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  2章39節~52節

ユダヤの社会においては、過越祭に際して信仰の継承を家庭で行い(出エジプト12章26節以下)、エルサレム神殿に集まって礼拝をささげました(ルカ2章41~42節)。キリスト教会においても、幼子や少年たちの身体的・精神的・霊的成長を願っての取り組みが求められています。

1.全人格的に成長する
12歳になられた少年イエスは、身体的に、精神的に、霊的に成長されていきました(40節、52節)。また、神の愛と恵みに包まれ、対人関係において関わりをもてる社会的な成長もしていかれました。そして、「イエスは・・・両親に仕えてお暮しになった」のでした(51節)。
同様に私たちは、身体的・精神的・霊的存在として全人格的に成長していくことが必要です。とりわけ、聖書を通して、見えない神を信じ、死後の世界があることを信じ、自らの罪を知ってイエス・キリストの救いを信じることが大切なのです。
そして、幼い時から家庭で学び舎で、愛をもって周りの人々に仕えていくのです。そこで、愛と謙遜を学びつつ成長していくのです。

2.主の家で成長する
エルサレムに留まられたイエスは、学者たちとの問答をされていました。人々は、イエスの賢明な受け応えに驚いています。一方両親は血眼になって捜し、イエスを見つけてその姿に驚き、憤りにも似た言葉を語りました(43~48節)。それに対してイエスは、自分は神の独り子であり、父なる神から救い主としての仕事を委ねられているのですから「自分の父の家にいるのは」当然のことであると語られました(49節)。
同様に私たちは、父なる神の家である教会において、神の御言葉を聴き、それに応答することによって、神の仕事にいそしむ生活をつくっていくのです。今も変わらずに、イエスが私たちの「真ん中に座り」、その中心におられ、私たちと御言葉の問答をしてくださっています(46節)。私たちは、そのことに驚きを覚えつつ、繰り返し目を開いていただくなら、一人ひとりが新たにされ続け、成長していくのです。

キリストを知る(2012.7.1)

宣教題  : 「キリストを知る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  18章24節~28節

プリスキラとアキラとがアポロに対して成したことは、「神の御心」を実行する実例となりました(21節)。それを通して、アポロがキリストを知るという信仰の経験へと導かれて行ったのです。

1.キリストの素晴らしさを知る  24~26節
エフェソにやって来たアポロは、「主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが」、それはバプテスマのヨハネが語っていたガリラヤのイエスのことであり、エルサレムで十字架に架かられ、三日目に復活され、昇天されたイエスのことではなかったのです。従って、彼は、聖霊降臨やそれによってもたらされた教会誕生のことも知らなかったのでした。
アポロのメッセ-ジを聴いたプリスキラとアキラは、その内容がエフェソの教会を根底から崩壊させてしまう危険を感じて、個人的に彼を招き、キリストの素晴らしさとその救いを語り説明したのでした。それを謙虚な態度で聴いて受け入れたアポロは、アカイア州に渡った時、「メシアはイエスであると公然と立証し」(28節)たのでした。
私たちがキリストの素晴らしさを知る時、それが愛の連鎖反応となっていくのです。

2.キリストの体なる教会を知る  27~28節
プリスキラとアキラ及びエフェソの教会は、アカイア州に渡ることを望んだアポロを励まし、アカイア州の教会が彼を歓迎してくれるように手紙を書き、神の御業が進められるようにと「神の御心」を見極めつつ行動しました。そして、アポロもまた、「神の御心」に従って、熱心かつ徹底して福音を立証したのでした。
以後、アポロはコリント教会で活躍し、高い評価を受けましたが、それが分裂をもたらす危険もはらんでいました(1コリント1章12節、3章4~6節)。そのアポロをコリントの教会が招きたいと願った時に、彼がそれに答えることは「神の御心」でないと拒否しました(1コリント16章12節)。そうした背景もあって、パウロがアポロに対して愛の配慮をしています(テトス3章13節)。
私たちは、キリストの体なる教会に生きることを体験的に知ることが大切なのです。