月別アーカイブ: 2008年2月

キリストに倣って(2008.2.24)

題   : 「キリストに倣って」   宣教:  鎌野 善三 牧師
聖書  : フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節
キリスト教の中心は、キリストご自身です。クリスチャンは、常にキリストご自身を意識し、このお方の生き方に倣って歩む必要があります。パウロは、フィリピ教会の信徒たちに、そのような歩みがどういうものかを次のように解き明かします。

1.同じ思いとなる
私たちは、そんなに熱心なクリスチャンでないかもしれません。けれど「幾らかでも、キリストによる励まし」があるのなら、「同じ思い」となるように努めましょう。主が私たちのために命を捨ててくださったことを思うとき、私たちも他の人々のために、幾らかでも犠牲を払う生き方ができるのです。フィリピ教会にも意見の対立があったと思われますが(4:2参照)、どの教会もそんな問題を抱えています。しかし、主イエスに倣うなら必ず一致でき、みんなの「喜びが満たされる」のです。

2.へりくだる
一致の妨げとなるのは、利己心と虚栄心です。逆に一致をもたらすのは「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることです。自分ができないことを他の人がやってくれていると考えるとき、教会は生きた「キリストのからだ」となります。へりくだるとは、「自分は何もできない」と言うのではなく、積極的に「他人のことにも注意を払う」ことです。もし何かをして「ありがた迷惑だ」と言われたときに、「ごめんなさい」と言えることこそ、本当のへりくだりです。

3.神に従う
主ご自身がへりくだりの最高の模範を示して下さいました。神の身分でありながら、自分を無にして、人間と同じ者になられました。さらに主は、父なる神の御心に従って、十字架の死に至るまで従順であられたのです。神の子であるお方さえ従われたのですから、私たちも当然そうすべきです。聖書を通して、悔い改めるべきことを示されたなら、奉仕の姿が問われたなら、献身の招きがあったなら、従順にその声に聞き従いましょう。従う者に、神は豊かな報いを用意しておられます。

キリストのことを思う機会が多ければ多いほど、私たちはこのお方に似たものとされます。本来私たちは、神の姿に似せて創造されたのですから。

生きることはキリスト(2008.2.24)

題   : 「生きることはキリスト」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  1章12節~26節
パウロ先生は、自分が獄中にとらわれている時にも、神様によって愛され、神の愛のふところに捕われている実感をもっているために、いつも周囲の人たちを愛の心をもって励ますことができたのです。

1.福音の前進
パウロは、自分が捕われて牢獄にいることも前向きに捕らえています。それは彼が捕われの身でありながら、看守や牢獄の中にいる犯罪者たちにもイエス・キリストについて語り続けたために、福音が兵隊たちの間にも知られ、救われる者が起こされるほどでした。
わたしたちは小さな困難も愚痴やひがみの原因にすることが多い者です。しかし、困難も福音の前進に役立つように求めるべきです。

2.愛の動機
わたしたちが福音を伝えるのはどこに動機があるでしょう。パウロの時代も現代も同じような動機があります。
ある人たちは、伝道をすることさえ自分の利益のために、つまり自分が人からほめられたいためにしています。
このような人々は、伝道や主のための奉仕でさえ自分の見栄のためにしています。このような人は、ほめられると奉仕をしますが、人に認められなかったらしなかったり、不満をおぼえたりします。

3.生きるとはキリスト
「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」とパウロは言います。わたしたちの生きている意味はどこにあるでしょう。
わたしたちは、神のご愛のゆえに、キリストの十字架によって罪ゆるされ、復活によって新しい命に生かされ、神に導かれ、神と共に歩むお互いです。
つまりわたしたちは、キリストから離れては一瞬たりとも生きることはできないはずです。キリストを信じるということは、キリストと共に生きるということです。
本気でキリストと共に生きましょう。

祝福の庭(2008.2.17)

題   : 「祝福の庭」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 35章1節~10節
預言者イザヤは、前章で神に従わない者に対する徹底した神のさばきを語っていますが、一転本章では、神に従う者に対する祝福のすばらしさを語っています。
先の章では、悲しみと苦しみうめきが聞こえるような悲惨さが描かれていますが、ここでは、はじめから美しい花が咲き乱れる祝福一杯の庭を見せられるようです。

1.砂漠に花が咲く
神から離れ、潤いのない砂漠のような心にも神様の恵みと哀れみが戻ってくる時、まるで砂漠に花が咲くように、乾いた土地に雨が降り植物が一斉に芽を出し花を咲かせるように神様を喜びたたえるのです。
ここにある「野ばらの花」とは、口語訳聖書ではサフランとなっています。別名「秋咲きのクロッカス」とも呼ばれ、一般的にクロッカスは春に咲き、白、黄色、ピンク、青など様々な色を持ちますが、サフランは秋に咲く花で、青紫が多いようです。この花からすばらしい香料も採取でき、多くの人々に愛されていました。
砂漠のような荒れた土地から、葉より先に花を咲かせるサフランは神様の恵みをあらわすようです。

2.雄々しくあれ
様々な困難が次々と襲い、不安や恐れをもっていた人々に、人間の常識や力ではなく神様の祝福が働かれると、病のいやしも起こり、神様の奇跡的な働きが展開されます。
日本の歴史の中でも、ながい、ながい鎖国の時代にはクリスチャンはものすごい迫害がありました。しかし、江戸時代が終わり、自由な国家が誕生した時、冬が終わると、一番に咲くクロッカス(春サフラン)のように見事に花が咲いたのです。

3.祝福の庭に帰る
神様の裁きの業が終了すると、そこには大きな道が設けられます。この道は神の都に通じていて、主に贖われ、聖なる者とされた人だけが通ることができるので「聖なる道」と呼ばれています。
わたしたちは本来そこに入ることのできない者でしたが、イエス様の十字架と復活の贖いによって神の子供として、帰って来ることを許されているのです。

聖書に聞け(2008.2.10)

題   : 「聖書に聞け」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書  34章16節~17節
わたしたちは神様を信じて救いを受け、恵みに満たされていることを感謝します。メッセージもできるだけ神様の恵みと愛について聞きたいと思います。さばきや滅びには向き合いたくないものです。しかし、聖書の現実は神の愛と共に神の厳しい裁きも語られている事実は避けることはできません。本日の34章は正に裁きの書です。

1.世界の審判  1~4
天地創造の神が、全世界の全被造物まで支配される主権者であることを前提にしたさばきの語られている壮大な宣言です。
神に創造され、守られ、恵みの支配を受けながら、神に反逆し、無視し、高慢に振舞う者は必ずさばかれるのです。そしてこのさばきは宇宙的な規模で行なわれます。このさばきの様子は、2ペトロ3:8~13に記されている通りです。

2.エドムの審判  5~15
エドムという国は、元々エサウ(エドム)とヤコブ(イスラエル)の兄弟の子孫からの分かれですから、いわば親戚筋にあたるわけです。しかし、先祖からこの両者の間には常に戦いがありました。イザヤの活躍したアハズ王の時代にも、ユダの国がエドムに侵略されたことがありました。神の民にエドム人が行ったことが、終わりの日に取り上げられ、主が正しい報いを与えられます。イザヤは、終末の時代に全世界に実際に行なわれる神の徹底した裁きの恐ろしさを語っています。わたしたちは、この預言に向き合い、悔い改め、主を知らない方々にこの事実を伝えましょう。

3.聖書に聞け  16~17
あまりに現実離れしたようなさばきの内容に、多くの人はこの言葉を単なる比喩的なこととして見てしまいます。しかし、聖書の預言は今日まで確実に実現していることを見なければいけません。
わたしたちが、旧約聖書、新約聖書を通して語られる主の救いと恵みを読んで恵まれ、感謝を捧げると共に、さばきの記事から目をそらさず、公平にこの現実も受け止めるべきなのです。
御子イエス・キリストの十字架と復活の奇跡によってわたしたちが救いの恵みに与ったように、最後の審判は必ずやってきます。

目標を目指して(2008.2.3)

題   : 「目標を目指して」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  3章12節~21節
本日は、教会総会の礼拝でもありますので、1月6日の新年礼拝で語った同じ箇所の、今年の標語の箇所から導かれています。さて、わたしたちは新年を迎えて一ヶ月を送り、どれほどの前進が出来たでしょう。一年間を振り返るときに神様の前にも、自分自身にも喜び、感謝のできる目標に向かって近づけるものでありましょう。

1.キリストに捕らえられているわたしたち
パウロは、熟練し、聖徒として練り上げられ、不純物を取り除けられ、キリストの形に造り上げられたかと思える大聖徒が「既に完全な者となっているわけでもありません」と言っています。
しかし、パウロは「捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と言います。
わたしたちもキリストに捕らえられたお互いです。捕らえられたものらしい生き方をしたいものです。

2.完全な者にされているわたしたち
キリストに捕らえられているということは、キリストの完全な救いに与かった者です。そのような特権に与ったわたしたちは、毎日、ひたすら走ることが大切です。
完全な救いすなわち、完全な神の子どもにされたわたしたちです。そのわたしたちがさらに神様からの賞が与えられると言うのです。あのパウロの言う「義の冠」(2テモテ4:8)であり「命の冠」(ヤコブ1:12)、「栄冠(栄光の冠)」(1ペテロ5:4)です。

3.本国の備えられたわたしたち
先の賞をいただいたわたしたちは、主イエス・キリストのおられる御国に入れて頂ける特権が与えられていますが、そこは、新しい命をいただいて神の子とされた者たちの本国なのです。
しかも、イエス・キリストはそこから再臨されます。わたしたちが御国に移される前に再臨があれば、また感謝なことに約束の御国に移していただけるのです。
この地上においてこうした、このような輝く目標の与えられた恵を覚えて教会の前進、成長を願い、愛と平和に輝く神戸中央教会として頂きましょう。