月別アーカイブ: 2008年3月

わたし自身が一緒に行く(2008.3.30)

題   : 「わたし自身が一緒に行く」   宣教:   川原崎 晃  牧師
聖書  : 出エジプト記 33章12節~16節
神のものとされた聖徒たちの神に対する積極的な求めであり、人間の魂の最深の要求を満たすものは、主なる神が私たちと共におられて同行されるということです。『わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう』(14節)とは、一人ひとりにとっても、教会にとっても、絶えず立ち続ける信仰の原点です。

1.一緒に行ってくださるお方
この時モ-セは、担い切れない重荷を背負って苦しんでいました。そして、信仰が浅薄で不誠実であった神の民と、その民を審こうとされる神との破れの狭間に立って執り成しています(32章31~32節)。不安と心配で心が押しつぶされそうなモ-セに対して、神が語られたご自身の臨在の約束は、この後控えている荒野での内外の課題や問題に対して、「どなたがご一緒であるか」を確かにしてくださる時でした。
いつも神の御声の聴こえるところ、いつも神の御顔を拝することのできるところ、いつも神の御導きを確信できるところに居り続けたいものです。

2.一緒に行ってくださるなら
『あなたに安息を与えよう』と約束していてくださいます。この安息は、単に心身の疲れをいやすというものではありません。戦いの嵐や悲しみや問題の真っただ中にあっても持ち続けている安息です。
それはちょうど、十字架を前にしたキリストが持っておられた平安です(ヨハネ14章25~31節)。このキリストの平安が与えられることが、キリスト者にとってのかけがえのない遺産です。安息のない臨在信仰はないのです。

3.一緒に行ってくださるために
この主なる神の臨在に対して、私たちの側に一つの条件を求めておられます。『もし、あなたご自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください』(15節)と、神が主権をもって導かれることを第一とすることです。
どんなにすばらしい神からの祝福、成果、幸せをいただいたとしても、私たちの人生に神ご自身がご一緒であり続けてくださることを優先させることです。主の臨在こそ、私たちの人生にとって最も尊いことなのです。

主を見て喜んだ(2008.3.23)

題   : 「主を見て喜んだ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : ヨハネによる福音書 20章19節~23節
イエス様が墓に葬られて三日目の朝、マグダラのマリアはイエス様がよみがえられて空っぽになったお墓を見て、ペトロともう一人の弟子に伝えました。彼らもお墓を見て、不思議に思いながら家に帰って行きました。しかし、マグダラのマリアは墓に留まっていました。このようなマリアにイエスはご自身を現して下さったのです。

1.心にかかる鍵
マリアは「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えました。しかし弟子たちは人を恐れて、家の鍵をかけて中に隠れていました。しかし、そんな家の中に復活のイエス様が入ってこられたのです。そして「あなた方に平和があるように(シャローム)」と言われました。
ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様を見捨てて逃げ出した弟子たちに、なんと優しく語りかけられたことでしょう。わたしたちがどんな困難や問題の中にあっても、心を固く閉ざしていても、心に来てくださるお方です。

2.主を見て喜んだ
イエス様は、弟子たちに手とわき腹を見せられました。そこには釘穴があり、わき腹には槍で突き刺された大きな傷がありました。紛れも無くイエス様です。
弟子たちは、この時初めて喜んだのです。この「喜んだ」には歓喜した、大喜びをしたという意味があります。わたしたちもどのような状態にあっても、死に勝利された復活のイエス様が共に居てくださるなら、神からの平和が与えられるのです。

3.使命に生かされる
主を見て喜んだ弟子たちに、もう一度「平和があるように」と語られました。そして続いて「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。
イエス様は弟子たちに最高に崇高な使命を与えられたのです。弟子たちにはこの使命を果たす力はありません。ましてわたしたちにはそのような力はありません。
しかし、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。弟子たちがその使命を達成するために必要なことをしてくださったのです。

不信仰で無力なわたしたちを用いるために、聖霊が今日も与えられています。復活のイエス様を喜び、愛し、愛する人々に福音を伝えさせて頂きましょう。

イエスの受けた傷(2008.3.16)

題   : 「イエスの受けた傷」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 53章1節~12節
今日はパームサンデーと呼ばれる日です。イエス・キリストが子ロバの背中に乗って、エルサレムの町に入場してこられたとき、エルサレムの人々は「ホサナ、ホサナ」と言って、パームツリー(棕櫚の木)の枝を振り、パームツリーの枝や着ていた上着を脱いで道に敷いてイエスを迎えました。
ところが、今週の木曜日、金曜日になると人々は手のひらを返すようにしてイエスを苦しめはじめ、ついには十字架につけることになるのです 。

1.軽蔑された神の子  1~4
大工の子として育てられ、貧しい寒村に住まわれたイエスは神の独り子であるとわたしたちは知っています。しかし、当時の人々からは無視され、軽蔑されました。
当時の人々は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い伝えられていたほどに、軽蔑のまなざしで見られるような中に育たれたのです。

2.苦しみの神の子  5~10
人となってくださった神の子は、弱さを知り、経験し、人々の苦しみを理解し、ついに囚われの身となって肉体において極限の苦しみを負ってくださいました。
さらに、ご自分が愛して止まない弟子たちに裏切られるという苦しみを味わい、さらに、父なる神にまで捨てられてくださったのです。
イエス様にとって、父なる神様に顔を背けられ、捨てられることほど大きな苦しみはありませんでした。しかしこの苦しみは全てわたしが救われるためのものでした。

3.執り成して下さった神の子  11~12
イザヤは、イエスの苦しみはわたしたち罪人の裁きの身代わりであり、贖いであり、執り成しの結果であると言います。
このお方を信じるわたしたちは、このお方の負ってくださった苦しみによってつみ許され、このお方の戦利品として数えていただくことができるのです。
そしてこのお方は、十字架で贖い主として死なれただけでなく、三日目によみがえって、信じ、罪赦された者に永遠の命を与えてくださるのです。

受難週であるこの一週間、神様の前に十字架を偲びつつ過ごしましょう。

高価で貴い人(2008.3.9)

題   : 「高価で貴い人」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 43章1節~7節
今年も2週間後にイースターを迎えようとしています。この時期にもう一度神様の御愛とその現れである十字架を深く思う時としましょう 。

1.神の栄光のために創られた私たち  1~7
イザヤはわたしたちが神によって創造された者であると言っています。ところが、直後に「恐れるな、わたしはあなたを贖う」と言っておられます。
神に創られ、神のものであった私たちでありながら、罪を犯し神から離れ、サタンの手の中に捕われている私たちでした。
この、愚かな私たちのために、神はかけがえのない神の独り子を十字架にかけるという代価を払って私たちを買い戻してくださったのです。これこそ、史上最大の贖い金でしょう。神様は、わたしたちをそこまで高価で貴いものと見ていてくださるのです。しかも、わたしたちが生かされている理由は「神の栄光のために」とイザヤは言います。

2.神に選ばれた証人  8~15
イザヤは「わたしの証人はあなたたち」と言います。わたしたちは、神様とは唯一のお方であり、この世界にただひとりのお方であることを証しするために選ばれたお互いです。
そして、このお方こそ、聖なるお方であり、全世界の創造者であり、わたしたちのすべてを知っておられるお方であることを教え、最終的に神に逆らう全ての者は裁かれることを語っておられことの証人でもあるのです。

3.新しいことをなさるお方 16~28
イスラエルを救われ、わたしたちを罪の滅びの中から救い出してくださったお方は、ただ救い出しただけでなく新しいことをしてくださるのです。砂漠のような人生を歩んでいた者も、神の恵みによって潤されます。すなわち救われた者は、聖霊の豊かな注ぎと流れの中に導いていただいて、新しい道を歩み、荒野から湧き出る水、砂漠に流れる川から水を飲むことができるのです。
神は、ご自身の口でわたしたちに「あなたは価高く、貴く」と言ってくださいます。このお方がわたしたちに、最大の恵みである聖霊なる神様をわたしたちの内に住ませて、潤して、すばらしい神の証し人に仕立ててくださるのです。

草は枯れ、花はしぼむ(2008.3.2)

題   : 「草は枯れ、花はしぼむ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : イザヤ書 40章6節~9節
イザヤは、神のさばきを語ってきました。もちろん、神様の恵みの預言、救い主の預言も語っています。
しかし、ここからは将来に向かっての神の救いの預言が語られます。しかも、神様の回復と慰めは限定された民族だけではなく全世界に対するメッセージなのです。

1.慰めのメッセージ  1~11
本章は「慰めよ」から始まっています。この慰めの内容は「苦役の時は今や満ち」「咎は償われた」「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」と語られています。
これは、バビロン捕囚からの解放だけではなく全人類に対する、神のさばきからの解放、永遠の救いのメッセージであり慰めのメッセージなのです。

2.偉大なる創造の主  12~26
神は、全能の英知をもって計画を立て、偉大な計量器(手のひら、手の幅、枡、秤、天秤)をもって天地を計り、天地創造をされたのです。神はさらに創造された世界を、偉大な知恵をもって支配しておられます。

3.新しく与えられる命  27~31
この偉大な神は、わたしたちのような小さく、疲れた者に力を与え、守ってくださいます。これらの力をいただくことのできる人は、「主に望みをおく人」と言っていますが、口語訳聖書では「主を待ち望む者は」と訳しています。新しい力を得るためにはまず「主を待つ」のです。この「待つ」とは「忍耐する」との意味もあります。しかも望むのです。「望み」とは信頼することでもあります。
神に絶対信頼をして待ち望む時、神はすばらしい祝福を与えてくださいます。昔のイスラエルの民がメシアの到来を待ち望んで、イエス・キリストが来られ、その十字架と復活によってわたしたちの罪がゆるされ、このキリストの復活の命によって、永遠の新しい命が与えられたようにです。
そしてさらに、わたしたちは永遠の救いである、新天新地を待ち望んでいます。主を信頼して待つのです。その保証は、神の言葉以外にありません。草は枯れ、花はしぼみます。しかし神の言葉は永遠に残るのです。丸ごと神の言葉を信じましょう。