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若者も老人も(2012.1.1)

宣教題  : 「若者も老人も」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   2章16節~21節

約束の聖霊が降られたペンテコステは、キリスト教会の誕生を意味しました。ペトロは、この出来事が旧約のヨエルの預言の成就であると宣言したのです(ヨエル3章1~5節)。ここに、教会は本来どのような性質を持っているかを明らかにしています。

1.「主の名を呼び求める者」の集まり
「主」とは、イエス・キリストご自身であり、「主の名を呼び求める」とは、イエス・キリストを信じ、信頼することです。教会は、全ての者の罪のために十字架に架かり、死から復活されて今も生きておられるイエス・キリストを信じ、そのことによって救われた人々の集まりです。
この信仰を基盤にして共に礼拝し、様々な活動や必要のために集まるのが教会です。
このような教会につながる私たちは、いかなる状況下でも主なる神を呼び求める道が開かれているのです。

2.様々な立場を越えた集まり
聖霊は、新約の時代に生きる「すべての人に」注がれ、男も女も、若者も老人も隔てなく、イエス・キリストとその救いを証しし、宣べ伝えるように導かれています。これは、教会の素晴らしい特質の一つです。
そして教会は、若者も老人も互いに尊びながら、現実をしっかりと見つめて、これからどうなるかを洞察します。その上で、どうすべきかという構想や幻を見させていただく神のビジョンに生きるのです。

3.神の時を待つ集まり
ペンテコステの日にヨエルの預言が成就したのが、約八百年経過してからでした。主の弟子たちに聖霊が臨まれたのは、彼らが待望の祈りを始めてから十日目でした。神の時が成就されるのは、神の御心一つです。
主の名を呼び求める者の集まりである教会は、目先の方法論や姑息な手段に頼るのではなく、困難があっても決していらだたず、各自が神の前に真実に生きるとともに、神の時の来ることを信じて、その時を待つのです。

こうして教会は(2010.6.6)

宣教題  : 「こうして教会は」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 9章19b節~31節
生きている教会は、キリストの命が溢れています。そこには、喜びや希望が満ちていますが、時には痛みや失望を経験することもあります。
「こうして教会は」(31節)とキリストの御業が展開され、教会が生きものであることを証ししています。

1.キリストが崇められる
サウロが回心し、宣教者パウロと変えられたことは、人々に非常な驚きを与えています(19b~22節)。その背後には、教会の祈り、支援、配慮がありました。まず、サウロが救いに与かるに際しては、アナニアが用いられましたが(10~19a節)、それはダマスコの教会とそのメンバ-が用いられたことを意味しています。続いて、サウロがエルサレム教会に受け入れられるに際しては、エルサレム教会のメンバ-であったバルナバが仲介者また保証人として用いられています(26~28節)。そして、無名の身辺警護をする聖徒がいました(23~25節、29~30節)。教会の痛みをご自身の痛みとしてくださる主イエスは、このような仕方で教会を用いられるのです。
教会が前進していく中での中心は誰でしょうか。サウロでも、アナニアでも、バルナバでも、無名の人々でもありません。生きておられる復活のキリストご自身であり、このお方が崇められているところに主の御業が進んでいきます。
2.聖霊が生き生きと働かれる
教会は、聖霊に満たされた器を用いて働かれる所です(1章8節)。また教会は、お互いの間に異なった文化や習慣があっても、「平和を保ち、主を畏れ」る聖霊の一致が与えられる所です。そして教会は、「聖霊の慰め」と励ましとをいただいた一人ひとりを通して造られていく所です(9章31節)。
私たちは、この聖霊の火が消され、燃え尽きることのないようにしたいものです。
聖霊の火が消えていくと、御言葉が軽んじられていきます。そうさせてしまう、不信仰と不従順の罪から遠ざかりたいものです(1テサロニケ5章19~22節)。聖霊が、生き生きと働かれるところに勝利があるのです。

教会に生きる(2010.2.7)

宣教題  : 「教会に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  20章17節~35節
キリストとの出会いがその人のキリスト観に、教会との出会いがその人の教会観に影響を与えます。さて、神が御自身の血をもって贖い「御自分のものとなさった神の教会」とは、どのような群れであり、また私たちはそこでどのように生きていくのでしょうか。

1.キリストを宣証する群れ  18~27節
パウロは、謙遜と愛と忍耐をもって、ひたすらキリストに仕えました。そのためには、どの人にも分け隔てなく、ありとあらゆる方法を用いて神の恵みの福音の全てを証しし宣べ伝えました。そして、その任務を果たすことで十分であると語っています。このように、パウロが謙遜かつ大胆になれたのは(19節、24節)、全ては神の憐みであり恵みであると自覚していたからです。(1テモテ1章12~17節)。
私たちが教会に生きるのは、このようにキリストを証しし宣べ伝えるためです。

2.聖霊によって牧される群れ  28~31節
教会は、キリストの血によって贖われ、神のものとされた人によって構成されています。ですから「神の教会」は、神のものなのです。聖霊は、教会を神のものとさせないようにする働きかけから守り、また牧する監督者を任命されます。そうするのは、群れの一人ひとりが神への礼拝と奉仕がささげられるようにするためなのです。
私たちが教会に生きるのは、聖霊によって牧される群れが建て上げられ、一人ひとりが整えられていくためです。

3.神の御言葉に立つ群れ  32~35節
神の御言葉は、信仰者を造り上げる力があり、教会の基礎を固めていきます(9章31節)。また、永遠の命の恵みを受け継ぐまで導く力があります。ですから信仰者は、神の御言葉を信頼して、自分も他者も御言葉に委ねるのです。パウロは、「受けるよりは与える方が幸いである」との神の御言葉に委ねる生き方を証ししています。 私たちが教会に生きるのは、神の御言葉に立って生きることの幸いを知り、学び、体得するためです。