日別アーカイブ: 2010.06.06

こうして教会は(2010.6.6)

宣教題  : 「こうして教会は」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 9章19b節~31節
生きている教会は、キリストの命が溢れています。そこには、喜びや希望が満ちていますが、時には痛みや失望を経験することもあります。
「こうして教会は」(31節)とキリストの御業が展開され、教会が生きものであることを証ししています。

1.キリストが崇められる
サウロが回心し、宣教者パウロと変えられたことは、人々に非常な驚きを与えています(19b~22節)。その背後には、教会の祈り、支援、配慮がありました。まず、サウロが救いに与かるに際しては、アナニアが用いられましたが(10~19a節)、それはダマスコの教会とそのメンバ-が用いられたことを意味しています。続いて、サウロがエルサレム教会に受け入れられるに際しては、エルサレム教会のメンバ-であったバルナバが仲介者また保証人として用いられています(26~28節)。そして、無名の身辺警護をする聖徒がいました(23~25節、29~30節)。教会の痛みをご自身の痛みとしてくださる主イエスは、このような仕方で教会を用いられるのです。
教会が前進していく中での中心は誰でしょうか。サウロでも、アナニアでも、バルナバでも、無名の人々でもありません。生きておられる復活のキリストご自身であり、このお方が崇められているところに主の御業が進んでいきます。
2.聖霊が生き生きと働かれる
教会は、聖霊に満たされた器を用いて働かれる所です(1章8節)。また教会は、お互いの間に異なった文化や習慣があっても、「平和を保ち、主を畏れ」る聖霊の一致が与えられる所です。そして教会は、「聖霊の慰め」と励ましとをいただいた一人ひとりを通して造られていく所です(9章31節)。
私たちは、この聖霊の火が消され、燃え尽きることのないようにしたいものです。
聖霊の火が消えていくと、御言葉が軽んじられていきます。そうさせてしまう、不信仰と不従順の罪から遠ざかりたいものです(1テサロニケ5章19~22節)。聖霊が、生き生きと働かれるところに勝利があるのです。