月別アーカイブ: 2010年5月

私の願い(2010.5.30)

宣教題  : 「私の願い」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖  書  :  マルコ10章46節~52節
エリコの町に、道端に座って物乞いをしていたバルティマイがいました。彼は、イエスが来られたと聞くと、心の願望をぶつけたのです。

1.わたしたちの願い事は何か?
バルティマイには目に障害がありました。当時の社会は、体に障害がある人たちが生きるには物乞いをする以外に道はありませんでした。彼は、心の中にあるその無くてはならないもの、目が心の目が見えるようになることをぶつけたのです。
私たちにはいつも願い事があります。しかし私たちにとって一番大切な願い事は、心の目が開かれていることなのです。

2.求めるべきお方は誰か?
バルティマイは、イエスが自分の目を開いて下さるお方であると知っていたため、大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい」と叫びました。
バルティマイが正しい人に叫び求めたように私たちもいつも求める相手を間違わないようにしないといけないのです。

3.どのように願い事は成就するか?
イエスがバルティマイを呼びかけられた時、彼は着ていた上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに行きました。彼にとって上着は唯一の持ち物でした。その上着を脱ぎ捨てたのです。今までの生活を惜しいと思わないほどの価値がイエスの呼びかけにはあったのです。
バルティマイを呼び寄せたイエスは「何をしてほしいのか?」と聞きました。彼は「先生、目が見えるようになりたいです」と正直に答えたのです。
イエス・キリストによって、バルティマイは直ぐ目が見えるようになり、今までとは全く違う新しい生活をイエス・キリストと共に、永遠に始めることが出来たのです。

私たちも、上着を脱ぎ捨てて、イエス・キリストに求める時、心の目が開かれて、イエス・キリストが私たちと共に永遠に歩んで下さるのです。
バルティマイは、すぐ見えるようになると、なお道を進まれるイエスに従いました。すぐに従ったバルティマイの姿は、イエス・キリストに対する信仰の現れでした。私たちも、心の目を開かれた時、バルティマイの様に、直ぐにイエス・キリストに従ってまいりましょう。

選びの器(2010.5.23)

宣教題  : 「選びの器」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : 使徒言行録 9章1節-19節
神の時、神の霊、神の人が相重なるように展開されているのが、使徒言行録です。
聖霊の注ぎと満たしによって、どのような神の人が造られていくのでしょうか。その良い一つの例として、サウロが選びの器として祈る中に見い出すことができます。

1.生きておられるキリストの御前における祈り  1~6節
サウロは、当初キリストの福音に対して敵意と反感と憎しみに凝り固まった迫害者でした。彼は、主イエスは過去の人であって、今も生きておられる神として信じていなかったのです。復活のキリストは、そんなサウロにご自身を現わされて、教会を迫害することが神であるキリストに対する罪であることを明らかにされました。そして、神の大きな憐みによって立ち直らせてくださる救いの道を示されました(1テモテ1章12~17節)。
私たちに聖霊が臨むと直ちに自覚することは、キリストが共におられるという現実です(使徒言行録2章25節)。生きておられるキリストの御前に自分自身を置いて心を開くなら、主が何をしてくださるかを見ることができるようになります。主が共におられることを自覚する生涯は、どのような障害をも乗り越えさせます。
2.砕かれ、へりくだる祈り  7~19a節
復活のキリストにお会いしたサウロは、何も見えない状態で人々の手に引かれ、ダマスコで三日間を祈りの中に過ごしました。この時、人の助けを必要としない誇り高い人物であったサウロが、砕かれていく経験をしたのです。
そのために、この時だけ神の歴史の舞台に登場した「アナニア」が用いられて、使徒パウロが生み出されたのでした。アナニアは、神の御言葉を信じ、神の救いの御業を信じ、サウロとその祈りを信じて、執り成し、サウロを新しい使命へと導きました。そのようにして、サウロは目が開かれ、聖霊に満たされて、真に神に生きる道を示されたのでした。
私たちは、サウロと同じように主から選びの器とされています。主なる神は、砕かれて、へりくだった霊の人の祈りを求めておられます(イザヤ57章15節)。

キリストの権威(2010.5.16)

宣教題  : 「キリストの権威」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 11章27節~12章12節
権威は、脅しなどによって無理やりに服従させるのではなく、自発的に従うことを促す力です。とりわけ、キリストの権威に服する信仰の歩みは、幸いな人生と変えられます。

1.キリストの権威の根拠
受難週の三日目、エルサレムにおける出来事です。ユダヤ最高議会の代表者たちは、前日に宮清めをされた主イエスに対して、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問いかけてきました(11章27~28節)。それに対して主イエスは、ヨハネのバプテスマの権威が神からのものか、それとも人からのものかと反問されました(同29~33節)。主イエスは、代表者たちが分かろうとしない頑なな心であることを見抜いておられたのです。
そこで主イエスは、譬えを用いてキリストの権威の根拠を明らかにされました(12章1~12節)。そこには、忍耐深い神の愛と、最終的には神の独り子イエスを死に追いやった人間の強情で貪欲な罪の姿があります。主イエスが十字架に架けられて「捨てた石」のようになられ、復活されて「隅の親石」となられることにより、人には「不思議に見える」救いの御業を成されたのです。これこそが、キリストの権威の根拠であり、私たちを喜び踊る礼拝へと駆り立てるのです(詩編118編)。

2.キリストの権威の支配
私たちは、父親の権威、母親の権威、教師の権威、牧師の権威といった様々な権威の下に生きています。これらは大事にしなければなりませんし、それには責任がともなってきます。大切なことは、それらの権威が、キリストの権威の支配の中に培われていくなら健全なものとなるのです。
ですから私たちは、心の領域だけでなく、生活と生涯の全ての領域に、キリストの愛の権威の支配をいただくことが大切です。主イエスに対して、「ここに入っていただいては困ります」という領域を作らないようにしたいものです。キリストの権威の支配の中に生きることが、私たちの歩みを確かなものとするのです。

女性の感化(2010.5.9)

宣教題  : 「女性の感化」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記 27章1節~17節
神の歴史が展開されるところには、連綿として後を絶たない聖徒の姿があり、その多くは母や妻といった女性の感化を受けています。
ヤコブがリベカから受けた感化も例外ではありません。彼らの功罪を直視しつつ、今日の私たちへの語りかけを聴くことが大切です。

1.神の約束を待ち望む信仰の感化
イサクとリベカ夫婦には、委ねられた双子の兄エサウと弟ヤコブに対してお互いの偏愛がありました。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛し、二人の兄弟の違いが増幅され、その関係は複雑なものになっていったのです(25章28節)。ヤコブは、エサウから長子の権利を奪っただけでなく(25章29~34節)、母リベカから命じられるままに、偽ってエサウから神の祝福を奪いました(27章)。
ところで神は、リベカの胎に双子が宿ったときに「兄は弟に仕えるようになる」との約束をされていました(25章23節)。にもかかわらず、リベカはこの神の約束を認め、信じ、待ち望むことができなかったのです。神は、このような人間的な失敗も御手の中にあって用いられ、約束どおりに最善へと導かれます(ロ-マ9章10節)。神の約束に信頼して歩む信仰のゆとりをいただきたいものです。

2.惜しみない犠牲を注ぐ愛の感化
ヤコブは長子の特権と祝福を受けましたが、家におられなくなり、相続人でありながら家出人となりました。そして、20年後にヤコブが故郷に帰ったときには、リベカはすでに召されていました。つまり、リベカにとってこの事件は、最愛のヤコブとの生き別れであったのです。
さて、リベカが「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます」(13節)と言った盲目的ともいえる母性愛の中に、犠牲的な愛、贖罪愛の一断片を見ることができます。人は神の愛に触れてこそ、その愛に生き、その愛を注ぐことができるのです。
リベカの神は、私の神であり、私たちの神であり、あなたの神なのです。

神の導き(2010.5.2)

宣教題  : 「神の導き」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 8章26節~40節
異邦人であったエチオピアの高官がバプテスマを受けるに至った過程には、明確な神の導きがありました。それは、救いの御業がなされるために用いられた人にも、救いに与かった人にもありました。主イエスの救いの御業が展開される時には、この神の導きを誰しもが経験するのです。

1.神の導きの深さ  26~28節
フィリボの足跡をたどると、彼は聖霊の導きの中を縦横無尽に用いられています。そうしたなかで彼は、サマリアでの大きな働きから、突如として荒れた寂しいガザに下るように命じられました。彼は、柔軟にその導きに従って「すぐ出かけて行った」のです。
「折から」福音を必要としているエチオピアの高官がいました。思いがけない神の設定です。それは、フィリボにとっても、高官にとっても未知の遭遇と言うべきものでした。全てをご存知の神は、明らかに二人が出会うように導かれたのです。
神の導きは、福音を届ける人にとっても、福音に与かる人にとっても、人知を超えた深いものであるという信仰の気づきをいただきたいものです。
2.神の導きの確かさ  29~40節
これは、エチオピアの高官がエルサレムでの礼拝を終えて、帰国する途中での出来事でした。彼が「預言者イザヤの書」を朗読しながら旅をしていた時に、聖霊に導かれたフィリボが近づいてきました。彼は朗読されていた御言葉を通して(イザヤ53章7~8節)、そこに記されているのは受難のイエス・キリストであることと、福音の真髄を語りました。聖霊が御言葉を用いて働かれるとき、主イエスの救いの御業が成されます。
この確かな神の導きは、福音に与かっている人を通して進められます。そして、自発的な信仰告白とバプテスマへと導き、自立した信仰の歩みへと導きます。
神の導きを必要としない人は、一人もいません。そして、教会も神の導きを必要としています。
それに従える一人ひとりであり、教会とさせていただきましょう。