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仕えることの喜び(2010.6.27)

宣教題  : 「仕えることの喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 12章13節~17節
人が、主なる神に仕えることと、人に仕えることは大きな祝福です。それは、ちょうど、キリストと教会、夫と妻の間においても言えることです(ヱフェソ5章21~33節)。そして、主イエスが「神のものは神に返しなさい」と語られた根底には、神と人に仕えることの喜びが証しされています。

1.神に仕えることの喜び
ユダヤ人指導者たちは、税金問題を持ち出して主イエスを捕え、十字架に追いやろうと巧妙な罠をしかけています(13~14節、ルカ23章2節)。その偽証を見抜いておられた主イエスは、皇帝の肖像と銘が記された銀貨を見せながら、それが「皇帝のものです」と指導者たちの口を通して答えさせられました(15~16節)。そして、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と命じられたのでした(17節)。
主イエスが、このように答えられたのには根拠があります。神にかたどって造られた人間は(創世記1章27節)、与えられている全てのものは神のものであり、神にお返しするのが当然のことだからです。このことが明確になるなら、私たちは神に仕えることが喜びとなります。

2.人に仕えることの喜び
神に仕える喜びがあるところには、人に対しても健やかに仕える喜びが生まれてきます。「皇帝のものは皇帝に・・・返しなさい」との生き方ができるのです。
はからずも主イエスを陥れようとした指導者たちは、「人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と語りました(14節)。主イエスにとって「神の道」とは、十字架と復活の道でした。十字架に死んで復活されたキリストと結び合わされて新創造された者は、神のものとされ、神に仕え、人に仕える喜びの中を歩むことができるのです(2コリント5章17節)。
神のものとされた私たちは、健やかな時も病める時も、順境の時も逆境の時も、生きている時も死を迎える時も、神と人に仕えることを喜びとして生きるのです。

逆こそ真(2010.1.10)

宣教題  : 「逆こそ真」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 10章32節~45節
主イエスがご自身の受難と復活を予告された際に、ヤコブとヨハネは栄誉と報いを求めました。それに対して主イエスは、「仕える者になり・・・すべての人の僕」になることが、真に偉大な道であることを明らかにされました。仕えるとは、どういう在り方なのでしょうか。

1.キリストの愛に触れ続ける
私たちは、スキンシップや心の触れ合いによってお互いの感性が豊かにされます。聖書には、主イエスが人に触れられることによって御業をなされたり、人が主イエスに触れることによって癒されたりしている場面が多くあります。
ところで、主イエスが来臨された最大の目的は、「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」でした(45節)。それは、罪と死の虜になっている者を解き放つために、主イエス自らが十字架で血を流して身代金となってくださったのです。
私たちは、自分の決断によって、僕となって神と人に仕えることはできません。いつもキリストの十字架の愛に触れ続け、復活の命に触れ続けることによってのみ可能なことなのです。

2.キリストの謙遜に倣い続ける
主イエスは、「仕えられるためではなく仕えるために」来られました(45節)。私たちは、このキリストの謙遜に倣い続けることによって、僕となって神と人に仕えることができます。これこそが、「偉く」また大きくなることなのです。
この勧めは、ヤコブやヨハネなどの特別な人に対してだけなされたものではありません。「あなたがたの間で」(43節)と、今日の教会に対して勧められているのです。教会は、仕える人と仕えられる人と区分けしてしまう所ではありません。キリストが仕えていてくださることを知る者は、人からの些細なことにも仕えられる恵みに気づき、神と人とに仕える者とされるのです。
私たちは、互いに仕え合う喜びに生きてこそ、互いが大きくなり、真に偉くなるのです。