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生きた信仰(2022.7.17)

聖 書

主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる。「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある。」(イザヤ30章15節abc)

礼拝音源(32.1MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編46編11節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編65編
会衆祈祷 一  同
聖  書 イザヤ書30章15~22節
使徒信条 93-4  1A 一  同
教団信仰告白 (別 紙) 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「生きた信仰」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
入会式
賛  美 510 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

イザヤ書が開示する信仰は、臨在信仰に生きることについて大きな示唆を与えます。聖なる主は(15節)、私たちを恵もうと待ち、憐れもうと立ち上がられる公正の神です(18節)。私たちは、いかなる時にもこの主に対する生きた信仰を抱きつつ歩むのです。

1.静かにして信頼する  15節
南ユダ国は、二度の国家的な危機に見舞われました。最初は、アラムとエフライム同盟が攻撃してきた時です。主は、イザヤを通して「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない」(イザヤ7章4節)と告げられ、臨在の主に信頼するように勧められました(同9節、14節)。次は、アッシリア帝国が攻撃してきた時です。主は、「静かにして信頼していることにこそ」(30章15節)と語られ、信仰に立つように勧められました。
「静かにして」とは、主の中に身を沈めるようにして信頼することです(出エジプト14章13~14節、詩編46編9~10節)。そこには、人の信仰の備え(イザヤ37章14~15節、列王記下20章20節)と主の最善の御業がありました(イザヤ37章36~38節)。

2.敏感に応答する  18~21節
それゆえに、信仰者は「主を待ち望む者」(18節)であり、主に「叫ぶ」(19節)者であり、主を「見る」(20節)者であり、主が「語る言葉を聞く」(21節)者となるのです。とりわけ、主に導かれて右に行こうが左に行こうが、「これが道だ、ここに行け」と羊飼いである主の「背後から」の声に敏感に聞き従って行くのです(21節、詩編23編4節)。
私たちは、特別な選択を迫られる時だけでなく、日常生活のあらゆる場面において、主が語られる御言葉に敏感に応答していく生きた信仰者であらせていただきましょう

どうしたら信じられるか(2022.2.20)

聖 書

あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。 (ヨハネ5章39節)

礼拝音源(29.7MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ハバクク2章20節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編149編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ5章31〜47節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「どうしたら信じられるか」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 54 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

信仰者は、大きなことばかりでなく小さなことにも、ありとあらゆることを主イエスとその御業と御言葉を信じて歩んでいきます。それは、どういう信仰なのでしょうか。

1.信頼する  31~40節
主イエスは、自ら神として働いていることを明らかにされました(5章17~18節)。そのことを「証し」したのは、洗礼者ヨハネであり(33~35節)、主イエス御自身の御業であり(36節)、父なる神御自身であり(32節、37節)、聖書そのものです(39節、46節)。
しかし、ユダヤ人たちは、主イエスの語ることは信じるに値しないと決めつけ、主イエスのもとに来ようとしませんでした(40節)。それは、「父のお言葉を自分の内にとどめていない」で(38節)、主イエスを小さくし、その御言葉を軽く考えていたからです。
私たちは、主イエスとその御業と御言葉に対して、全き信頼を持ち続けて歩むのです
(37節b、1ペトロ1章8~9節)。

2.誠実である  41~47節
ユダヤ人たちは、神を愛し敬っていると言いつつ、神の栄光を求めて神に喜んでいただこうとするより、人からの栄誉に心を奪われていました。それが、主イエスを軽んじて十字架に架けることにつながっています。そこには、主イエスとその御業と御言葉に対する誠実さはありませんでした。
イスカリオテのユダは、不誠実の中を歩みましたが(マタイ27章3~5節)、パウロは主イエスとその救いを知って、誠実な歩みに変えられました(45節、フィリピ3章7~8節)。
私たちは、主イエスとその御業と御言葉に対して、誠実な歩みを続けるのです。

傷ついた葦を折ることなく(2016.2.21)

宣教題  「傷ついた葦を折ることなく」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  マタイ12章17~21節 1ヨハネ4章9節

人は、本来真っすぐに神に向かって生きるように造られたのですが、いつの間にかそうでない複雑な考え方をするようになりました。しかし、私たちは、今日開かれた聖書の御言葉に対して、真っすぐに応答するようにしたいものです。ここには、二つの問いかけがあります。

1.何を見ていますか。 18節a
「見よ、わたしの選んだ僕」との一言には、大切なメッセージがあります。
私たちの周囲には様々な宗教があります。それらの多くが、信仰の名のもとに何かをすることを求めたすることや、何か思いがけない不幸なことなどが起こると供養が足りないなどとの考え方をします。しかし、聖書は、私たちが何かをするのではなく、私たちに「見よ」と見上げることを求めています。それが信仰です。
そして、ただ漫然と見上げるのではなくて、「わたしの選んだ僕」を見よと言われます。この僕こそ、人の子として誕生してくださり、十字架の身代わりの死を遂げてくださり、復活されたイエス・キリストです。すなわち、信仰している私にではなく、イエス・キリストが大事であり、このお方に焦点を置くように招いておられるのです。

2.何によって生かされていますか。  18節b~21節
イエス・キリストがお持ちの「正義」は、私たちの弱い心、はかなく見える魂を生かし用いてくださいます(18節c~20節)。それは、神の愛の現れであるイエス・キリストによって「わたしたちが生きるようになる」ことです(1ヨハネ4勝9節)。このようにして、人が自分で神から遠い者であると思い込んでいる者に希望を与えてくださるのです(21節)。
イエス・キリストは、神と断絶して死んでいた者を生かしてくださり、失敗した人生に対して見捨てることなく生かしてくださり、その人を有用な人として持ち味を生かしてくださり、永遠まで生かしてくださいます。私たち一人ひとりは、自分自身が「傷ついた葦」「くすぶる灯心」であることを自覚して、正義と愛に満ちて生かしてくださるイエス・キリストを信じ受け入れ、信頼することから始めさせていただきましょう。