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祝福の根源(2019.9.8)

宣教題 「祝福の根源」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ19章28~48節 1コリント6章19~20節

 本箇所は、主イエスが平和の王として来られてエルサレムに入城され、この後十字架のご受難の道に向かわれた危機的な場面です。この時、人々は主イエスをお迎えしましたが、それが必ずしも主の御心に沿うものではありませんでした。

1.救い主の訪れを見過ごさないように  28~44節
 主イエスを迎えるに際して、二つのグループがありました。一つは、イスラエルの王として迎え入れた弟子たちや多くの群衆です(36~38節)。もう一つは、主イエスを拒絶したユダヤの宗教家たちで、主イエスを妬み、亡き者にしようとしていた者たちです(39~40節)。それに対して、主イエスは、ご自身を通してもたらされる神による平和の道を見失い、ご自身を通して神が訪れておられることを見過ごしている者たちへ、泣いて審きを予告されました(41~44節)。
 さて、私たちは、救い主イエスが私たちを訪れて良心に語りかけておられる御声を退けないで、「主よ」とお迎えして応答することが肝要です。

2.永遠の救いを失わないように  45~48節
 主イエスは、神を礼拝すべき神殿が強盗の巣となっており、そこにあった多くの罪のゆえに怒られました(45~46節)。それに対して、宗教家や指導者たちの主イエスに対する殺意はますますエスカレートしていきました(47節)。彼らは、本来の礼拝をする場所に戻そうとされた主イエスを無視して、自分たちの一時的な満足のために永遠の救いを失ったのです。
 さて、私たちは、主イエスが血をもって買い取られた神殿であり、神のものとされたのですから、そこを主イエスに明け渡すことが祝福の根源です(1コリント6章19~20節)。この恵みに生きるなら、霊的に老いることはありません。

聖書朗読(1.0MB)

メッセージ(8.0MB)

祝福の道(2019.5.19)

宣教題 「祝福の道」       宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ18章24~34節

 アブラハムに与えられた祝福は(創世記12章2~3節)、神の救いの歴史の中で脈々と受け継がれ、遂にイエス・キリストによって成し遂げられました。この祝福が与えられたところには、それまでのままで終わらないで、必ず変化がもたらされています。

1.主イエスが開いてくださった道  31~34節
 永遠の命は、主イエスを信じる者が無代価でいただくものです。そのための道は、神が主イエスの十字架と復活を通して開いてくださいました。そのことは、これまで繰り返し語られてきたものの、主の弟子たちは「理解できなかった」のです(34節)。
 主イエスは、私たちの罪の赦しの贖いのために十字架の道を歩まれました(ルカ5章20節、ヨハネ14章6節)。それによって、私たちの罪は赦され続けているのです。このことが心と生活に刻み込まれることにより、信仰が強められるのです。

2.主イエスが全うさせてくださる道  24~30節
 さらに、日々自分の十字架を背負って、主イエスに従っていく十字架があります(ルカ9章23節)。主イエスは、そのことを金持ちの議員についての問答の中で明らかにされたのです。そして、真に主イエスに従うときに、この世での祝福と後の世では永遠の命の祝福を受けることを明らかにされました。十字架に死んで復活された主イエスが「神にはできる」と言われる御言葉に信頼することによって、納得のいく力が湧いてくるのです。
 主イエスと同様に、自分の十字架を背負う道こそが、神の御心です。その道を進んでいく者に、主イエスは助けを与え、その道を全うさせてくださるのです。

聖書朗読(0.7MB)

メッセージ(10.7MB)

祝福の言葉に満ちて(2014.2.16)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ルカ6章20~26節

聖書がいう「幸いである」とは、一瞬のつかの間の幸いではなくて、いつまでも続いている幸いであり、祝福されている状態を表しています。それは、主イエスの口から出た祝福の言葉によって明らかにされています。

1.新しい祝福の言葉を明示する
ここで語られていることは、弟子たちが望んでいたこととは大きく違っていました。それは、この世の価値観とかけ離れており、人間が思い描く在り方とは大 きな隔たりがあります。うずくまるように神だけに全信頼を置いている「貧しい人々は」、神の恵みの支配の中に生かされるのです。神を慕って、愛に「飢えて いる人々は」、神によってのみ満たしていただくのです。自らの真相に「泣いている人々は」、神の救いに与る喜びを知るのです(20~23節)。
このように主イエスが明らかにされた新しい祝福の言葉によって、私たちは、物質的・表面的な尺度による生き方から解放されて、不変的・永遠的な尺度によ る生き方に変えられていくのです。それは、主イエスに結ばれていることによって、死と終わりを直視しながら知る幸いです(ヨハネの黙示録14章13節)。

2.確かな祝福の言葉を告知する
主イエスの祝福の言葉は確かなものです。それは、もともと私たちの内にあるものではなく、語り主であるイエスにあるものです。私たちの内には、喜ぶもの、満足しうるものを持ち合わせていないのです。そして、私たちの口が祝福をもたらす力を持っていないのです。
ところで、私たちは、主イエスの祝福の言葉の取り次ぎ役です。従って、主イエスに仕え、教会に仕え、人に仕える者は、主の祝福の言葉を取り次ぐために仕えているのです。
そのように、確かな祝福の言葉が私たちに告げられているのですから、拒むことなく、受け入れる者となりましょう。また、確かな祝福の言葉が告げられ続けているのですから、いかなる時にあっても、その祝福の中を歩み続けましょう。

家族を越えて(2014.1.5)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:マルコ3章31~35節 創世記26章23~25節

祝福の源である家族となるためには、イエス・キリストを家族の主としてお迎えすることが大切です。ここでは、主イエスとその家族との間に溝が生まれていることが語られていますが、何が真に祝福された家族であるかを問いかけているのです。

1.家族には限界がある
主イエスの母と兄弟たち家族は、「外に立」っています(31節、32節)。それに対して、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(34節)とある 「ここに」とは、「イエスの周りに座っている」人々です(32節、34節)。「座っている」とは、そうすることで主イエスの御言葉に耳を傾けていたのです (ルカ10章42節参照)。ここに、主イエスは、深くて高い新しい家族の交わりがつくられているのを見ておられました(34~35節)。
このようにして、主イエスは、人がつくりだしている家族は究極的なものではないことを明らかにされたのでした。そうすることによって、家族には限界があることを教えておられるのです。

2.神の家族となる
それでは、私たちは、限界ある家族を越えてどこに向かっていけばよいのでしょうか。そこで主イエスは、神の御心を行う家族となることを勧めておられます (34~35節)。神の御心とは、家族の限界を知りつつ、神のあわれみ、神の赦しをいただいて、神のものとされていくことです。具体的には、親の立場、子 の立場、祖父母の立場、嫁や姑の立場で、家族を絶対化しないことです。また、家族に破れがあったとしても、主イエスとの絆で結ばれることの大切さを示し続 けることです。
そのことを証しした聖書人物の一人が、アブラハムの子イサクでした(創世記26章23~25節)。イサクは、アブラハムに示された神の祝福の約束を再確 認して、まず祭壇を築いて礼拝し、次に天幕を張って家族の生活を整え、そして井戸を掘って生活の糧を得たのです。この順序は、神の祝福を受け継いでいくた めに大切な信仰の応答です。神の御心を行う神の家族は、今も変わらずに私たちに求められています。

家族に祝福を(2014.1.1)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録16章31節

今年、私たちの教会は、「祝福の源である家族」を標語に進んでいくように導かれています。私たちは、世界の礎である家族に祝福がもたらされるために、何を大切にしなければならないのでしょうか。

1.家族の大切さ
天地創造、世界の起源、創造の冠として人間を造られたことなど、壮大なスケールから始まる創世記が、その本論に入るとアブラハム家の物語に絞られ、その後の家族が全世界に祝福を及ぼす源となっていったことを語っています(創世記18章19節)。
また、主イエスは、家族を重く見ておられました。その十字架上で、母であるマリアのために配慮された事実にも(ヨハネ19章26~27節)、それを知るこ とができます。そして、パウロは、家族を顧みることの大切さを語っています(1テモテ5章8節)。聖書は意外なまでに家族を大切にしています。
私たちは、家族を大切にして、具体的にどのように家庭を作っているか、また作ろうとしているかが問われています。

2.家族が主の救いに与る大切さ
神の祝福の源である家族であるためには、主の救いに与り、天の喜びに息づく家族に変えられることが大切です。
人類は、その祖であるアダムとエバが神に背いたことによって、神の祝福を失いました。今もなお家族や家庭に見られる混乱や乱れのルーツは、ここにありま す。神の救いの御計画は、神と人との関係の回復だけではなく、それを起点とした人と人との回復、家族の救いを意図しておられます。
フィリピにあった牢の看守一家が、主イエスを信じ、全員洗礼を受けて、喜び溢れる家族になりました(使徒言行録16章16~34節)。彼らは、主イエスに人生の土台を置いて、主に信頼する歩みを始めたのです。
一人の人の救いの祝福は、その家族に及んでいく始まりとなります。私たちの一人一人と家族の「主」が、イエス・キリストなるように祈り願いましょう。

祝福の本当の源泉(2013.10.20)

宣教題  : 「祝福の本当の源泉」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ホセア書2章4~25節
「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章)に登場するのは、父から離れていって身を持ち崩した息子であった。ホセア書には「放蕩夫人」が登場する。イスラエルが、他の神々という愛人たちを恋い慕ったからである。

1.衣食住の祝福の源泉
紀元前8世紀のイスラエルではバアル崇拝が広がっていた。衣食住の必要は嵐と雨をもたらす肥沃の神バアルが備えると信じていたからである(7)。しかし、祝福を与えてくれるバアルを探し求めても、見つけ出すことはできない(9)。衣食住の祝福の源泉は、バアルではなくイスラエルの神である主だからだ(10)。主が祝福を惜しみなく与えられたからこそ、放蕩夫人は放蕩に身を持ち崩すことができた。しかし、彼女は知らなかった。

2.神を知る祝福の源泉
イスラエルは主を忘れ(15)、愛人バアルを求めた。しかし、彼らは主を知るようになる(22)。主がそのために働かれる。彼らがバアルの所へ行く道をふさぎ(8)、その衣食住を奪い取り(5、11)、世界にその恥をさらさせ(12)、季節の祭りの楽しみを奪い取り(13)、バアルの贈り物だと誤解していた楽園を荒らす(14)。主は彼らが蒔いた種を刈り取らせる。しかし、荒野へと彼らを導き、そこで懇ろに語り、祝福と苦悩の中の希望を与えるのも主である(16-17)。主に信頼する以外に道がない荒野で出エジプトの神を思い起こした彼らは、主の下に立ち返り(18)、主を知るようになる(22)。神を知る祝福の源泉も主である。

3.世界を治める祝福の源泉
イスラエルが祝福の本当の源泉を知る時、天と地は結び合わされ、天から与えられる祝福を、地は豊かに実らせる(23-24)。彼らがその使命を果たし、地を正しく治め、あらゆる被造物がお互いに呼応しあうからである。このようにして、彼らが地上で主のみこころを行い、その結果、被造物が生かされ、戦いが止められるために、彼らと契約を結ばれるのも主である(20-22)。放蕩夫人が主の下に立ち返り、その使命を果たすためのあらゆる必要は主が備えてくださる。祝福の源泉である方を覚えよう。

最高の祝福(2011.9.11)

宣教題  : 「最高の祝福」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 民数記  6章22節~27節
モ-セとアロンとミリアムは、80歳を超えてから、神に遣わされて神の民イスラエルの先導者となりました(ミカ6章4節)。特にモ-セの兄であったアロンは、神の祝福を執り成す者として用いられました。

1.祝福を受ける
アロンは、徹頭徹尾モ-セの脇役に甘んじたという点で、たぐいまれな人物です。アロンが表面に立って語る時があるとすれば、それはモ-セの代弁者としてでした(出エジプト4章16節)。しかし、どこまでもモ-セを支えるものであって、とりわけ彼の祈りを支えました(同17章8~12節)。
ところが、モ-セが大祭司を選ぶための諸規定を神から教えられていた間(同28~29章)、アロン自身は民の要求に従って金の子牛作りに精を出していました(32章)。神は、そんなアロンの罪を赦し、「主の聖なる人」(詩編106編16節)として、神と罪人の間に立つ仲保者とする祝福を与えられました(出エジプト32章)。これは、私たちの姿を映す鏡であり、イエス・キリストの救いという祝福を受ける者の姿です(エフェソ1章3節)。

2.祝福を告げる
アロンは、神の祝福を告げる祭司として用いられました(民数記6章22~27節)。ここには、「あなた」と言われる神の民全体に対して、神の祝福と守りが(24節)、主の臨在の恵みと導きが(25節)、主の臨在の顧みと平安が備えられることが告げられています(26節)。そしてこの祝福は、全キリスト者に及び、三位一体の神の名による祝祷でもあります(1コリント13章13節)。
今日の教会の礼拝は、牧師の祝祷で終わりますが、互いの日々の歩みがこの祝福を受けたところから始まります。この祝祷は単に祝福を祈るという以上に、祝福を告げることなのです。そして、祝福のうちに死を迎え、祝福の確信をもって試練と戦うのです。私たちは、イエス・キリストに信仰によって結び合わされ、神の祝福を告げる祭司なのです。