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生きた御言葉信仰(2014.8.10)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ 7章1~10節

ユダヤ人の長老たちは、「百人隊長」のよい行いを見て尊敬しました(4~5節)。しかし主イエスは、彼の信仰を見られて高く評価されました(9節)。このように主イエスを感心させ驚かせた信仰こそが、生きた御言葉信仰です。

1.御言葉に対する信頼を伴なう信仰
百人隊長は、病気で死にかかっている部下を助けに来てくださるように主イエスに懇願しておきながら、その後で来てくださることを遠慮する発言をしていま す(1~6節)。この矛盾するような発言をしたのは、憐れみ深い主イエスに対する彼の信頼から生じたものと思われます。
続いて、百人隊長が「ひと言おっしゃってください」と主イエスに語ったのは、主が語られる御言葉の権威に対する心からの畏れと尊敬を持っていたからであり、御言葉の力を信じ切った主への信頼があったからです(7~8節)。
御言葉信仰とは、どんな時にも、どんなことにも、どんな人にも、御言葉は必ず答えを持っているということを信じる信仰です。御言葉の重みを知ることが、御言葉に対する信頼につながるのです。

2.御言葉に対する服従を伴なう信仰
百人隊長は、御言葉をいただき、そして助けていただければそれでよいという以上の信仰を言い表わしています。すなわち、助けていただいた以上は、次に主 イエスが何を命じられても、その御言葉に従おうとしました。主イエスは、彼の信仰に感心し驚かれ、「これほどの信仰」と言われたのです(9節)。そして、 「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8章13節)と励まされたのです。このように、主イエスが喜ばれる信仰は、御言葉に対して服従 する信仰です。
御言葉信仰は、主イエスが評価してくださる信仰であるからこそ大切なものなのです。それを単なるお題目に終わらせてはなりません。実質の伴なった、生き た御言葉信仰を持たせていただきましょう。「ひと言おっしゃってください。そして」の後に、私たちは何と応答するのでしょうか。

真実で動かされないもの(2014.8.3)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録 28章11~16節

パウロは、「ローマでも証しをしなければならない」(23章11節)との御言葉を主イエスからいただいてから、災難また災難を乗り越えて、ついにローマに 到着しました。そこで彼は、「神に感謝し、勇気づけられた」(15節)のでした。ここには、復活の主によって、真実で動かされないものをいただいている者 たちの証しがあります。

1.復活の主の力を共に知る信仰
難破したパウロ一行は、マルタ島に上陸して三か月を過ごした後、シチリア島のシラクサ、続いてイタリア半島のレギオン、そしてプテオリに入港しました。 そこでは、パウロたちは『兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した』のでした(14節)。この時、聖日礼拝を含む日々を主にある信仰の交わりを深 め合い、祈りと御言葉を共にしたことでしょう。また、パウロたちがローマ近くまで来ていると聞いたローマ在住の信徒たちは、彼らを心から歓迎をしたのでし た。ルカは、その時のパウロを「神に感謝し、勇気づけられた」と語っています。
この感謝と勇気は、復活の主の御言葉から、また復活の主が共におられるとの信仰からくるのであり、聖霊の力によるものでした。周囲が揺れ動く中で、私たちも、真実で動かされることのない復活の主の力を共に知る信仰を抱き続けたいものです。

2.復活の主に共に仕える気概
ルカは、パウロたちがローマに到着したこと、そこで囚人でありながらも伝道する自由を与えられた不思議な摂理を淡々と語っています(14、16節)。そ う語られている背後には、パウロたちの意に反するようなことが起こっていたにもかかわらず、その意に反した事柄の中で復活の主が何をなされておられるのか を汲みとって、復活の主に仕え、宣教の業に勤しむ彼らの気概がありました。
私たちは、その信仰生涯で経験する病や事故、また人々の反対や批判といった困難と思われることも最善に用いなさる復活の主に共に仕える気概をもたせていただき、その自覚に生きることができるよう祈り求めていきたいものです。

元気を出しなさい(2014.7.6)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録27章13~38節

パウロのローマ行きという神の御計画は変わらず、度重なる困難を経て実現されていきました(13~20節)。彼は、暴風で荒れ狂う海に漂流する船の中で、神の必然を信じつつ、同船者に「元気を出しなさい」と語り続けたのでした(22節、25節)。

1.愛の励ましをもって  21~26節
暴風が激しく吹きすさぶので、「ついに助かる望みは全く消え去ろうとしていた」(20節)時、同船者たちはパウロの救いの言葉を聴くことができたのでした。彼は、絶望と無力のどん底にある彼らに、「元気を出しなさい」と励ましたのです。
パウロは、なぜこのように並はずれの寛容と愛をもって人々を励まし、助けようとしたのでしょうか。彼がローマに行って福音を語ることは、神からの必然的 使命だったからです。神は、航海中の全ての人を彼に任せておられたからです。神が彼に告げられたことは、必ずそのとおりになるとの御言葉信仰に立っていた からです。彼は、死をも乗り越えさせる復活信仰に立って、最後まで諦めなかったからです(24~26節)。このように、いかなることが起こったとしても、 それを神の恵みへの応答のチャンスとしようという捉え方で歩む生き方が求められます。

2.愛の連帯感をもって 27~38節
漂流中の船か浅瀬に乗り上げようとした時、船員たちは乗船員を助けようとしないで逃げ出そうとしたのをパウロは阻止しました(27~32節)。そして、 すでに全員が助かると語っていたパウロは(22~26節)、疑心暗鬼になっている乗船員に、信仰の確信に立って元気づけたのです。それは人々の心を奮い立 たせました(33~34節)。
さらに、復活の主イエスが共におられ、人々に元気を与えてくださることを分かち合うために、パンを裂いて共に食しました。自分たちだけ助かろうとした船員 を排除することなく、愛の共同体として受け入れ合ったのです(35~37節)。そこにいた全ての人が、同じ苦難を経験した者として、愛の連帯感の中に導か れたのです。
このように、神の御業は、日々に御言葉を聴き従いつつ歩む信仰者を通して展開されていくのです(23章11節、27章23~24節)。

キリストは生きておられる(2014.4.20)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ 24章13~35節

エルサレムからエマオへの道にあった「二人の弟子」は、当初は「目が遮られて」復活されたキリストが分からなかったのですが(16節)、後に「目が開け」 て復活されたキリストが分かるようになりました(31節)。信仰の目が開かれると、生きておられるキリストがどのように見えるのでしょうか。

1.共に歩んでくださるキリスト  13~27節
二人の弟子は、失意の中にあり、途方に暮れていました。というのも、信頼していたキリストを失ったことと、十字架の死のショックに打ちのめされて、キリ ストが見えなくなっていたからです。同様に、私たちは、キリストに対する信仰上のことだけでなく、私たちの日常の生活上のことなどで二人の弟子たちと同じ 経験をするときに、キリストが分からなくなることがあります。
しかし、復活されたキリストは、二人の弟子と一緒に歩き、話しかけ、聖書を説明しておられます。この時、彼らは、その「心は燃えていた」という経験をし ていました(32節)。今も変わらずに生きておられるキリストは、永久に私たちと共に歩んでくださり、御自身を示して、私たちの心が燃えるまで親しく臨ん でくださるのです。

2.共に留まってくださるキリスト  28~35節
その日の夕方、キリストはなおも先へ行こうとされたので、二人の弟子は「無理に引き止め」留まるように懇願しました。その時、キリストと彼らの間には、 賛美の祈りが伴なった聖餐と愛餐、また御言葉による語りかけを通しての親しい交わりが生み出されました。その結果、彼らの目が開かれ、共に留まってくだ さっているキリストが分かったのです。このような交わりは、復活されたキリストによって、今の私たちの間にもつくられています。
復活されたキリストは、今も生きておられます。そして、私たち一人一人にふさわしく、先立って共に歩んでくださり、留まってくださり、私たちの目を開いてくださいます。いかなる時にも、御言葉に立つ信仰をもたせていただきましょう。

キリストは何をなされたか(2013.9.22)

宣教題  : 「キリストは何をなされたか」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ11章25~27節
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」との主イエスの御約束を信じて生きる人には、過去も現在も将来も開かれた人生となります。そのために、主イエスは、どのようなお方であり、何を語られ、何をなされたのでしょうか。

1.明るい将来を開かれた
マルタとマリアは、主イエスがいてくださりさえすれば、兄弟のラザロは死ななかったのにとの思いを抱いていました(21、32節)。死の厳しさ、虚しさ、悲しみを味わっていたのです。主イエスは、彼女たちの悲しみを受け止めて涙を流され(35節)、ラザロを墓からよみがえらされたのです(43~44節)。
マルタとマリアと兄弟ラザロは、私たちの代表です。同じように、私たちは、十字架に死んで復活された主イエスによって、肉体の死を越えて生きる者となるように招かれています。それだけではなく、主イエスは、死の不安におののき、本来の人間らしさを失った者に復活の命を与えて生かし、新しくされた人生を歩ませてくださいます。私たちには、主イエスと切り離されないで生きて死ぬという明るい将来が開かれているのです。

2.明るい過去に変えられた
私たちに明るい将来が開かれるためには、明るい過去に変えられる必要があります。私たちの数々の罪は、神の目から隠れてはいません。その神の前に素直な心になって、罪の赦しを求めるならば、主イエスの十字架の血によって罪のない者としてくださるのです。
このようにして、暗い過去が明るい過去に変えられ、明るい将来へと希望がつながるのです。私たちの希望の根拠は、十字架に死んで復活された主イエスにあるのです。
「信じる」とは、思い込むことでも、理性を殺すことでもありません。「わたしを信じる者」とあるように、私たちは、主イエスを自分の永遠の救い主として受け入れ、このお方によって尽きることのない復活の命を与えられているということを信じ、信じたとおりに生き、その結果を体験するように招かれているのです。

窮地に生きる信仰(2011.11.20)

宣教題  : 「窮地に生きる信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章16節~25節
聖書には、信仰をもっているのに試練があることと、そのような試練にあったときにそれを喜びとしている証しが多く記されています。パウロのフィリピ伝道は、順調な出来事ばかりでなく、パウロやシラスの投獄というような窮地に追い込まれたこともありました。しかし、その時にも別な意味での喜びがありました。

1.主イエスに試される喜び
占いの霊に取りつかれた奴隷の女は、精神的にもバランスを欠いた状態で雇い人に利用されていましたが、主イエスの十字架と復活の福音によって、その罪の奴隷の悲惨な生活から解き放たれ、救いにあずかりました(16~18節)。ところが、この女の雇い人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、ありもしない罪状を作って、パウロとシラスを捕えて訴え、牢に投げ込んだのでした(19~24節)。パウロたちは、この難を避けるために正当な訴えもせずに、甘んじて受け入れました。このことが、続く看主の家族の救いにつながっていくのです。
私たちは、「神を信じているのに、神は約束されているのに、なぜこのような試みを通されるのか」と、信仰の土台を揺さぶられる経験をします。主イエスは、私たちの信仰が本物になるように、敢えて試みを通されるのです。そこには、主イエスに試されることによって得る喜びがあります(ロ-マ5章1~5節)。

2.主イエスを想う喜び
このような窮地の中で、しかも真夜中ごろ、パウロとシラスは神に賛美をして祈っていました。他の囚人たちはそれを聞き入っていました(25節)。普通ならば意気消沈してつぶやき、不満が出てくるものです。
彼らは、主イエスの十字架を想い起こし、罪の罰である死を受けてくださり、罪の奴隷から解放し、復活の命に与からせてくださったことに感謝して、神に賛美し、祈ったのでした。
私たちも窮地に追い込まれた時に、主イエスの十字架と復活の福音を想い起して賛美し、祈ろうではありませんか。必ず主の御業が拝せられることを信じて!

ほんものの信仰(2011.5.1)

宣教題  : 「ほんものの信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   13章42節~52節
異教の地でのパウロの説教は、神の愛と恵みに満ち、罪の赦しの福音が提示され、「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」ものでした(42~43節)。
その結果、ほんものの信仰とはどういうものかが明らかにされたのです。

1.神の御言葉に動かされる
パウロが、キリストの十字架と復活の福音を「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(39節)と語りかけたことに対して、続けて福音を聴きたいと願って集まる者たちと、「ねたみ」のゆえに口汚くののしる者たちとに分かれました(44~45節)。
この時、パウロとバルナバは、神の伝道のご計画を深く理解し、神の御言葉に動かされて冷静かつ勇敢に語っています(46~47節)。そして、神の救いのご計画を聴いた異邦人たちは、神の選びに与かって永遠の命を得ることができたことを喜び、神の御言葉を讃えつつ、信仰に導き入れられました(48節)。
福音を語る者と聴く者が、共に神の御言葉に誠実であるなら、ほんものの信仰が培われていくのです。

2.聖霊に満たされている
「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」(49節)のですが、ユダヤ人たちは、人々を煽動してパウロたちを迫害し追い出しました(50~51節)。
パウロたちの伝道は失敗だったのでしょうか。いいえ、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」のです(52節)。彼らは、恐れや不安でなく、聖霊に満たされ、神と共にいることを証ししたのです。
また、弟子たちがパウロたちに依存していたのではなく、主イエスの弟子となり、聖霊に依り頼んで、聖霊による喜びをもって生活し、伝道していたのです(1ペトロ4章12~14節)。
このように聖霊に満たされ続けるならば、自立したほんものの信仰に立たせていただけるのです。

信仰の目覚め(2010.2.14)

宣教題  : 「信仰の目覚め」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記  28章10節~22節
ヤコブが、旅の途中の荒野で過ごした夜の出来事です。彼は父との死別の悲しみ、兄を裏切った心の痛み、いつも傍にいて守ってくれた母との別れの悲しみ、旅そのものの恐怖、見知らぬ土地への不安を秘めながら、石を枕にしての野宿をしました。
そのような中で、ヤコブは神と出会い、信仰に目覚めさせられるのです。

1.見上げよ!  10~15節
ヤコブは、この時まで神の話しは聞かされ、神の祝福に与かることに憧れていましたが、神ご自身を個人的に知ることはありませんでした。そんな彼が、神の御名を呼んで助けを求めて眠りについたのではないでしょうか。その夜彼は夢を見て、神を見上げる時を与えられたのです。
まず神ご自身が、ヤコブの暗い孤独な現実へ下ってこられたことを見ました(12節)。また、神ご自身がヤコブの傍らに立っておられるのを見ました(13節)。そして、神ご自身がヤコブと共にいてくださり、守り、見捨てることはないとの力強い約束を見聞きしました(15節)。
私たちは、いかなる時であっても、この神を見上げることを忘れてはなりません。

2.目覚めよ!  16~22節
ヤコブは、夜の眠りからの目覚めと同時に、信仰の目覚めを経験しました(16~17節)。そして、その場所を聖別し、信仰の記念としました(18節)。さらに、神のヤコブに対する約束に対して(20~21節)、ヤコブは神に誓願しています(22節)。その誓願は、神が約束されていることが実現すると堅く信じつつも、不安な気持ちの入れ混じったものでした。
ところでヤコブは、信仰を目覚めさせられた場所を「ベテル(神の家)」と名付けています(19節)。そこから信仰の歩みが始まったヤコブは、そこに戻ってきて礼拝をしました(35章3節)。このベテルこそ、今日の教会です。そしてイエス・キリストが、天に通じる唯一の階段となってくださいました(ヨハネ1章51節)。私たちは、神の臨在とその守りの中を御国を目指して歩んでいるのです。

冒険する心(2009.9.13)

題   : 「冒険する心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 25章7~10節  ヘブライ 11章8~16節
私たちは、その信仰の旅路において新しいものに触れ、新しくされることに踏み込んでいくことを神から期待されています。こうした冒険をしたのが、信仰の父と言われたアブラハムです。信仰の冒険は、どこから生まれてくるのでしょうか。

1.全能の神への信頼から
アブラハムは、神からの未見の呼び声と挑戦を受けました(ヘブライ11章8節)。彼は、その召しに「信仰によって」従っていきます。それは、次から次へと放棄していく生活、一つ一つの執念を断ち切っていく生活でした。
私たちは、こうした信仰の危機に直面すると、疲れたり、弱ったり、確信が揺らいだり、信仰の活力を失ったりします。そうした時こそ、私たちは、全能の神に信頼し、「信仰によって」冒険する心を回復していただく必要があるのです。
礼拝は、自らの損得勘定や人生設計をカッコに入れて、神の御前に立つときです。そして、神に信頼しているゆえに、神の御言葉に従うときです。そこから、神の招きに踏み出し、信仰の力に溢れさせていただき、信仰の冒険へと駆り立てていただくのです。

2.永遠の栄光への望みから
信仰の冒険は、病に倒れて再起は難しく、死を待つばかりというときでも、なお新しくされることに踏み込んでいくことです。それは、アブラハムたちのように、「喜びの声をあげ」、神が準備してくださっている「天の故郷を熱望」することです(ヘブライ11章13節、16節)。
アブラハムが死を迎えたときの記述には、明るい信仰的な響きと揺るぎない望みがあります(創世記25章8節)。それは、神が計画し定められた信仰の歩みを走り抜き、永遠の栄光への新しい出発があることを言い表しています。
神は、自ら人となって、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださいました。私たちは、この神の冒険に対して、信仰をもって応答し、神の都を目指して歩む信仰の冒険者なのです。

仰ぎ見る日々(2009.7.19)

題   : 「仰ぎ見る日々」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章2節~13節
信仰とは、主なる神を仰ぎ見ることです。人は、罪を犯した時、また苦難の中に置かれた時など、目を伏せ、自分の周囲にしか目が向かなくなり、現実を見て失望したりします。また、他者を見てうらやみ、自分を見て一層惨めになったりします。
主イエスの変貌の出来事は、主を仰ぎ見る者にどういう意味があるのでしょうか。

1.永遠の救いの保証
主イエスが「高い山」に登られたのは、「祈るため」でした。そして、祈っておられるうちに、そのお姿が変えられたのでした(ルカ9章28~29節)。そこにおいて、主イエスがモ-セとエリヤと語っておられたことは、ご自身が「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」であり(同31節)、主の栄光が最も現された十字架と復活の出来事についてでした(9~13節)。
主イエスの十字架と復活なくして、私たちの救いとその完成はありません。主イエスの変貌の出来事は、十字架と復活による永遠の救いの保証を意味しており、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント3章18節)いく栄化の先駆けとなったのです。私たちは、栄光の主イエスを仰ぐのみです。

2.輝く生涯の動力
主イエスの変貌の出来事は、信仰者の地上の生涯を姿変わりさせる力を与え続けてきました(ロ-マ12章2節)。その恵みは、礼拝を中心とした信仰生活を輝きあるものにし続けてきました。
私たちのうちに、このような姿変わりさせられることを嫌っているところがないでしょうか。そうならないために、私たちは、主イエスが語られている御言葉に聴き従い続けることが大切です(7節)。また、いかなる時も、私たちと共におられる主イエスを仰ぎ見ることが大切です(8節)。そうするならば、主イエスといつも共にいる自分の姿が見えてきます。そして、人を見る目も変ってきますし、自分の周囲を見る目も変ってくるのです。
主を仰ぎ見る日々の連続が、主を仰ぎ見る生涯となるのです。

喜びにも、悲しみにも(2009.5.10)

題   : 「喜びにも、悲しみにも」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  18章9節~15節
アブラハムとサラ夫妻は、神の召しを受けて、未見未知のカナンの地に旅立ちました(創世記12章1~5節)。その時から、妻サラは、呟くことなく、夫に従って行きました。この出発は、彼女の生涯にどのような信仰をもたらしたでしょうか。

1.神の真実への信仰
サラは、不妊の女でしたが(創世記11章30節)、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」(ロ-マ4章⒘節)を信じる必要がありました。ところが、彼女は、神の時が待ちきれず、女奴隷ハガルを夫にすすめるという不信仰の行動を取ったのです。その実は、嫉妬と憎しみが渦巻く家庭のトラブルを刈り取ることとなりました(創世記16章)。
しかし、神は、約束どおりサラに祝福を与えられました。神は、ご自身の使者を通して彼女に懐妊したことを知らせ(同18章13~15節)、約束の子イサクを与えられたのです(同21章1~8節)。
こうして、信仰の弱いサラは、悔い改めて、神は約束されたことは必ず成し遂げられる「真実な方」であるとの信仰に飛躍したのです(ヘブライ11章11節)。神の真実が最大限に現されたのは、イエス・キリストの十字架です。私たちは、いかなる時にも十字架を仰ぎ、神の真実に対する信仰を貫くことが必要です。

2.従順の信仰
アブラハムとサラ夫妻の最大の試練は、最愛の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との神の命令でした(創世記22章)。アブラハムは、自らも納得できないことでしたし、他者に説明することはとうていできないことでした。しかし、彼は、神の命じられることに従ったのです。また、「サラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました」(1ペトロ3章6節)。
彼女は、喜びにも、悲しみにも、神に従順な夫の行く所どこまでも従ったのです。このサラの強い感化が、神を畏れ、父母に仕える従順の子イサクを生み出したと言えるでしょう。
主イエスは、「多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5章8節)。まして私たちが従順を学び続けることは、当然のことなのです。

信仰の余裕(2009.4.26)

題   : 「信仰の余裕」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ  7章24節~30節
ここに登場する母親は、わが子を愛するゆえに、その娘のあまりにも重い病のいやしを主イエスに願い求めています。
それに対して主イエスは、冷淡とも思える言葉を語り、態度を取られました。しかし、母親は主イエスに対する信仰を失いませんでした。その余裕は、いったいどこからきているのでしょうか。

1.キリストの愛を知るゆえに
母親が、主イエスに願い続けたのは(26節)、主イエスが沈黙されたからであり、無視するような態度を取られたからです(マタイ15章23節)。挙句の果て拒絶されました(27節)。
しかし、母親は主イエスの語られたことに腹を立てることなく、拒絶の言葉と受け取ることもありませんでした。それどころか、満腹した子供たちの食べこぼしを小犬も食べますと、主イエスの豊かな愛と恵みに与かることを願っています(28節)。ですから、「主よ」と呼びかけることができたのです。
私たちが祈り願うことの答えが得られないとき、なお信じ、祈り続けることができのは、神の御言葉をどう聴くかにかかっています。いかなるときも、主の愛に信頼することです。そこに、信仰のゆとりが生れます。

2.キリストを信じ抜くゆえに
母親は、主イエスの「足もとにひれ伏し」懇願しています(25節)。彼女は、ひれ伏したまま主の御言葉を聴き、見上げながら、「主よ、お言葉どおりです」と謙虚に語っています(28節、口語訳聖書)。主の御言葉を聴き取ることができ、主の恵みを見ることができるのは、魂がひれ伏し、ひざまずいている時です。
ところで、主イエスの語られた通りに信じた母親は、あれほど執拗に懇願した人とは思えないほどに、あっさりと家に帰っています(29~30節)。それは、見ないで信じる信仰だったからです。
私たちは、罪人であり、弱く小さな者でしかありません。主イエスは、そんな私たちを愛し抜き、救いを成し遂げてくださいました。私たちは、主イエスの前にひれ伏し、信じ抜くだけです。そこから、信仰の余裕が生れるのです。

信仰者の楽しみ(2009.3.1)

題   : 「信仰者の楽しみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 4章1節~9節
キリスト者は、「主によって」「主において」とあるように、主にある者です(1節、2節、4節、7節)。それは、キリストに身を置く者であり、キリストとの交わりの中に生涯を歩む者です。その生活は、キリストとの交わりを楽しむことにより、信仰と品性が造られていくのです。

1.主にある信仰  1~3節
フィリピの教会は、愛の祈りと労苦また献げものをもってパウロの伝道に惜しみなく協力しました。パウロは、そんなフィリピ教会と聖徒たちを愛し、慕い、喜び、自分の伝道生涯の冠だと言っています。そして、主にあって、主の再臨と栄化の恵みに与かる望みの信仰に堅く立っているように勧めています(1節)。
しかし、この教会には、福音のために共に戦ってきた婦人たちの間に不調和がありました。パウロは、彼女たちに主にあって同じ思いを抱き続け、教会内が互いに協力し合い、支え助け合うように懇願しています(2節)。
不調和が生じたら、互いはみなキリストの体に連なる一人ひとりであるとの自覚、互いに福音宣教の協力者であるとの自覚、互いは「命の書に名が記されている」との自覚をもって、「主にある信仰」に徹することが大切です。

2.主にある品性  4~9節
主にある信仰によって結ばれる聖霊の実が、主にある品性となっていきます。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と、主にある者は、いつでも、どこでも、どんなときでも喜びが溢れてきます(4節)。そして、その喜び溢れているなら、共におられる主の「広い心」でもって、赦し合い、愛し合うことができるようになります(5節)。
さらに、主にある喜びがあるところには、「神の平和」が信仰者の心と考えを支配します。それを妨げる思い煩いから解き放たれるためには、主なる神への全き信頼をもって、感謝をもって具体的に祈りと願いをささげることです(6~7節、ヨハネ11章41節参照)。このように、御言葉に生きる者と共におられる「平和の神」が、私たち信仰者を楽しませてくださるのです(8~9節)。

恐れと信仰(2009.1.25)

題   : 「恐れと信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章35節~43節
会堂長ヤイロは、娘の病気をいやしていただきたいとの切実かつ緊急を要する求めがあったので、主イエスを信頼して「足もとにひれ伏し」ました(22節)。主イエスこそが、いかなる時にもひれ伏すお方です。

1.信仰を励ますイエス  36節
ヤイロが、自分の娘が死んだとの悲しい知らせを聞いた時、主イエスはそばにいて聞いておられました。それは、ヤイロにとって大きな慰めとなったことでしょう。すかさず主イエスは、絶望的とも思える報告に恐れることなく、神は最善以下のことをなさらないという信仰に立ち続けるようにと、ヤイロを励まされました。
私たちは、神に見捨てられたのではないかという思いに捕らわれることがあります。そこでこそ、私たちは試され、信仰を問われます。その時こそ、十字架を仰ぎたいものです。十字架は、神は私たちを見捨てないという証しだからです。

2.死者をも生かすイエス  41節
主イエスは、死は終わりではなく、主に在っては眠りに過ぎないことを明らかにされました(39節)。主が死を支配されるからです(1テサロニケ4章13~18節)。
そして主は、娘の両親と三人の弟子たちと共に娘がいる所に入られて、「タリタ、クム・・・少女よ・・・起きなさい」と言われて、娘を死から命に呼び戻されたのです。
主イエスを信じるとは、死に直面するその所で、復活の主の命に生かされていることを確認して(ヨハネ11章25節)、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語っておられる主に全てを委ねることです。

3.愛の配慮をされるイエス  43節
主イエスは、奇跡による命の回復をなさいましたが、その後は「食べ物を少女に与えるように」と言われたように、私たちが用いる通常の手段で支えてくださいます。ちょうど、十字架を前にしての愛餐と聖餐、また復活された後に愛餐の時を持たれたのと同じです。
ですから私たちは、主イエスの命に養われ、また愛の配慮をもって育ててくださる礼拝と教会生活を大切にするのです。

信仰の手(2009.1.11)

題   : 「信仰の手」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章21節~34節
ここに登場する「女」は、救い主イエスに触れることにより癒され、健やかな生活を送るようになりました。彼女は、イエスの救いの力に信仰によって与ったのです。
主イエスが、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのは、何に根ざしているのでしょうか。

1.主の恵みに捉えられる信仰  25~30節
この女は、苦悩、ためらい、迷いの中にいました。それは、12年間の病との闘いという肉体的・精神的な苦痛であり、治療のために財産を使い果たした経済的な苦労であり、当時の社会においては汚れた者として受け入れられなかった偏見による苦悩でした。このように、どこにも持って行き場のなかった時に、彼女は一筋にイエスに期待して触れたのでした。それは、イエスが「自分の内から力が出て行ったことに気づ」くほどの触り方でした。
女は、受ける資格も価値もないにもかかわらず、主の恵みに捉えられていたのです。イエスは、それを「あなたの信仰が」と言われたのです。人は、どうしても他の人に知らせることのできない心の一隅を持っています。信仰とは、そこで主の恵みに捉えられることなのです。

2.主の恵みの力に生かされる信仰  30~34節
女が触れることによってイエスの内から出ていった「力」は、彼女を救う力でした。それは、イエスの十字架による罪の赦しの力であり、イエスの復活によって与えられる死に打ち勝つ力です。さらに、様々な苦悩や苦難からも勝利させる力です。
女は、このような恵みの主に対して、畏れおののきつつ、あるがままの自分をさらけ出しています(33節)。ここに、神の前にも、人の前にも過去にとらわれない救われた者の姿があります。
主の恵みの力に対する信仰は、単純かつ純粋であることが大切です。理屈や余計な飾りはいりません。そして、その信仰は深められていくことが大切です。単純さを保ちながら、愛において、物事の考え方において深められていくことが求められます。そのために、私たちは信仰の手を差し伸べ続けていることが必要です。