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いつまでも残るもの(2019.9.15)

宣教題 「いつまでも残るもの」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 1コリント13章13節

 愛の神は、人間として大切なものを見失いつつある私たちに、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と語られて、この大切なものを受け取ってほしいと願っておられます。

1.人生は「信仰」から始めよう 
 聖書の「信仰」という言葉には「真実」との意味が込められています。人としての真の道は、すべてを創造された唯一の神を信じる人生にあります。
私たちが、この宇宙や大自然界の神秘を、人間の存在の不思議さを目の当たりにし、その背後におられる創造主の神の存在を認めて信じることにより、人として真の道を歩みだすことができるのです(イザヤ書40章26節)。

2.信仰は「希望」につながる 
 神を信じる人生には、不思議な希望が伴います。それは、困難に囲まれながらも、輝きを発して生かされるところから生まれる希望です(ローマ5章3~5節)。   
また、死に直面してもなお揺るがない、死をも超えた希望です。
真実な神は、死を乗り越え、突き抜け、永遠の世界にしっかり結びついてこそ得られる本物の希望を備えていてくださるのです。

3.「神の愛」こそが希望を与える 
 困難の壁を崩して進み、死の暗闇を打ち破るために必要なのは、「その中で最も大いなるものは、愛である」と言われる神の愛です。
 神の愛は、独り子イエス・キリストを通して現わされました。私たち罪人のために十字架で身代わりに死んでくださり、罪の赦しを成し遂げてくださったのです。ここに、神の愛があります。この神の愛を「私のため」と受け取るだけです。

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信仰による救い(2019.3.10)

宣教題 「信仰による救い」         宣 教  今田好一牧師
聖 書 マルコ5章24b~34節

わたしたちは、この出来事から、イエス様とはどういうお方なのか、そのことをきちんと受け止め、わたしたちがどう歩むべきかを見て行きたいと思います。

1.不幸な歩みの中にいた彼女の信仰
肉体的、心理的、社会的な苦痛の中にいた女性が、イエス様の話を聞いて、藁をも掴む思いでイエス様のもとに来ました。しかし彼女は、『癒してください』と正面から言うことができなかったが、イエス様の服に触れさえすれば、いやされると信じていたのです。

2.わたしの前に出て来なさい
イエス様の服に触れ癒された女性は人知れず帰ろうとしますが、それでは本当に救われたことにはならないのです。イエス様は、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われて彼女を前に出させ、自らの口ですべてを語らせたのです。恐れをもって神に出会い、自らの口で告白することこそ、人が新しくされるただ一つの道なのです。

3.あるかないかの信仰をも
イエス様は彼女の中にある信仰を見て「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」(34節)と言われました。彼女にどれ程の信仰があったのかは分かりません。しかし、その人に信仰があるかないかを決めるのはイエス様であり、神様です。イエス様は、わたしたちのあるかないかのような頼りない信仰をも、きちんと受け取ってくださるのです。だからこそ、わたしたちは救われたのです。

イエス様は、この女性に言われたように、わたしたちにも、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言ってくださっておられるのです。このお方を信じて、このお方と共に歩ませていただきましょう。

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生ける信仰(2018.10.21)

宣教題  「生ける信仰」           宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ17章1~10節

 信仰とは、「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言われた主イエスの真実に対して信頼することです(5~6節、2テモテ2章13節)。その生きた信仰は、信仰者の歩みの力となり、生き方や考え方と物事の受けとめ方が変わってきます。
1.健全な人間関係を建て上げる  1~4節
 主イエスの救いの恵みに対する生きた信仰は、人々を「つまずかせる」ことのないようにとの配慮と導きを与えてくれます。ところが、誰も「つまずき」を与えないほどに完全な人はいません(1~2節)。そこで、それに気づいた時には、自分自身が主イエスの赦しの恵みに与っているという信仰に徹底することにより、赦す力を持たせていただくのです(3~4節)。
 ここに、人と人の間に働く生きた信仰があります。これこそ、受け継いでいる教会の財産です。

2.神への奉仕を生み出す  7~10節
 仕える僕の心を持つことができるように、主イエスご自身が模範を遺されました(7~8節、マルコ10章45節)。ですから、主イエスのものであるということは、主が命じられたように仕える僕となることです。
 このように、真実な主イエスを信頼する生きた信仰は、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と告白できる人生へと導きます。「からし種一粒ほどの」生きた信仰を持つ聖徒一人ひとりと教会は、さまざまな出来事に対応していくなかで、本当の強さと豊かさを経験していきます。これもまた、教会が受け継いでいる財産です。

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力ある信仰(2018.4.15)

宣教題  「力ある信仰」         宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ2章14~26節

 主イエスの救いに与るのは、どのような善行も必要ではなく、ただ信仰によります
(エフェソ2章8~9節)。その救いに与ったのには目的があり(同10節)、信仰者の生活に変化が起こります。それをヤコブは、力ある信仰として表れると言っています。

1.信仰が生きている  14~19節
 親しみをこめて「わたしの兄弟たち」と語りかけるヤコブは、祝福された信仰者の歩みについて述べています。行いの伴った信仰こそ、生きたものであり、役に立つということです(14、17、20、26節)。それは、信仰と行いが、ひとりの人格の中で一緒になってバランスがとれていることです。
 私たちの行いが、口だけをもってのものではなく(15~16節)、聖霊によって一人ひとりの心に注がれている神の愛をもってなされるときに、その信仰は本物といえるのです(1コリント13章3節)。

2.神を信頼して生きる  20~26節
 信仰によって義と認められた者の歩みは、神を信頼して生きる行いが伴ってきます。それは、アブラハムのように(21~23節、創世記22章参照)、またラハブのように(25節、ヨシュア記2章参照)、確かな神の助けと最善の導きがあるとの信仰のともなった行いです。信仰は行いの原動力であり、行いによって信仰が表され、さらに行いによって信仰がまっとうされるのです(22節)。
 私たちの信仰が、今までより以上に生活の中で行いとなって溢れていくことにより、主イエスご自身とその恵みをさらに豊かに知ることができるという経験をさせていただけるのです。

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信仰による再出発(2017.4.2)

今日の宣教要旨
宣教題  「信仰による再出発」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  創世記22章1~14節 ヘブライ11章17節
アブラハムを祝福される神は(創世記12章2節)、全能の神(17章1節)であり、永遠の神(21章33節)であられます。ところが、それを覆すかのように、彼に信仰の試練を与えられました(ヘブライ11章17節)。彼にとっては、神が約束されたことと(17章19節)矛盾する要求をされたことが理解できなかったでしょう。

1.説明はできないが
アブラハムは、約束の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられたことに対して、自らも納得できない、人にも説明して語る言葉を持たないままで「その場所」に来たのでした。これは、神を信じているのになぜ、神は約束されたのになぜ、といった信仰の土台が揺さぶられるようなことでした。
神の前に試され、扱われ、訓練されつつ前進できるのは、「信仰によって」です。人には説明出来ないことであっても神は何もかも分かっておられます。神はある必要からこのようにされるのです。神は必ず備えてくださるのです。神は後で、試練の中にある者にも他の人にも説明してくださるのです(ヨハネ13章7節参照)。

2.二人は一緒に
「二人一緒に歩いて行った」(22章6節、8節)とは、何と幸いな父と子でしょうか。試練の中で、二人が一緒でないことがあるからであり、一緒であっても前進しないことがあるからです。しかし、二人のうちどちらかが欠けても成り立たない中を歩き続けることができたのは、父の信仰に子が従い、子の信頼に父が励まされていたからです。神は、そのような二人を守り続け、導き、備えられたのです(11~14節)。
私たちは、信仰者としての様々な関わりの中で、アブラハムとイサクであることを知る必要があります。このような神の試みの中あって、なお神を信頼し、神に従うことを通して、神は祝福され、勝利を与えてくださるのです(22章16~18節)。

神の言葉を聞いて(2016.11.12)

宣教題  「神の言葉を聞いて」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章27~32節

ここには、一つの主題ついて語られています。神の祝福を受けて歩む者の生涯の源となっているのは、「神の言葉」であるということです。私たちは、その神の言を聞いて、どのような信仰をもって応答していくのでしょうか。

1.服従の伴う信仰  27~28節
主イエスが語られた御言葉と成された御業の素晴らしさを讃えるある女が、主イエスを宿し、養った者の幸いを語っています。ところが主イエスは、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と言われました。つまり、神の言葉を心に蓄え、それがいつも生活の中心にあり、基準となっている者が幸いであることを明らかにされたのです。
それは、神の御心に生きることであり(ルカ8章21節)、御言葉に服従する者の幸いを意味しています(同1章38節)。つまり、神の言葉を聞く者が、心からの畏れと尊敬をもってそれに従い、それにふさわしく生きる幸いを教えておられるのです。私たちは、神の言葉を聞いて、それに従うか、従わないかの一点にかかっているのです。

2.心砕かれる謙虚な信仰  29~32節
当時のユダヤ人の多くは、主イエスが本物の救い主であるかどうかという「しるし」を求めました。それに対して主イエスは、ヨナの説教の言葉を聞いて悔い改めて救われたニネベ人々のことと(29~30節、32節)、ソロモンの知恵の言葉を聞きに来た南の女王のことを述べつつ(31節)、彼らよりまさる主イエスが語られる神の言葉を聞くことが最大の「しるし」であることを語られました。このことを通して主イエスは、神の言葉を心砕かれて聞き、犠牲を惜しまないで謙虚に聞くことが大切であることを教えておられるのです。
神の言葉は、心砕かれる謙虚さをもって聞かないと、私たちの心に響いてきません。魂に語りかけられる神の言葉の力強いことを経験する特権にあずかりましょう。

十字架が生み出す祝福(2016.3.20)

宣教題  「十字架が生み出す祝福」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ガラテヤ3章6~14節

十字架を麗しいと思う。しかし、二千年前、十字架は忌まわしい、呪われたものであった。呪いの十字架が麗しいものへと変わったのだ。それには理由がある。
天地を創造された神は、人を通してご自身の祝福を世界に満たそうと願われた。人はそれを拒絶した。しかし、神はそこからの回復の道を計画された。アブラハムとその子孫イスラエルを祝福し、彼らを通して世界のすべての民を祝福しようとされたのだ(8節)。そのために、イスラエルが神とともに歩み、世の光として生きることができるように律法を与えた。ところが現実はどうだろうか。神の祝福は世界の民には及ばなかった。むしろ、祝福の民であるイスラエルは呪いの下にあって苦しんでいた。「呪い」という大きな重荷が壁となって祝福を止めていた。そうであるのに、人々はいまだに「呪い」しか生み出さないものを慕い求めていた。

二千年前の受難日、神はこの「呪い」そのものを用いられた。ご自身の独り子であるキリストを十字架につけられたのだ。キリストは呪いそのものとなられ、イスラエルの上にある呪いと世界中の呪いをひとり、その身に負われた(13節)。キリストが重荷を負われ、取り去られたので、神の祝福がイスラエルから世界へと流れるのをとどめる壁が取りのけられた。その結果、神の霊が神の民の上に留まり、神の祝福が異邦人へと広がっていった(14節)。

本当に祝福は広がっているだろうか。私の目の前には、呪いが満ちているばかりではないだろうか。どうしたら、アブラハムの祝福が私にまでの及ぶのだろうか。アブラハムと同じ信仰に生きることによってである(7節, 9節)。神がなされたこと、そしてこれからなされることへの信頼、「呪いの十字架」によってあらゆる呪いの重荷が取り去れたと信じる信仰によってである。今までの方法を繰り返し用いても、律法がそうであったように、呪いをもたらすだけである。神がなされたこと、そしてこれからなされることに信頼する。信仰とは、無理やり「信じます」で生まれるものではない。祈り求める者に神が与えてくださるものだ。そして、アブラハムの信仰が与えられたとき、呪いの十字架は、祝福を生み出す麗しい十字架となる。

まっすぐに生きる(2016.2.7)

宣教題  「まっすぐに生きる」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  ルカ9章37~45節

主イエスが、山の上で変貌されるという高く引き上げられた世界から下りてこられると、途方にくれている群衆及び悪霊に取りつかれた子とその父親の苦しみと悲しみの中に生きる世界が待ち受けていました。主イエスは、そのような状態を「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われて、神の偉大な御業をなされました。主イエスは、どのような方なのでしょうか。

1.顧みられる主  37~40節
「よこしまな時代」とは、主イエスに対してまっすぐに生きていない曲がった時代です(41節)。罪や汚れそして弱さと言ったものを持っている人間は、神との関係が曲がって不信仰な状態にあるのです。そのような中から救われて、神との関係がまっすぐにされる必要があるのです(使徒言行録2章38~41節)。
主イエスは、「見てやってください」(38節)と懇願する父親に対して、「あなたの子供をここに連れて来なさい」(41節)と招かれました。このようになさる主イエスは、曲がった不信仰な状態にある者に目を留めてくださり(ルカ1章48節)、惜みなくそして限りなく顧みてくださる方です。

2.忍耐し担われる主  4Ⅰ~45節
さらに主イエスは、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました(41節)。これは、付き合ってはいられないと、投げ捨てておられるのではありません。忍耐して、支え、持ち運ばれるという意味で言われたのです。そのようにして、主イエスは子供を癒して回復させられたのです。それを見て驚く人々に、主イエスは再びご自身の受難の予告をされました(44節)。
主イエスは、十字架の身代わりの死によって曲がった時代を変え、そして人を担い、持ち運び救われる方です(イザヤ46章3~4節)。ですから、神の前に曲がった歩みをしている私たちは、まず主イエスの前に膝をかがめて砕かれ悔いるとき、まっすぐに生きる者とされるのです。そのように生きる者の群れが、教会です。

仰ぎ見て生きよ(2015.10.25)

宣教題  「仰ぎ見て生きよ」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章20~25節

私たちの本当の生き方は、この一日を生きるということから始まって、大きいことばかりでなく、小さいことにも、ありとあらゆることを主なる神に信頼し、信じ仰ぎ見て生きることです。それを忘れて生きるとしたら、それが罪なのです。信仰とは、仰ぎ見て生きることなのです。

1.わき見しないで、キリストを!
ペトロは、主イエスと対面して、前向きに向き合う人生を始めました(15~20節)。
ところが、「ペトロが振り向くと」、主イエスが愛しておられた弟子がついて来ていました。そして、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いかけています。 ここに、自分自身と他者にこだわり続けているペトロの姿があります。それは、罪を犯した途端に、主なる神の顔を避けて隠れた人の姿でもあります(創世記3章参照)。
私たちは、この罪を赦してくださるために十字架にお架かりくださった主イエスを仰ぎ見て生きるのです。そして、主イエスがペトロだけでなく主が愛しておられた弟子に「生きている」ことを望まれたように、主イエスとその御言葉と愛にとどまって生きる者とならせていただきましょう(15章5節、7節、9節)。

2.達成感よりも使命感を!
ペトロにとっては、主が愛しておられた弟子が気になる存在でした。それをご存知であった主イエスは、ペトロに対して「あなたは、わたしに従いなさい」との使命に生きるように招かれたのです。人は、この使命感がはっきりすると、それを成し遂げていく達成感や生きがいをもって生きていくことができます。
このように、私たちには、主の弟子として、主の証人として歩む共通の使命が与えられています(22節、24節)。私たちは、主イエスを仰ぎ見つつ、各々の持ち場に遣わされて生きる者となるのです。「わたしに従いなさい」との主イエスの招きに応答させていただきましょう。

信仰の報酬(2015.8.23)

宣教題  「信仰の報酬」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア14章6~15節 ヘブライ11章1節

「信仰の報酬」は、終わりのさばきの時に、主からいただくものとは限らない。今、このとき、私たちに与えられるものでもある。
約束の地へと出発したイスラエルは、カデシュ・バルネアから十二人を探索のために送った。よい地という報告を彼らは携えてきたが、大きな町とアナク人の子孫がいるため敗北するだけだ、と十人が語り、民の心を挫いた。しかし、カレブとヨシュアは、主が与えてくださる、と進言した。民の不信の罪のため、主はイスラエルに40年の放浪を与え、カレブとヨシュアには約束の地での嗣業を約束した(民数記13〜14章、申命記1:19-46)。

1. カレブの信仰
45年が過ぎた。85歳になったカレブはヨシュアに嗣業の地を願った(ヨシュア14:6-12)。彼のことばに彼の信仰の姿を見る。まず、45年前、カデシュ・バルネアで主に従いとおした姿(14:7-8)。次に、主が約束通り、45年間、生きながらえさせてくださったと信じ続けている姿(14:10)。そして、これからも主が共にいてくださって、アナク人を主が追い払ってくださるという確信(14:12)。神への信頼と、神への信頼から生まれる神への忠実さに生きている。「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ11:1)そのものである。

2. カレブへの信仰の報酬
カレブに主は報酬を与えられた。45年経っても変わらないカレブの肉体的な力(14:11)や彼に与えられる嗣業の土地(14:13)。しかし、これらはだれに対してもそうである訳ではない。年をとれば、弱るし、望んでいたものが必ず与えられる保証はない。しかし、もう一つの主からの報酬があった。45年間、一貫して変わらない彼の信仰そのものである。45年間、主はカレブに信仰を与え続け、年老いてなお、その信仰に生かさせている。
自分の信仰がもっと強くなったら、と自分で自分の信仰を強くできるかのように語る。しかし、信仰は信仰の報酬として神から与えられるものである。与えられたものに生きる毎に、さらに与えられる。だからこそ、偉大な与え主である方を覚え続けたい。

力尽きる時に(2015.8.9)

宣教題  「力尽きる時に」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章40~56節

ここでは、二つの話しが一つの物語として、引き離すことのできない共通の事柄が語られています。すなわち、自分たちの力は尽きたと思える病と死との戦いの連続の中にあって、なお、主イエスの御言葉を聴き、主イエスを信じ仰いでいます。信じるとは、どういうことなのでしょうか。

1.主イエスに任せる  40~42節、49~56節
人々にとって、主イエスの魅力は、このお方は必ず自分たちの願いを聴き届けてくださるお方であるということでした。会堂長ヤイロは、死にかけている一人娘を救いたいとの切実かつ緊急の必要から、「イエスの足もとにひれ伏した」のでした。その行為は、主イエスの権威にすべてを任せるとの信仰の表れでした。
ところが、主イエスが向かわれる途中で娘は死んだとの知らせが届きます。その報告を受けられた主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は救われる」と語られました。そして、生死の権威を手中に治めておられる主イエスは、娘を死の状態から解き放たれたのです。
わたしに任せなさい、と招かれる主イエスこそ、私たちの望みです。

2.主イエスを告白する  42~48節
12年間も出血が止まらなかった女性は、家庭や社会から隔離され、ユダヤ人の礼拝にも出席できませんでした。彼女の苦痛と悩みは、望みを失わせるものでした。
ところが、彼女が主イエスに近づき、「後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」のです。「わたしに触れたのはだれか」との主イエスの問いに、彼女は「震えながらひれ伏し」、事の次第を皆の前で言い表わしました。そして、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」との救いに与かる新たな信仰の歩みを始めました。
主イエスをひそかに信じているだけでなく、そのことを公に言い表すことが求められているのです。

信仰の一歩を(2014.8.24)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ19章38~42節 、ローマ10章9節

ここに登場する「アリマタヤ出身のヨセフ」と「ニコデモ」は、ユダヤの社会において指導的な立場の人たちでした。二人に共通することは、これまで「イエス の弟子」であることを公然明白にしてこなかったことでした。そんな彼らが、主イエスが十字架に死なれて葬られることに立ちあった際に、大きく変えられたの でした。

1.人を恐れないで
「ユダヤ人を恐れて」とあるように、人は他人の顔や評判に恐れやすいものです(箴言29章25節)。こうした恐れは、単に弱いからという以上に、その心 の向きがゆがんでいるところから生じるものです(ヨハネ12章42~43節)。そこには、神からの誉れをいただこうと追い求めるよりは、人からの誉れを愛し追い求める心があるのです。それは、神を信頼していないことでもあるのです。
こうした人が恐れる姿は、神の御言葉に背いて、神からその身を隠した人類の最初の人アダムとエバにも見られるものでした(創世記3章10節)。慈しみ深 い神は、そのような人に対して、「あなたは何をしたのか」と問われないで、「あなたはどこにいるのか」と御自身との交わりの回復へと招いておられます(同 9節)。

2.大胆にキリストを信じよう
主イエスは、何と慈しみと慰めに満ちておられるお方でしょうか。弟子たちを最後まで愛し抜いて(ヨハネ13章1節)、彼らを守られました(同18章19節以下)。
ひそかな主の弟子であったヨセフとニコデモは、主イエスが十字架に死んで葬られるに際して公然と主の弟子であることを言い表わしました。彼らは、主イエ スの教えや数々の奇跡によってではなく、十字架の死を通して主イエスに引き寄せられ、用いられることになったのです。
宗教心は信じる態度を大事にしますが、信仰心は信じる対象を大事にします。聖書は、主イエスを信じ、信頼する信仰心をはっきりと持ち、それを公に言い表 すように促がしています(ローマ10章9節)。そうすることによって、人々に影響力を持ち、神の祝福を及ぼすことができるようになるのです。

生きた御言葉信仰(2014.8.10)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ 7章1~10節

ユダヤ人の長老たちは、「百人隊長」のよい行いを見て尊敬しました(4~5節)。しかし主イエスは、彼の信仰を見られて高く評価されました(9節)。このように主イエスを感心させ驚かせた信仰こそが、生きた御言葉信仰です。

1.御言葉に対する信頼を伴なう信仰
百人隊長は、病気で死にかかっている部下を助けに来てくださるように主イエスに懇願しておきながら、その後で来てくださることを遠慮する発言をしていま す(1~6節)。この矛盾するような発言をしたのは、憐れみ深い主イエスに対する彼の信頼から生じたものと思われます。
続いて、百人隊長が「ひと言おっしゃってください」と主イエスに語ったのは、主が語られる御言葉の権威に対する心からの畏れと尊敬を持っていたからであり、御言葉の力を信じ切った主への信頼があったからです(7~8節)。
御言葉信仰とは、どんな時にも、どんなことにも、どんな人にも、御言葉は必ず答えを持っているということを信じる信仰です。御言葉の重みを知ることが、御言葉に対する信頼につながるのです。

2.御言葉に対する服従を伴なう信仰
百人隊長は、御言葉をいただき、そして助けていただければそれでよいという以上の信仰を言い表わしています。すなわち、助けていただいた以上は、次に主 イエスが何を命じられても、その御言葉に従おうとしました。主イエスは、彼の信仰に感心し驚かれ、「これほどの信仰」と言われたのです(9節)。そして、 「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8章13節)と励まされたのです。このように、主イエスが喜ばれる信仰は、御言葉に対して服従 する信仰です。
御言葉信仰は、主イエスが評価してくださる信仰であるからこそ大切なものなのです。それを単なるお題目に終わらせてはなりません。実質の伴なった、生き た御言葉信仰を持たせていただきましょう。「ひと言おっしゃってください。そして」の後に、私たちは何と応答するのでしょうか。

真実で動かされないもの(2014.8.3)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録 28章11~16節

パウロは、「ローマでも証しをしなければならない」(23章11節)との御言葉を主イエスからいただいてから、災難また災難を乗り越えて、ついにローマに 到着しました。そこで彼は、「神に感謝し、勇気づけられた」(15節)のでした。ここには、復活の主によって、真実で動かされないものをいただいている者 たちの証しがあります。

1.復活の主の力を共に知る信仰
難破したパウロ一行は、マルタ島に上陸して三か月を過ごした後、シチリア島のシラクサ、続いてイタリア半島のレギオン、そしてプテオリに入港しました。 そこでは、パウロたちは『兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した』のでした(14節)。この時、聖日礼拝を含む日々を主にある信仰の交わりを深 め合い、祈りと御言葉を共にしたことでしょう。また、パウロたちがローマ近くまで来ていると聞いたローマ在住の信徒たちは、彼らを心から歓迎をしたのでし た。ルカは、その時のパウロを「神に感謝し、勇気づけられた」と語っています。
この感謝と勇気は、復活の主の御言葉から、また復活の主が共におられるとの信仰からくるのであり、聖霊の力によるものでした。周囲が揺れ動く中で、私たちも、真実で動かされることのない復活の主の力を共に知る信仰を抱き続けたいものです。

2.復活の主に共に仕える気概
ルカは、パウロたちがローマに到着したこと、そこで囚人でありながらも伝道する自由を与えられた不思議な摂理を淡々と語っています(14、16節)。そ う語られている背後には、パウロたちの意に反するようなことが起こっていたにもかかわらず、その意に反した事柄の中で復活の主が何をなされておられるのか を汲みとって、復活の主に仕え、宣教の業に勤しむ彼らの気概がありました。
私たちは、その信仰生涯で経験する病や事故、また人々の反対や批判といった困難と思われることも最善に用いなさる復活の主に共に仕える気概をもたせていただき、その自覚に生きることができるよう祈り求めていきたいものです。

元気を出しなさい(2014.7.6)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録27章13~38節

パウロのローマ行きという神の御計画は変わらず、度重なる困難を経て実現されていきました(13~20節)。彼は、暴風で荒れ狂う海に漂流する船の中で、神の必然を信じつつ、同船者に「元気を出しなさい」と語り続けたのでした(22節、25節)。

1.愛の励ましをもって  21~26節
暴風が激しく吹きすさぶので、「ついに助かる望みは全く消え去ろうとしていた」(20節)時、同船者たちはパウロの救いの言葉を聴くことができたのでした。彼は、絶望と無力のどん底にある彼らに、「元気を出しなさい」と励ましたのです。
パウロは、なぜこのように並はずれの寛容と愛をもって人々を励まし、助けようとしたのでしょうか。彼がローマに行って福音を語ることは、神からの必然的 使命だったからです。神は、航海中の全ての人を彼に任せておられたからです。神が彼に告げられたことは、必ずそのとおりになるとの御言葉信仰に立っていた からです。彼は、死をも乗り越えさせる復活信仰に立って、最後まで諦めなかったからです(24~26節)。このように、いかなることが起こったとしても、 それを神の恵みへの応答のチャンスとしようという捉え方で歩む生き方が求められます。

2.愛の連帯感をもって 27~38節
漂流中の船か浅瀬に乗り上げようとした時、船員たちは乗船員を助けようとしないで逃げ出そうとしたのをパウロは阻止しました(27~32節)。そして、 すでに全員が助かると語っていたパウロは(22~26節)、疑心暗鬼になっている乗船員に、信仰の確信に立って元気づけたのです。それは人々の心を奮い立 たせました(33~34節)。
さらに、復活の主イエスが共におられ、人々に元気を与えてくださることを分かち合うために、パンを裂いて共に食しました。自分たちだけ助かろうとした船員 を排除することなく、愛の共同体として受け入れ合ったのです(35~37節)。そこにいた全ての人が、同じ苦難を経験した者として、愛の連帯感の中に導か れたのです。
このように、神の御業は、日々に御言葉を聴き従いつつ歩む信仰者を通して展開されていくのです(23章11節、27章23~24節)。