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主の憐れみ

オワコンにワンチャン(2020.10.25)

聖書

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。(ルカ7章13節)

礼拝音源(25.9MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マルコ1章15節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 46編1~12節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ7章11~17節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 155 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「オワコンにワンチャン」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 474 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1. 題の解説
オワコンとは、終わったコンテンツの略称です。コンテンツとは小説や映画などの内容のことで、ここでは人生のことです。ワンチャンとは、元々は英語で、もう一回(ワン)チャンスがある。という事です。スポーツでピンチになったときに、励ますときに使っていたのが元のようです。

2.一人息子を無くす悲しみ
ある母親の一人息子が死にました。家族、特に若い年齢の家族が負傷したり、亡くなったりすることは大変な悲しみです。亡くなって間がない葬儀のときには、将来の心配をするどころではなく、なぜこうなってしまったのか、回避する事はできなかったのかと悲しみが満ち溢れているでしょう。その悲しみを知り、イエスも父なる神も放っておく事はできませんでした。なぜなら、イエスは一人息子として十字架の死に向かっていました。一人息子を亡くすことは、他人ごとではなかったからです。

3.悲しみをわかって下さる主
この世に命をもって生まれてきたものは、誰でも死を迎えます。死は私達が避けて通ることのできない、人生最大のオワコンです。この悲しみをわかってくださる主は、私たちに救いの手を差し伸べ、もう一度命を与えて下さいます。その力がイエスにある事を証明しているのが、一人息子を起き上がらせた事に他なりません。私達の人生は、死でオワコンではありません。主と共に歩むものには、いつでもワンチャンがあります。

 

暗闇に立つキリスト(2020.06.07)

聖書

「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(ルカ22章53節b)

礼拝音源(37MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 使徒言行録1章8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 84編1~13節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章47~62節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 288 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「暗闇に立つキリスト」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
6月誕生者祝福 ローマ14章17節
賛  美 197 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスは、今は暗闇の支配する時であると語られました(53節b)。それは指導者たちだけのことでなく、イスカリオテのユダとペトロの内を暗闇が支配していることをも意味していました。そこに、主イエスは立ち続けておられたのです。

1.愛が崩される中に  47~53節
主イエスは、ユダが近づいてきたとき、深い悲しみをもって相対されました(47~48節)。彼の主イエスに対する裏切りには、愛を装って背き、友情を装って売り渡すという暗闇が支配していました。そのところに、サタンがつけ込んできました(1~6節)。
主イエスは、最後の晩餐に際しても(ヨハネ13章21~27節)、ユタが裏切る段に至っても「友よ」(マタイ26章50節)と呼びかけて、極みまで愛し抜かれました。
愛が崩れてしまっていく中にあっても、そこに主イエスは立ち続けておられます。

2.憐れみにすがる中に  54~62節
ペトロは、これまで懸命に主イエスに従い続けてきましたが、主イエスが捕らえられるや、「遠く離れて従った」のです(54節)。彼は、そこから道を踏み外しました(55~56節)。ついには、主イエスを三度まで否認する有様です(57~60節)。
この時ペトロは、変わらない主イエスのまなざしを思い起こします(61節、ヨハネ1章42節)。そして、悔いの涙を流します(62節)。憐れみに富んでおられる主イエスは、その悔いの涙に対して同情で終わることなく、十字架と復活、続くペンテコステの聖霊の恵みを通して、新しい任命と望みを与えられました(1ペトロ1章3~5節)。
主イエスは、ご自身の憐れみにすがり続ける者をこのように導かれるのです。

今という時の間に(2018.9.23)

宣教題  「今という時の間に」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ16章19~31節

 主イエスが死後のことでリアルに話しておられるたとえ話は、この箇所以外にはありません。ただし、主イエスがここで問いかけておられることは、今と言う時に一人ひとりが神の前にどうあればよいか、ということです。

1.主の憐れみに支えられていることです  19~26節
 ここに、二人の人が登場します。一人は「金持ち」で、お祭り騒ぎの日々を陶酔するように過ごしていました。これは、自分の豊かさを喜び楽しみ、神の言葉を聞き過ごし忘れてしまっている人の姿です。彼は、死後に陰府に行って、もだえ苦しんでいます。一方「ラザロ」という「貧しい人」は、「アブラハムのすぐそばに」すなわち一番安心できるその膝に連れて行かれました。
 この二人の違いは、ラザロはその名の通り、神の憐れみよって生きていましたが、金持ちはそのことを忘れていたのです。私たち一人ひとりは、神の憐れみに支えられている「ラザロ」であることを心底知る必要があります。

2.主の御言葉に支えられていることです  27~31節
 陰府で苦しむ金持ちは、自分の兄弟が同じ苦しみに遭うことがないようにしてほしいと、アブラハムに嘆願しています。それに対してアブラハムは、神がモーセや預言者を通して語られた御言葉を信じることが大切であると言います。納得できない金持ちは、死んだ者の中から生き返った証人が兄弟たちの所に訪れてくれなければ難しいと語っています。
大切なことは、本気で御言葉を信じているかということです。御言葉に支えられ続けてこそ、私たちの人生の生き方と永遠をどこで過ごすかが決まるのです。

聖書朗読(1.3MB)

メッセージ(9.6MB)

憐れみに生きる(2016.7.3)

宣教題  「憐れみに生きる」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章25~37節

この譬え話に登場する祭司やレビ人は、旅の途中で傷ついた人を見つけながら避けて通りました。他方サマリア人は、傷ついた人の隣人になって、その重荷を負い愛のわざをしています。私たちが、憐れみに生きるとは、どういうことなのでしょうか。

1.憐みの心に生きる
律法の専門家は、主イエスと問答しています(25~29節)。彼は、永遠の命を継ぐのは、神への愛と隣人への愛に生きることであると知っていました。続いて主イエスがそれを実行するように言われたことに対して、彼は「では、わたしの隣人とはだれですか」と自分を正当化するように問い返しています。
それに答えるように主イエスが語られた譬え話は、誰が自分にとって隣人かではなくて、助けを必要としているその人にとって誰が隣人なのかを問われているのです(30~35節)。「その人を助けた人です」と答えた律法の専門家に、主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました(36~37節)。今日まで、このような隣人を憐れむ心をもったグッド・サマリタン運動が展開されてきました。

2.主の憐れみによって生かされる
私たちには、祭司やレビ人を非難できない現実があります。人の痛みを察する想像力の貧しさ、愛の思いの貧しさを知っているからです。
しかし、私たちは、神を愛する前提として、神に無条件で愛されていることを知っています。主イエスの中に神の愛が明らかにされていることを見聞きしています(10章23~24節)。この譬え話に登場する憐れみに生きるサマリア人こそ、主イエスご自身を表していると言えます。
主イエスの十字架における無限の愛によって、私たちは救われたのです。ですから私たちは、主イエスの憐れみに生かされて、限りある仕方で憐れみに生きる者にされるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」と聴き続けるのが教会です。

祝福の時と場(2013.12.29)

宣教題  : 「祝福の時と場」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 1テモテ 1章12〜17節

パウロは、自らの信仰の歩みを振り返りつつ、主イエスの恵みに対して深い感謝をしています(12節a)。それは、主の憐れみによって、自分が造り変えられ、造り変えられ続けている祝福の時と場を感謝しているのです。祝福の時と場とは、私たちにとってどのようなことなのでしょうか。

1.憐れみに与った時と場
主イエスは、罪人を救うために、世にまで来てくださいました(15節a)。パウロは、キリスト教撲滅運動の中心人物で、キリスト教会を潰し回った罪人でした(13節a)。しかし、主はそんなパウロを「憐れみ」、ご自身の救いに与らせてくださいました。
神は、パウロが「信じていないときに知らずに行った」ということも、罪は罪として死によって罰せられます。しかし、そうした知らないで行ったことも、主イエスの十字架による贖いによって赦しを与えていてくださるのです(ルカ23章34節)。それこそが、確かな十字架経験です。何という主の憐れみでしょう。
私たちは、この主の憐れみに与った時と場を忘れないようにすることが大切です。

2.憐れみを深く知る時と場
パウロに対する主イエスの恵みは変わることなく、それに信仰と愛が加わって強い確信に至っています(14節)。しかも、彼は、忠実な主の仕え人として主の働きに加わるものとされました(12節b)。そうした中にあっても、彼は、「わたしは、罪人の中で最たる者」との深まりゆく罪意識がありました。彼は、そんな自分を主が「憐れみ」続けていてくださることを深く知る経験をしていったのです。そして、彼は、主の憐れみと忍耐のゆえに、永遠の命に与る者とされる見本であることを告白し続けています(16節)。
私たちは、その信仰の歩みや姿勢また奉仕において、徹底して主の憐れみの見本であることを知って、いつも感謝したいものです。私たちは、主の憐れみなくして生きられないゆえに、主を讃えるのです(17節)。

それでも主は見捨てない(2013.9.29)

宣教題  : 「それでも主は見捨てない」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ホセア書1章1節~2章3節
必ず裏切ると分かっている人と結婚することができるだろうか。紀元前8世紀、繁栄に沸く北王国イスラエルに住むホセアに、主は「淫行の女をめとれ」(1:2)と命じた。妻から生まれる子どもたちを自分の子として受け入れるようにも命じている。それを実際に行ったホセアは、なんと愚かだろうか。どれほどの痛みを経験しただろうか。ホセアの愚かさと痛みは、イスラエルの神でありつづける主の愚かさと痛みである。イスラエルは、古代から幾度となく血が流されてきたイズレエルの地で、また流血を繰り返している(4)。主を捨て、武器や偶像を頼っている(2、5)。契約によって「淫行の民をめとっている」のは他でもない、イスラエルの神である主だ。

1.だから、主は責任を問われる
ホセアは、結婚という契約のゆえに、自分を裏切った妻にその責任を問える。主も、自分を裏切ったイスラエルの責任を問う。だから、一人目の子、イズレエルの名にちなみ、流血の罰をイスラエルに下す(4)。二人目の子、ロ・ルハマの名にちなみ、イスラエルにあわれみをかけることはせず、その罰をゆるさない(6)。三人目の子、ロ・アンミの名にちなみ、イスラエルはもはや主の民ではなくなり、主はイスラエルの神ではなくなる(9)。自分たちを生み出した主との関わりが切れ、イスラエルはすべてを失う。イスラエルの王家はその支配を終える(4)。すべてが止まる。

2.それでも、主は見捨てない
これほどひどいイスラエルなのに、それでも、主は見捨てない。すべてが止まったのは回復のためである。その後、イズレエルが栄光の日となり、イスラエルが主の民となり、その上に憐れみが注がれる(2:2-3)。それは、アブラハムとの契約のゆえ(創世記22:17)ダビデとの契約のゆえである(2サムエル7:16)。
ホセアとよく似た名前のイエスも、「淫行の女」、取税人、罪人、娼婦の所へ行かれた。そして、その出会いを通して、彼らは「アブラハムの子」(ルカ19:9)へと回復された。主は見捨てない。だから、裏切り者にも希望がある。

分かち合う喜び(2009.2.22)

題   : 「分かち合う喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 6章30節~44節
主の弟子たちは、当初「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」(52節)状態でしたが、神の国の福音に与って後は、驚くべき喜びの出来事となったのです。それは、四福音書が共通して証言するほどに、忘れ難い出来事でした。

1.先行する主の憐れみを原点として
主イエスが、弟子たちに人里離れた寂しい所へ退くように勧められたのは、伝道旅行から帰ったばかりの彼らに休息が必要と判断されたためでした。
そこは、主イエスご自身が祈りまた憩われた場所であり、同じように弟子たちにも祈りと憩いを与え、彼らの刷新の場にしようとされたのです(30~32節)。ここに、主イエスの行き届いたご配慮があります。
ちょうどその時、主イエスは、飼い主のいない羊のような群衆のために、時の過ぎるのも忘れるほどに彼らの魂を導き養おうとされました(33~34節)。しかも、彼らの肉体のことまでも配慮されています(36~37節)。このように主イエスは、人々に対する深い同情のゆえに憐れみを注がれるのです。
私たちは、主イエスが深く憐れまれて顧みていてくださることを覚え、この原点に立ち帰り、また立ち続ける一人ひとり(教会)でありたいものです。

2.主の憐れみの業を担うことによって
主イエスは、無頓着な態度をとる弟子たちに対し、ご自身の憐れみの業の中に引きずり込もうとされました(35~40節)。五つのパンと二匹の魚を取られた主は、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」、次いでパンと魚を群集に分配されました(41~44節)。
男性だけで五千人という人々を満腹させ、なおかつ多くの残りが集められたとの奇跡は、人間の知恵で説明できませんが、それを信じることができます。
主イエスは、この憐れみの業を弟子たちに担わさせられました(37、41節)。このことを通して、弟子たちは、自分の力ではできないという無力さを知らされるとともに、主が恵みの器として自分たちを用いてくださるという信仰の学課を学びました。
私たちは、命のパンであるキリストを受け入れています(ヨハネ6章35節)。このお方を分かち合う喜びに与らせていただきましょう(同27節)。

主のあわれみ(2008.6.15)

題   : 「主のあわれみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章40節~45節
聖書が語る「憐れみ」は、主なる神の言動の根幹をなしているご性質で、はらわたが痛むほどに心動く同情であり、激しい愛そのものです。「イエスが深く憐れんで」くださったことにより、何がもたらされたでしょうか。

1.主イエスの謙(へりくだ)りのみわざがもたらされた
「重い皮膚病」は、潜伏している病で、それを覆い隠そうとするものでした。肉体をむしばむだけでなく、社会から隔離され、いやしめられていました(レビ13章45~46節)。その病を宣言するのも、また清められたと宣言するのも祭司でした。
この病を患う人が、主イエスの憐れみにすがって、近づきました。それに対して主イエスは、「手を差し伸べてその人に触れ」、ご自身の心として清めるみわざをなされ、回復させ、本来おるべきところにお返しになられたのです。
人間は自分自身の真相を覆い隠そうとする罪深さがあります。そんな罪人に触れて罪そのものになってくださった主イエスこそ、十字架の血潮によって、その罪を赦し、きよめてくださるお方です。このようにして、憐れみの主が謙ってくださったのです。

2.私たちに謙(へりくだ)る祈りがもたらされる
重い皮膚病を患っていた人には、最初から明確な信仰の姿勢がありました。謙ってひざまずき、「御心ならば」と祈り願うのでした。それに対して、主イエスは「よろしい」と、彼の真実な信仰の姿勢を見られて、きよめるわざをなされました。
このような謙る信仰の姿勢は、世々の信仰者たちが貫いてきたことです(1テモテ1章12~17節参照)。
果たして私たちは、自分自身が神の憐れみを受けるべき者であるということを、どれ位真剣に受け止めているでしょうか。また、自分がどれほど罪と汚れに満ち、どれだけ神を侮り、神を畏れず、神をないがしろにしてきた者であると自覚しているでしょうか。信仰とは、ひたすら神の憐れみを求めて生きることです。主イエスの十字架でこそ、神の憐れみに触れさせていただくことができるのです。私たちは、どこまでも憐れみの主の後に従って行くことが大切です。