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恵みによる飾りを(2018.5.13)

宣教題  「恵みによる飾りを」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章7~11節

 主イエスは、「へりくだる者」を祝福され、その信仰の歩みに恵みによる飾りを装させてくださいます(11節)。

1.主イエスの前に低くされる 
 ここにある婚宴の席での席順のたとえ話は、礼儀作法の美徳や利口な処世術を教えているのではありません。ここで主イエスが求められていることは、人が自分のうちに高められるものは持ち合わせていないことを知って、真に低くされていることです。そこで見えてくるものは、十字架に死んで復活された主イエスの救い恵みの豊かさです。この主イエスの謙遜が私たちを救いに導き、主イエスの救いが私たちを謙遜へと導くのです。
 このように主イエスの前に低くされることにより、主イエスの心をもって他者を尊敬し、信頼する関係が生まれてくるのです(フィリピ2章3節)。

2.主イエスによって高められる 
 「へりくだる者は高められる」ようにされるのは、人がとても及びもつかないほど高く、そして聖なるお方である主イエスご自身です。この主イエスが、心砕かれて、へりくだる者と共にいて、命を得させて、生かし続けてくださるのです(イザヤ書57章15節)。
 この主イエスの恵みの中に生かさている時に、その恵みの高さ、大きさを見させてくださり、「低くされ、へりくだる者が高められる」ことを経験させてくださいます。ここに、主イエスにある特等席があります。一人ひとりは、この恵みの特等席に招かれているのです。

聖書朗読(0.4MB)

お祈りとメッセージ(11.5MB)

キリストの心(2008.9.7)

題   : 「キリストの心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章 1節~11節
「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(5節、文語訳聖書)と、キリストと共に、キリストのために生きる者は、キリストの心を大切にするように勧めています。その心は、「へりくだって」とあるように(3節、8節)、謙遜な心です。これこそ、私たちが受け継いでいく信仰のいのちです。

1.キリストの謙遜が私たちの救い
キリストの心の中心は、キリストの愛です。キリストの愛の中心は、キリストの謙遜です。真の神であられるキリストが、人となられて罪以外の全てのことを経験してくださり、その地位も立場も無にして仕えてくださいました(6~7節)。その極みが、十字架の死に至るまで従順であられたことです(8節)。
主イエスは、十字架という唯一の目的のために従順であることを学びつつ、従い通されました。これによって、私たちの救いの源となられたのです(ヘブライ5章8~9節)。
父なる神によって最も高く挙げられたキリストこそ、主と告白され、全ての被造物によって礼拝を受けられ、讃えられるべきお方です(9~11節)。

2.キリストの救いが私たちの謙遜
このキリストの謙遜こそが、パウロがフィリピ教会に対して切願した一致の土台でした。さらにパウロは、一人ひとりの信徒がキリストの愛と慰めと恵みによって霊性を整えられ、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志しが一つになるようにと切願しています(1~2節)。
そのために大切なことは、キリストの救いのゆえに、自分優先ではなくて、キリスト優先を貫くことです(3~4節)。そこでは、他者が生かされ、教会が生かされ、神の栄光が現されるために、自分の主張を撤回し、自分の利益を捨てることが求められます。キリストと同じように、謙遜になって従順を学び続けることによって、真に他の祝福の源となることができるのです。
謙遜であられるキリストが、私たちの内に力強く働かれ、そのキリストに生きていただくという信仰に生きる教会となりましょう。

主のあわれみ(2008.6.15)

題   : 「主のあわれみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章40節~45節
聖書が語る「憐れみ」は、主なる神の言動の根幹をなしているご性質で、はらわたが痛むほどに心動く同情であり、激しい愛そのものです。「イエスが深く憐れんで」くださったことにより、何がもたらされたでしょうか。

1.主イエスの謙(へりくだ)りのみわざがもたらされた
「重い皮膚病」は、潜伏している病で、それを覆い隠そうとするものでした。肉体をむしばむだけでなく、社会から隔離され、いやしめられていました(レビ13章45~46節)。その病を宣言するのも、また清められたと宣言するのも祭司でした。
この病を患う人が、主イエスの憐れみにすがって、近づきました。それに対して主イエスは、「手を差し伸べてその人に触れ」、ご自身の心として清めるみわざをなされ、回復させ、本来おるべきところにお返しになられたのです。
人間は自分自身の真相を覆い隠そうとする罪深さがあります。そんな罪人に触れて罪そのものになってくださった主イエスこそ、十字架の血潮によって、その罪を赦し、きよめてくださるお方です。このようにして、憐れみの主が謙ってくださったのです。

2.私たちに謙(へりくだ)る祈りがもたらされる
重い皮膚病を患っていた人には、最初から明確な信仰の姿勢がありました。謙ってひざまずき、「御心ならば」と祈り願うのでした。それに対して、主イエスは「よろしい」と、彼の真実な信仰の姿勢を見られて、きよめるわざをなされました。
このような謙る信仰の姿勢は、世々の信仰者たちが貫いてきたことです(1テモテ1章12~17節参照)。
果たして私たちは、自分自身が神の憐れみを受けるべき者であるということを、どれ位真剣に受け止めているでしょうか。また、自分がどれほど罪と汚れに満ち、どれだけ神を侮り、神を畏れず、神をないがしろにしてきた者であると自覚しているでしょうか。信仰とは、ひたすら神の憐れみを求めて生きることです。主イエスの十字架でこそ、神の憐れみに触れさせていただくことができるのです。私たちは、どこまでも憐れみの主の後に従って行くことが大切です。