日別アーカイブ: 2009.02.22

分かち合う喜び(2009.2.22)

題   : 「分かち合う喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 6章30節~44節
主の弟子たちは、当初「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」(52節)状態でしたが、神の国の福音に与って後は、驚くべき喜びの出来事となったのです。それは、四福音書が共通して証言するほどに、忘れ難い出来事でした。

1.先行する主の憐れみを原点として
主イエスが、弟子たちに人里離れた寂しい所へ退くように勧められたのは、伝道旅行から帰ったばかりの彼らに休息が必要と判断されたためでした。
そこは、主イエスご自身が祈りまた憩われた場所であり、同じように弟子たちにも祈りと憩いを与え、彼らの刷新の場にしようとされたのです(30~32節)。ここに、主イエスの行き届いたご配慮があります。
ちょうどその時、主イエスは、飼い主のいない羊のような群衆のために、時の過ぎるのも忘れるほどに彼らの魂を導き養おうとされました(33~34節)。しかも、彼らの肉体のことまでも配慮されています(36~37節)。このように主イエスは、人々に対する深い同情のゆえに憐れみを注がれるのです。
私たちは、主イエスが深く憐れまれて顧みていてくださることを覚え、この原点に立ち帰り、また立ち続ける一人ひとり(教会)でありたいものです。

2.主の憐れみの業を担うことによって
主イエスは、無頓着な態度をとる弟子たちに対し、ご自身の憐れみの業の中に引きずり込もうとされました(35~40節)。五つのパンと二匹の魚を取られた主は、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」、次いでパンと魚を群集に分配されました(41~44節)。
男性だけで五千人という人々を満腹させ、なおかつ多くの残りが集められたとの奇跡は、人間の知恵で説明できませんが、それを信じることができます。
主イエスは、この憐れみの業を弟子たちに担わさせられました(37、41節)。このことを通して、弟子たちは、自分の力ではできないという無力さを知らされるとともに、主が恵みの器として自分たちを用いてくださるという信仰の学課を学びました。
私たちは、命のパンであるキリストを受け入れています(ヨハネ6章35節)。このお方を分かち合う喜びに与らせていただきましょう(同27節)。