日別アーカイブ: 2008.06.15

主のあわれみ(2008.6.15)

題   : 「主のあわれみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章40節~45節
聖書が語る「憐れみ」は、主なる神の言動の根幹をなしているご性質で、はらわたが痛むほどに心動く同情であり、激しい愛そのものです。「イエスが深く憐れんで」くださったことにより、何がもたらされたでしょうか。

1.主イエスの謙(へりくだ)りのみわざがもたらされた
「重い皮膚病」は、潜伏している病で、それを覆い隠そうとするものでした。肉体をむしばむだけでなく、社会から隔離され、いやしめられていました(レビ13章45~46節)。その病を宣言するのも、また清められたと宣言するのも祭司でした。
この病を患う人が、主イエスの憐れみにすがって、近づきました。それに対して主イエスは、「手を差し伸べてその人に触れ」、ご自身の心として清めるみわざをなされ、回復させ、本来おるべきところにお返しになられたのです。
人間は自分自身の真相を覆い隠そうとする罪深さがあります。そんな罪人に触れて罪そのものになってくださった主イエスこそ、十字架の血潮によって、その罪を赦し、きよめてくださるお方です。このようにして、憐れみの主が謙ってくださったのです。

2.私たちに謙(へりくだ)る祈りがもたらされる
重い皮膚病を患っていた人には、最初から明確な信仰の姿勢がありました。謙ってひざまずき、「御心ならば」と祈り願うのでした。それに対して、主イエスは「よろしい」と、彼の真実な信仰の姿勢を見られて、きよめるわざをなされました。
このような謙る信仰の姿勢は、世々の信仰者たちが貫いてきたことです(1テモテ1章12~17節参照)。
果たして私たちは、自分自身が神の憐れみを受けるべき者であるということを、どれ位真剣に受け止めているでしょうか。また、自分がどれほど罪と汚れに満ち、どれだけ神を侮り、神を畏れず、神をないがしろにしてきた者であると自覚しているでしょうか。信仰とは、ひたすら神の憐れみを求めて生きることです。主イエスの十字架でこそ、神の憐れみに触れさせていただくことができるのです。私たちは、どこまでも憐れみの主の後に従って行くことが大切です。