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マタイ

主の愛の支え(2015.8.16)

宣教題  「主の愛の支え」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ26章69~75節 ルカ22章32節

主イエスとペトロの出会いは、後々までつながるものでした。主イエスの仲間とされていたペトロが、予告されたように(26章26~35節)、そこから離反してしまったのです。主イエスは、そんなペトロを愛をもって回復させ、支え続けられました。

1.人の弱さを知り尽くされる主イエス
ペトロが「そんな人は知らない」と主イエスを三度も否認したことは、彼にとっては消し去ってしまいたいと思うほどに恥ずかしいことでした。そのことを伝えているのは、主イエスの愛に対して、人は自らの力で誠実であることができない弱さをもっていることを語っているのです。
ペトロが、「わたしは決してつまずきません」(26章33節)と言ったのは、取りつくろってのことではありませんでした。しかし、主イエスが捕らえられたことに不安を覚えて、主イエスの仲間だと告発される度ごとに、その関係を誓ってまで否認したのです。
「そんな人は知らない」と言い切るような人の弱さ、身勝手さ、惨めさ、罪が、主イエスを十字架に架けたのです。

2.人への愛を貫かれる主イエス
主イエスは、ペトロによって否認されるという裏切りを知りながら、それを受けとめておられます(ヨハネ2章24~25節参照)。人は裏切られるという経験をすると、自分の愚かさを棚に上げて、相手を恨むことをします。しかし、主イエスは、どこまでも愛を貫かれました。裏切られてもなお愛する愛、それが神の愛です。その愛は、後々に至るまで貫かれました。
ペトロは、先に主イエスが語られた御言葉と(26章34節、75節)、慰めに満ちた励ましの祈りと御言葉を思い起こしたことでしょう(ルカ22章32節)。このように、主イエスは、愛をもって人を支え続けてくださるのです。この主イエス愛の前に立って、それを拒んだり、中間的な立場をとったりすることなく、主イエスの仲間であり続けましょう。

命を生きる(2015.7.26)

宣教題  「命を生きる」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ16章13~28節

今回は、主イエスがペトロに問いかけられるという形で出会いをされています(26節)。ペトロを招かれた主イエスは(24~25節)、同じようにして群衆をも招かれました(ヨハネ12章25~26節)。主イエスは、私たちにどういう問いかけをもって招かれるのでしょうか。

1.自分の命の重さを見い出していますか
「何の得があろうか」(26節)と問いかけています。主イエスの福音は、私たちに本当の利益をもたらしてくださいます。それは、かけがえのない価値のある「命」です。それを見い出しているかと問いかけておられるのです。
主イエスは、ペトロにそのことを気づかせるために、ご自身が救い主であることを言い表わせるように導かれ、罪と死に勝利をもたらすものであることを明らかにされました(13~20節)。そして、そのことが実現するために、主イエスご自身が「必ず」十字架の死を遂げられ、そこから復活されることを明らかにされました(21~23節)。
主イエスのペトロに対するこのような問いかけは、私たちにもなされています。自分の命の重さと、その命を生きる道に気づかせるためにです。

2.主イエスに任せる生き方をしていますか
さて、自分の思うままに生きる、自分の欲望を満足させるように生きることは、「自分の命」を失うことになるのです。そうではなくて、「自分を捨て」て、すなわち自分にしがみつかないで、十字架に死んで復活された主イエスにしがみついて、その救いに与らせていただくことが大切なのです。主イエスに信頼していくならば、「わたしのために命を捨てる」と言われたように、主イエスに合わせて「命を生きる」ことができるのです(24~25節)。
私たちが真に自分に生きる道は、主イエスの十字架と復活の救いを信じ、このお方に任せて生きることなのです。

安心しなさい(2015.6.28)

宣教題  「安心しなさい」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ14章22~33節

主イエスとペトロとの出会いは、ペトロが主イエスに出会いに行く前に、主イエスがペトロに出会いに来てくださっています。その出会いは、繰り返され、深められていっています。この出会いの恵みは、主イエスと私たち一人一人の出会いおいても同じなのです。

1. 主イエスが来てくださるから  25節
ペトロたちは、夜の暗闇に舟を漕ぎ出しましたが、波と逆風に悩まされています。主イエスは舟に乗っておられなかったのです。この時、ペトロたちが主イエスに助けを求めることはなく、主イエスの方から彼らの所に行かれて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語られ、ご自身を現しなさいました。
人が恐れを経験するものに、次のようなことがあります。迷信に脅えるということです。人の顔色や評判を恐れることです(箴言29章25~26節参照)。良心の呵責からくる恐れです。そして、死の恐れです(ヘブライ9章27節参照)。十字架に死んで復活された主イエスは、今も「恐れることはない」と解放の道を開いていてくださいます。恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配されているところに安心があるのです。

2. 主イエスのところに行くことによって  28節
「行かせてください」と願うペトロに対して、「来なさい」と主イエスは招かれています。しかし、再度ペトロは、風を見て怖くなり、逆巻く水を見て恐れています。「主よ、助けてください」と叫ぶペトロを主イエスは諭し、同舟されました。こうして、ペトロたちは、繰り返し主イエスの招きを受ける中から、「本当に、あなたは神の子です」と信仰を言い表わしました。
私たちは、恐れに支配されるのではなく、主イエスの恵みに支配される中で、信仰を言い表わすのです。共に居り続けてくださる主イエスのもとに居り続けるのです。主イエスの方から招いていてくださる確かさに、私たちは身を置くのです。

開かれた道(2015.5.31)

宣教題  「開かれた道」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ4章18~22節

主イエスが開かれた救いへの道は、狭い道です(マタイ7章13~14節参照)。それは、自分一人しか通れない狭さであり、神の前に一人になることを意味していると言えるでしょう。主イエスは、私たち一人一人に対して、ご自身が開かれた道について来ることを求めておられます。

1.主イエスに招かれている道
主イエスは、ペトロたちをご覧になり、お呼びになりました。彼らが、この招きを受けたときの詳しい状況や経緯や理由について何も語られていません。しかも、礼拝で説教を聞いていたとき、祈っていたときといったような場面ではなくて、主イエスは彼らがその職業に就いていた日常生活のただ中において招かれています。
主イエスは、十字架を通り、墓を通り、墓を打ち破って、永遠の命への道を、私たちのために歩き抜いてくださいました。そして、一人一人の全てをご存知の上で、ご自身を賭けたこの恵みをもって、私たちの現実に踏み込んで来られるのです。私たちは、この招きにあずかっているのです。

2.主イエスについて行く道
ペトロたちは、「わたしについて来なさい」と先立たれる主イエスの背を見つめるようにして歩み出しました。彼らは、主の招きに応えたのです。これが、主イエスを信じることであり、従うことなのです。
さらに、主イエスの招きは、ペトロたちの人生を新たにし、新たな使命を与えて遣わされるものでした。彼らに対する使命は、「人間をとる漁師にしよう」と語りかけられたもので、主イエスはその後も繰り返し語り、それを更新し続けられました。
主イエスは、ご自身について来る一人一人を各々の持ち場に遣わされます。それは、人生の最後に至るまで更新し続けられます。私たちは、主イエスの招きに応え、新たにされて、各々の生活の場へと遣わされて行くのです。

主の戦い方(2015.5.17)

宣教題  「主の戦い方」             宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア6章1~21節 マタイ5章16節

エリコを攻略しようとするイスラエルの民にとっての正しい戦い方とはどのようなものだろうか。

1.ヨシュアの命令に民が従う(6章1節, 6~21節)
城門を閉ざしていたエリコとの戦い方について、ヨシュアは民に命令を下した。一日目、祭司たちには契約の箱を担ぐ者と、角笛を吹き鳴らす先導者を備えることを、民にはその後を進んで町の周りを回るのとともに、主の箱の前を武装した兵士たちが進むように命じた(6~7節)。さらに、鬨の声を上げるように命じるまではことばを発しないようにとも命じた(10節)。彼らは忠実にその命を六日目まで守った(12~14節)。七日目には、七度同じように町を回った後、祭司が角笛を吹く際に、鬨の声を上げ、町のものをことごとく滅ぼし尽くすように命じた(15~19節)。民はヨシュアの命令に従った(20~25節)。契約の箱を担いで、城壁の周りを回るという奇妙な行動を求める命令に、民は最後まで従った。

2.ヨシュアを介して伝えられた主の命令に民が従う(6章3~5節)
ところが、ヨシュアの命令は、彼自身のものではない。主から受けた命令を民に伝えたに過ぎない(3~5節)。ヨシュア自身も、主の命令に従うひとりの人である。つまり、エリコでイスラエルが行ったのは、主の命令を一言たがわずに守る、上意下達という戦争の基本的な戦い方であった。

3. すでに勝利をとられている主の戦い方(6章2節)
主の命令に完璧に従ったから、イスラエルはエリコを攻略することができたか。そうではない。なぜならば、これは主の戦いであるからだ。まず、祭司たちが担いだ契約の箱は、主ご自身の臨在そのものである。この箱が町の周りを回ることを通して、主はエリコを着々と攻略された。さらに、主は「わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した」(2節、新改訳)と語っている。主は戦いの前にすでに勝利をとっておられる。民は、主の勝利を目に見えるかたちにしたにすぎない。不完全で、失敗の可能性のあるイスラエルを通して、主はご自身の戦いを戦われる。これこそが、主が選ばれた戦い方である。
主の戦い方は、ヨシュアの時代も、今も、変わらない。主はすでに勝利をとっておられる。すでにご自身の光を輝かしておられる。そして、弟子たちという弱く、だめな人間を通して、主の光をこの世界で輝かそうと願っておられる(マタイ5章16節)。私たちも主の戦い方に加わらせていただこうではないか。

苦しみからの出発(2012.12.30)

宣教題  : 「苦しみからの出発」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章13~23節
過ぎ行く一年が、悲しみや試練が多かった人、充実した一年で将来の見通しのついた人と様々でしょうが、主イエスの御前ではすべてを感謝をもって迎えることができるのではないでしょうか。本日の聖書箇所に見るように、クリスマスの出来事が喜びや明るさのある中で、悲しみや苦しみといった暗さが前面にでています。ヨセフ一行は、苦しみからの出発をしています。

1.自分を王とする歩み
幼子イエスに対して、エルサレムの人々及び祭司長や律法学者たちは無関心を、何よりも幼児虐殺の首謀者ヘロデ王は猜疑心を抱いていました。これは、私たちが生まれながらに持っている主イエスに対する冷淡で、憎悪に満ちた拒絶する態度に通じるものです。さらに、私たちが、主イエス御自身とその御業と御言葉を受け入れないで、自分を王としたがる罪の姿です。お互いが、今そのことを吟味しつつ、悔い改める必要があります。
この罪の暗さこそが、神の御子イエスをその誕生の時から苦しみへ、そして十字架の苦難へと追いやったのです。ただし、神は確かな御意志と御計画をもって、主イエスを十字架の死に至るまで守られました。

2.キリストを王とする歩み
ヨセフに見る神の御言葉に対する忠実さは、マリアを妻に迎え入れ、幼子をイエスと名付けることにおいて明らかでした(1章24~25節)。そして、彼が幼子イエスを連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと(2章13~15節)、幼子イエスを連れてイスラエルの地に帰ったこと(同20~21節)、ガリラヤのナザレへ行くように告げられたことに従ったこと(同22~23節)に見るように、愚直なまでに従ったのです。
そこには、幼子イエスを王の王、主の主であると信じた者の姿があります。このようにして、神の救いの御業は進められていったのです。
このような従順を生み出すのは、「日々、わたしたちを担い、救われる神」の確かさにあります(詩編68編20~21節)。私たちは、この神に感謝し、神を讃えましょう。

クリスマスの驚異(2012.12.23)

宣教題  : 「クリスマスの驚異」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章10~12節
クリスマス、それはキリストにひれ伏して拝む礼拝を意味しており、喜びにあふれる時です。この目をみはるような喜びは、人が作り出すものではなくて、神からいただくものです。それは、どのような中から生まれてくるのでしょうか。

1.素朴さの中に
最初のクリスマスは、誠に素朴な形で起こりました。神の御子イエスは、飼い葉桶で誕生されましたが(ルカ2章7節)、素朴でという以上に粗末な姿においてでした。
神の御子は、東の方から来た占星術の学者たちに対するように、幼子のままで出会ってくださったのです。
この神の素朴さは、キリストの生涯を貫き、十字架にまで至っています。私たちは、神の救いの現れである十字架において、神との出会いをさせていただくのです。

2.単純さの中に
主の天使の知らせを聞いた羊飼いたちは、そのことを単純に信じて神の御子イエスに出会いました(ルカ2章8~16節)。学者たちは、星に導かれるという単純なあり方で、喜びにあふれて幼子イエスに出会い、このお方を真の救い主と信じて、贈り物を献げて礼拝しました。
人間が単純に神を信じ、互いに信頼し合うこと、これが人間が人間とし生きる基本です。クリスマスは、神がこの単純さの中に御子イエスを託してくださった時なのです。

3.純真さの中に
イザヤは、御子イエスの誕生の約七百年前に、救い主の誕生を預言しました(イザヤ書9章5節)。それを成し遂げられたのは、「万軍の主の熱意」であり(同6節)、私たちを罪と死と滅びから救い出そうとされた神の純真さ、愛からでした。
この神の愛に対して、学者たちもまた持てる限りの愛を献げかつ安らいでいます。そして、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、新しい生き方を始めました。それは、私たちの新しい生き方でもあり、神の純真さと人間の純真さが出会う経験をする時なのです。

導く星(2012.12.9)

宣教題  : 「導く星」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~9節

占星術の学者たちは、神が備えられた星の導きを受けて(民数記24章17節)、遠い道を旅し、ついに神の御子に出会うことができました。私たちの人生が、星という一時的に現れるものにではなく、いつも共におられる神に導かれることほど大切なことはありません。それによって、私たちの人生に新しい歩みが始まるのです。

1.神の導きは確かである
学者たちは、まだ真の神を知ることのない暗い世界に生きていました。それだけに、求めることにおいて熱心であり、真剣であり、切実であったと思われます。彼らは、特別な星の動きを自分たちの知恵や力によって判断してエルサレムまで導かれたのですが、そこには限界があって行き詰ってしまいました。彼らが御子イエスの誕生地ベツレヘムに導かれるのには、神の御言葉による導きが必要だったのです。
神の導きとその御言葉に対する信頼と服従に生きるときに、神は大いなる喜びをもって報いてくださいます。そこには、神が共におられるという確かさ、神の導きに誤りがないという確かさ、神の御言葉は偽ることがないという確かさがあるからです。私たち一人ひとり、教会、そして世界は、この神の導きを必要としているのです。

2.神の導きの中を歩み続ける
学者たちは異邦人でしたが、ひたすら神に向かう姿勢をもって、その導きに従う人たちでした。彼らには、神の御子イエスに出会う確信と喜びがありました。それに対して、エルサレムの人々は、ヘロデ王に対する恐れのゆえに、将来に不安を覚えました。祭司長や律法学者たちは、聖書知識を駆使して神の御子の誕生地を見出したものの、無関心で冷淡な態度をとりました。ヘロデ王にいたっては、ユダヤ人の王の座を奪われるのではとの不安から、憎悪の念に駆られたのです。
私たちは、神に対する無関心、冷淡、憎悪といった態度でいるのではなく、神の御子イエス・キリストの救いに与かる歩みを始めることが大切です。この神の救いと導きの中を歩み続けることは、人生の様々な不安や罪と死の恐れが取り除かれ、喜びに変えられる歩みとなるのです。これこそ、学者たちと同じ歩みなのです。

最も小さいもの(2012.12.2)

宣教題  : 「最も小さいもの」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~6節

神の御子イエスの誕生の時期と場所が大まかに報告されています(1節)。その場所は、旧約聖書に預言されていたように「ベツレヘム」であり(6節、ミカ書5章1節)、その町は小ささを象徴するものでした。ここにおいて、神は救いの御業を始められたのでした。

1.最も小さいものを大切にされる神
神の御子は、大きな都エルサレムではなく、最も小さな町ベツレヘムに誕生されたことに注目したいと思います。このことを通して、神は小ささを大切にされるお方であることを示唆しています。これは、聖書を貫く大切なテ-マです。その例としては、イスラエル民族が選ばれたこと(申命記7章6~8節)、神の御子イエスの地上における父親と母親の役を神から担わされたヨセフとマリアが貧しく小さな存在であったこと(ルカ1章48節)などに見ることができます。
主イエスは、私たちの救い主であり、私たちと共にいてくださる牧者として、神から遣わされて来られました(1章21~23節)。神は、それほどまでに、小さな私たちを愛し大切にしてくださるお方なのです。主イエスの下に赴く一人ひとりとならせていただきましょう。

2.最も小さいものを用いてくださる神
愛の神は、この世における小ささ、貧しさ、卑しさを退けられるお方ではありません。かえって、大切にして用いてくださり、御自身の御業を進められるお方です。これもまた、聖書を貫くテ-マであり、ヨセフとマリア、羊飼いたち、そして東の方から来た学者たちが証ししています。
私たちは、信仰の歩みが深まるにつれて、自らが最も小さなものであることを自覚するようになります(1コリント15章9節、エフェソ3章8節、1テモテ1章15節)。神は、そのような最も小さいもの一人ひとりを用いて、御自身の恵みの御業をなされるのです。私たちは、自己卑下したり、高慢になったりしないで、神への信仰と希望と愛を働かせていただいて、神に用いていただこうではありませんか。

神の民の魅力(2012.2.26)

宣教題  : 「神の民の魅力」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖   書  : 申命記 4章5節~8節 マタイ 5章16節

人の前ではなく、神の前を歩むことを私たちは重んじています。しかし、人々に見られ、比較されてはじめて、神の民の魅力は明らかになります。ですから、人々の前でどのように生きるかも神の民はいつも問われています。

1.見られる存在として生きる
イスラエルに律法が与えられたのは、約束の地の「真ん中で」(申命記4:5、新改訳)それを行うためでした。さらに、律法に従うイスラエルを通して「諸国の民・・・知恵と良識が示され」(4:6)ます。このように、イスラエルは諸国民に見られる存在として生きる使命が与えられていました。隠されたともしびではなく、光を輝かすランプです(マタイ5:16)。「見せる」のではありません。人々の行き来の激しい場所で、淡々と律法に従って歩む姿が自然と人々の「目にとまる」のです。そして、目にとまって初めて、人々は「すべての掟を聞く」(申命記4:6)ようになるのです。この順序が逆になってはいないでしょうか。

2.比較される存在として生きる
見られ、そしてイスラエルの生き方を示した掟が聞かれたならば、諸国の民は比較を始めます。その生き方が「知恵と良識」(4:6)に満ちているか、主への祈りに信頼した生活であるかが比べられます。最終的には、イスラエルと他の国々ではなく、イスラエルに掟を与えた主が他の神々と比較されます(4:7~8)。聖書に描かれている神の姿、聖書が求めている人、教会、社会の姿は、どこに出しても恥ずかしくないものです。けれども、この聖書に生きるよう招かれている神の民はどうでしょうか。
魅力ある民とは「大いなる国民」(4:7~8)です。しかし、神の民の偉大さは、御言葉を私たちに与えられた主の偉大さであることを覚え、この方を指し示す民としての歩みへと進ませていただきましょう。

柔和な者の幸い(2011.1.30)

宣教題  : 「柔和な者の幸い」   宣教:   光田 隆代
聖    書  : マタイ  5章1節~11節
山上の説教は私たちを主と共にすがすがしい山の上に導き、平明な言葉で私たちを真理に導いてくれます。この有名な八福の教えで、今朝も新鮮な恵みを主よりいただきましょう。

1.幸いな人
聖書の神はシャローム、満月のような祝福を私たちの与えることを望まれます。その神が「ああ、なんとさいわいなのだろう」と感嘆して語られる言葉の中にこそ、真の幸福が映し出されています。この幸いを得させるお方が私たちの神です。

2.柔和な人
旧約聖書に登場するモ-セは「その人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」と記されています(口語訳民数記12章3節)。彼はエジプトからカナンの地へ導く道中、イスラエルの民の不信仰と不従順に何度も悩まされました。しかし彼は忍耐深くとりなした人物です。「柔和」の特徴は、現実に目に見えてくる反抗、反逆などに対して、ストレートな反応を返しません。むしろ、その相手が将来必ず回復することを望む愛の心です。つまり、相手の態度に一喜一憂したりすぐ失望したりすることのない、本当に強い心を言うようです。
今の時代人間関係を作り上げることの難しい人たちが増えてきました。言葉で自分を伝えたり、相手を理解したりすることが困難になりつつあります。教会の交わりが健全になるために、お互いの言葉の使い方、理解の仕方に成長が必要でしょう。そして互いの関係を深めるためにも「柔和」が必要ではないでしょうか。
主イエスは罪深い私たちに対してさえ諦められません。むしろ十字架と聖霊によって必ず人があるべき姿に回復されることを信じられました。それは私たち一人一人にも当てはめられています。キリストの柔和は私たちの期待すべき望みの姿です。上からの知恵が必要なこの時代に、私たちも聖霊により頼み、キリストにある柔和で、前向きなお互いの関係に成長させていただきましょう。

求めよ、さらば与えられん(2010.8.29)

宣教題  : 「求めよ、さらば与えられん」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マタイ 7章7節~12節
祈りは、クリスチャンにとって、呼吸であり、仕事であり、神様との交わりにも欠かせないものであります。それでは、神様が言われる「祈り」とはどのようなものなのか、見ていきたいと思います。

1.誰に求めるのか
お祈りをする時、誰に祈るのか、がとても大切であります。それは、「求めなさい、そうすれば、与えられる」と約束して下さっている天の父なる神様に求めるべきであります(7節)。それでは一体、誰が求めるのでしょうか。「だれでも」(8節)とあるように「あなたも」「私も」であります。
私たちは日常生活の恐れや不安から、神様に求める代わりに、人や仕事等に求めてしまう時があります。ヤコブも恐れや不安の中にいた一人でした。兄エサウが自分の長子の特権や祝福をヤコブが横取りしたため、殺そうと企んでいたからです (創世記27:41) 。そんなある日、神様が夢の中で、ヤコブに近づいて下さいました(同28:13)。恐れの中にいた彼は、神様に「エサウから助けて下さい」と祈りました。
私たちもヤコブの様に恐れや不安を覚える時がありますが、その時、私たちは誰に信頼して祈るのか。ということがとても重要なのです。

2.何を求めるのか
神様に求めるべき物は、「天の国」(神の国)です(マタイ6:33)。天の国は神様が居られ、神様の恵みが溢れている世界です。この地上にいる間にも、天の国に生きることが出来るのです。
なぜ神様は、イエス・キリストを救い主と信じ求める者に天の国を与えて下さるのでしょうか。それは、神様が一人一人の問題や必要なものすべてをご存知で、それらがすべて天の国にあるからです。神様は、全ての祈りを聞いて下さいます。一人一人の祈りに対して、最善の道へと導き、必要な物を与えて下さるのです。
天の国を与えられた私たちは、神様との正しい関係によって、隣人との人間関係を築きあげることが出来るのです。ですから私たちは、隣人に対し愛をもって積極的に行動していこうではありませんか(12節)。

新たな旅立ち(2009.12.27)

題   : 「新たな旅立ち」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 2章12節~15節
聖書の中には、多くの旅立ちの記事が記されています。それには、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」学者たちの旅立ち、幼子イエスを抱いたマリアとそれを助けるヨセフの密かな旅立ちがあります。
キリストに出会った者は、神の導きによる新たな信仰の旅立ちを始めるのです。

1.神の導きの確かさ
最初のクリスマスは、喜びや明るさだけではなく、悲しみや暗さもありました。暗さは、キリストを拒絶する姿に現れています。とりわけ、猜疑心の強かったヘロデ王は、幼児虐殺という残忍なことを行いました(16節)。このヘロデに見る罪の性質は、私たちの内にもあります。それは、私たちが自分自身を王として、真の王であるイエス・キリストを拒絶する時に現われてきます。この罪が、イエス・キリストを十字架に追いやったのです。
そのような中にあって、神は御言葉をもってヨセフを導かれました(1章23節、2章15節、23節)。ここに、神の導きの確かさがあります。私たちは、信仰者としての人生の歩みと教会の歩みに、神の強い導きがあることを確認し、そのことを感謝をもって証ししていきたいものです。

2.神の導きへの従順
この神の導きに対して、ヨセフは神に全面的な信頼を置いています。それが、御言葉に対する信仰の従順となって現れています(1章24~25節、2章14~15節、21~23節)。とりわけ、「夜のうちに」とあるのは、ヨセフの敏速に従っている様子がうかがわれます。先が見えない中で、今示されている御言葉に愚直なまでに従うヨセフの姿は、今日の私たちが忘れかけているものではないでしょうか。
絶えず御言葉を尋ね求め、開かれた御言葉の導きに従順に生きることが、信仰者の旅路の在り方です。私たちは、キリストを拒絶して閉め出してしまうのではなく、今この時この所からキリストを自分の全存在と生涯の王座に迎え入れて、新たな信仰の旅立ちをさせていただきましょう。

ひれ伏し拝むクリスマス(2009.12.20)

題   : 「ひれ伏し拝むクリスマス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 2章1節~11節
クリスマスは、全ての人が神に立ち帰る時であり、また決起の時です。東の方から来た占星術の学者たちは、「拝みに来たのです。・・・ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて・・・贈り物として献げた」(2節、11節)とあるように、この二つの問いかけに応答した人たちです。ここに、彼らの信仰姿勢が明らかになっています。

1.キリストこそ私の神です
クリスマスは、私たち一人ひとりに対して、神が最高の贈り物である救い主イエスを与えてくださった時です(ヨハネ3章16節)。それによって神は、わたしたちを永遠の滅びから、永遠の救いに与からせてくださったのです。
ところで、人はイエス・キリストに対して、次のような三つの態度をとってきました。一つは、ヘロデ王のように、キリストに反感を抱き、抹殺しようとする冷淡な態度です。また、祭司長や律法学者のように、知識は持っていても、キリストに無関心な態度です。これらは、恐れと不安しか残りません。そして、学者たちのように、長い道程を導かれて求道し、御言葉を聴いて信じ、大きな喜びにあふれるという態度があります。これは、キリストこそ神と信じる信仰姿勢です。

2.キリストこそ私の宝です
学者たちは、幼子イエスにひれ伏し拝んで礼拝を献げています。その具体的な礼拝行為が、「宝の箱を開けて」、イエスこそ自分たちの最高の宝であることを言い表したことです。「黄金」を献げたのは、イエスこそはこの世のすべての人を治める王であることを、「乳香」を献げたのは、イエスが神と人間を結ぶ祭司であることを、「没薬」を献げたのは、イエスが十字架の死によって贖いを成し遂げる救い主であることを意味しました。
聖書に見る最初のクリスマスは、誰一人としてプレゼントを受け取っていません。むしろ、イエスに仕え、イエスのために献げる生き方を決断しています。そうすることは、神からの本物のプレゼントであるイエス・キリストを心と生活のすべての領域にいただくことになるのです。何と素晴らしいことでしょうか。

キリストに倣って(2009.12.13)

題   : 「キリストに倣って」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 1章18節~25節
クリスマスのメッセ-ジは、神が人を信頼された出来事を語っています。その結果、人が神を信頼し、人と人が信頼する関係に変えられていきます。このような信頼は、神の御旨に従うことによって生まれるのです。

1.キリストの従順
神が人となられたクリスマスは、私たちに希望を与えています。神は、先の「イエス・キリストの系図」に見た人間の罪の現実にもかかわらず、罪からの救い主イエスをお遣わしになったからです(21節)。そのためにキリストは、父なる神の御旨に従って、自ら十字架に架かって血を流し、罪の赦しを成し遂げてくださったのです。それによって、「神は我々と共におられる」という恵みに生きる道が開かれたのです(23節)。
このキリストが私たちの内に来てくださるなら、私たちの生活は一変します。また、キリストが私たちの内に来てくださると、キリストのために何でもするようになります。そして、キリストと共にいるなら、私たちは神のことがよく分かり、それが喜びとなります。

2.ヨセフの従順
ヨセフは、婚約者マリアの妊娠を知って、不信と疑惑で悩み苦しみ、彼女に対する愛に傷ついていたことでしょう。しかし彼は、このことを公然と問題にして訴えることをせず、ひそかに縁を切ることによって、世の人の非難を自分が負う決心をしたのです。彼は、そうした犠牲をもいとわない愛を持つ「正しい人」でした(19節)。
こうした決心の背後には、ヨセフに神の働きかけがありました(20節)。彼は自分の正しい決心を越えて、また自分の不安や恐れに動かされないで、神が語られる御旨に従ったのです(24~25節)。それは、彼が不動の境地を極めたというのではなく、ただ聖霊に動かされて神を信頼したからです。
神を信頼して、神の御旨に従うことが、キリストに倣うことなのです。そうすることによって、キリストの御心に近づく者とされるのです。