日別アーカイブ: 2012.08.05

信仰の気づき(2012.8.5)

宣教題  : 「信仰の気づき」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  3章1節~14節

洗礼者ヨハネは、救い主イエスがおいでになる道備えをするために、人々が福音を受け入れるための「悔い改め」を迫った預言者でした。彼の役目は、そのことを人々に気づかせ、与えることにあったのです。「罪の赦しを得させるために悔い改め」るのが(3節)、なぜ私たちに必要なのでしょうか。

1.全ての人に神のさばきがあるため
イスラエルの民は、自分たちはアブラハムの子孫で神の選びの民であるという自負に安住していました。しかし、ヨハネはそれを再度評価し直さなければならないと指摘したのです(ルカ3章7~8節)。それは、旧約聖書の中で「かたくなな民」と語られている姿であり(出エジプト33章3節)、彼らが同じ状態にあることを気づかせようとしたのでした。ヨハネは、そのようなイスラエルの民に神のさばきが近づきつつあることを知って、悔い改めを迫ったのでした(ルカ3章9節)。
私たちは、同じように悔い改めることの迫りをいただいています。この時、私たちは自らの罪を認めてその自覚を持ち、罪とその結果を悲しみ、罪を捨てて、神に立ち帰ることが必要なのです(2コリント7章10節)。

2.全ての人の生きざまが変革されるため
ヨハネは、荒れ野で神の御言葉を聴き、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(ルカ3章2~3節)。それは、荒れ野に主の道が整えられ、その道筋をまっすぐにし平らにする働きでした(同4~5節)。荒れ野と呼ぶ世界に含まれるのは、当時の皇帝・総督・領主たち・大祭司(同1~2節)、また群衆・徴税人・兵士(同10~14節)であり、今日の私たち一人ひとりのことであることに気づくことが必要です。
私たちは、イエス・キリストを通して現わされた神の救いを、自分の救いとして受け入れ、仰ぎ見る心の柔らかさが求められています(同6節)。そのような中から「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(同8節)者とされていくのです。それは自己中心的な生き方でなく、人を愛する生き方であり(同10~11節)、正しさを貫く生き方です(12~14節)。この私にさえ及んでいる救いの恵みに気づく者とされましょう。