月別アーカイブ: 2012年4月

居場所はどこに(2012.4.29)

宣教題  : 「居場所はどこに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 2章1節~7節
私たちが神に背を向けて生きていた時、アダムに対してと同じように、「(あなたは)どこにいるのか」(創世記3章9節)との問いかけを神から受けました。そして、イエス・キリストを通して、神のもとに立ち帰ることにより、神と共に生きる居場所を見い出すようになったのです。

1.神の御手の導きによって
本個所のメッセ-ジは、クリスマスの季節だけでなく、私たちがいかなる状況下にあっても聴き続ける必要があります。
主イエスの御降誕は、旧約聖書が預言したように(イザヤ9章1節)、異教の王の支配を受けるという暗闇の状況下で起こった出来事でした。しかし、そのような人間の支配を超えて、歴史を導かれる神が、真の王を明らかにされた時でした。しかも「ベツレヘム」の地に降誕されるという旧約聖書の預言が成就したことによって(ミカ5章1節)、神は見える世界の出来事を見えない神の御手の中に収めて導いておられることを明らかにされたのです。
私たちは、あらゆる出来事が神の導きの御手の中にあることを知る時に、それが神によって備えられた居場所であることを信仰によって受け止めることができるのです。

2.キリストを王として受け入れることによって
主イエスの御降誕の場所が「飼い葉桶」の中でした(7節)。それは、主イエスが私たちのために惨めな貧しい御姿となられたことを表しており、その極みである十字架の身代わりの死につながるものでした。しかし、本当に惨めなのは、主イエスを迎え入れる「場所(余地)」を持たなかった人間の側の姿です。
私たち一人ひとりは、他の人には語りたくない、見せたくない、隠しておきたい醜い罪と恥じを持っています。そのように、飼い葉桶に等しい暗くて寒々としたものを抱えています。主イエスは、そんな私たちを受け入れて、そこをご自身の居場所とされます。ですから私たちは、何ら恥じることなく、大胆にキリストを救い主また王の王として受け入れ、永遠の居場所をキリストに見い出し続ける歩みをするのです。

福音の同労者(2012.4.22)

宣教題  : 「福音の同労者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録18章1節~4節、ローマ16章3~4節

アテネからコリントに来た時のパウロは、恐れと不安の中にいました(1コリント2章3節)。彼は、アキラとその妻プリスキラと「一緒に」過ごすことを通して励まされ、伝道を共にする「協力者(同労者)」となったのです(ロ-マ16章3節)。「福音の同労者」とは、私たちが忘れてはならない信仰者の在り方です。

1.出会いを通して  使徒言行録16章1~2節
私たちの人生は、誰と出会い、誰と一緒に歩みまた働くかによって大きく変わってきます。ロ-マで復活の主に出会って信仰に導かれたアキラ夫妻は、ロ-マからの退去命令によってコリントに逃れて来ていました。他方、パウロは失意の中にコリントに来ていました。この両者の出会いは、不思議なまでの神の御配剤でした。
この後、交通の要路でもあり、国際色豊かな都市コリントを中心とした宣教は、パウロにとって新たな展開となって行ったのです。
福音は、背後の多くの祈りと普く福音を届けたいとの熱心な計画のもとに、丁度よい時に、丁度よい出会いのもとに展開されてきました。私たち一人ひとりが福音に与かるに際しても、様々な出会いの出来事あったことを忘れないようにしたいものです。

2.共有することを通して  使徒言行録16章3~4節
パウロとアキラ夫妻は、同業者として、親交を深く持ちました。そして、パウロは困難であればあるほど、伝道に対する熱情が沸き起こり、伝道することによって安息を得たのです。この後、アキラ夫妻はパウロの伝道に同行し、エフェソ教会のために福音の種蒔きに従事しました(18章18節以下)。ある時は、危機に遭ったパウロを身を挺して救おうとしました(ロ-マ16章4節)。このようにしてアキラ夫妻は、パウロと共に祈り、共に労し、共に励まし合う信仰の友となったのです(ロ-マ15章30~33節)。
私たちは、違いを持ちつつも、信仰によって与えられた共通の救い・礼拝・御言葉・倫理・使命・目標・所有・敵・戦い・栄光を共有しているのです。互いに、福音の同労者であることを忘れないようにしたいものです。

笑う門には福音が

年の初めに、「笑う門に福音が」というご挨拶をいただきました。
思わず笑ってしまいました。笑えそうにない厳しい年明けだったので、「あえて」という意味をこめてのことだったのかもしれません。
赤ちゃんは生まれてしばらくすると、誰に教えられたわけではないはずなのに、実にあどけない微笑みを浮かべます。これをエンジェル・スマイルというのだそうです。

聖書の中の詩編に、『そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう』と歌われています。この笑いは、束縛からの解放の喜びを表しています。自由とされた喜びの表現です。最近は多くの人の顔から笑顔が消えつつあると言われています。
今こそ、イエス・キリストによって罪やこの世のしがらみから解放されて、ぜひ、笑顔を取り戻したいものです。

神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

生けるまことの神に立ち帰る(2012.4.15)

宣教題  :「生けるまことの神に立ち帰る」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : テサロニケ信徒への手紙1 1章9節~10節

「神が(イエスを)死者の中から復活させた」(1:10)というメッセージこそ、パウロがテサロニケの人々に伝えた「神の福音」(2:9、1コリント15:3−5)です。旧約聖書の神、イスラエルの神とは全く無関係であった者たちがこの福音を聞き、聖霊の不思議なわざによって(1:5)彼らがその福音を神のことばとして受け入れた時(2:13)驚くべき回心が起こりました。偶像の神々に仕える者たちが、生けるまことの神に立ち帰ったのです。

1.偶像から離れる
偶像の神々と関わり、それらに仕える事なしに、日本同様にテサロニケの町で生きていくことはできませんでした。人々は偶像をおそれ、偶像から利益を得て生活してきたからです。しかし、「イエスを死者から復活させた神」の福音との出会いによって、この生けるまことの神と、偶像との間の雲泥の開きを聖霊は気づかせて下さいます。「私たちが大切にし賞賛しているもの」という偶像、「私たちが避け続けているもの」という偶像、それらと生けるまことの神の違いに、私たちは目が開かれているでしょうか。

2.生けるまことの神に仕える
回心は偶像から離れた者を「生けるまことの神に仕える」(1:9)者とします。この神への信仰(1:8)によって、テサロニケの人々がこの神の所有の民となり、この神に忠実に生きる者へと変えられるからです。ですから、福音に応える回心は、私たちの心のみならず、私たちの生き方を含めたすべてを変えます。もはや「神を知らない異邦人」(4:5)として生きるのではなく、神の所有の民、つまり「聖なる者」(4:3)として生きるからです。
生き方の変化に時間がかかることを私たちは経験から知っています。しかし、「イエスを死者から復活させた神」が私たちを「全く聖なる者」としてくださる、真実な方であると信頼し、祈り求め、歩き始めているでしょうか(5:23−24)。私たちの回心を始めて下さるのも、完成して下さるのもこの神です。

動じない信仰(2012.4.8)

宣教題  : 「動じない信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : ヨハネによる福音書 20章24節~29節

トマスは、主イエスの復活の出来事を聞かされたとき、自分の主観に閉じこもってしまい、不信仰に陥りました。主イエスは、そんなトマスに向かって、救いの交わりの中に導かれました。ここには、私たちが、どのような交わりに身を置く必要があるかが語られています。

1.聖徒の交わりに身を置く  24~25節
トマスは、主イエスを慕って、主が行かれる所には一緒に行こうとする切なる願いを持っていました(11章16節、14章5節)。しかし、他の弟子たちが復活された主にお会いした喜びの体験を語ったときに(20章19~23節)、そこに居合わせなかったトマスは、自分で見て触れないかぎり「決して信じない」と不信仰になったばかりか、他の弟子たちに対する不信をも抱きました。
トマスの不信仰の原因は、「イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」とあるように、聖徒の交わりの中に自分の身を置いていなかったからでした。
私たちは、聖徒の交わりの中で神とその恵みを味わい、信仰が生み出され、養われ、育てられ、健全に保たれていくのです。

2.主イエスとの交わりに身を置く  26~29節
トマスの「わたしたちは」に動かされない主体的で実証的な特徴は、彼の動じない個人的信仰の下地となりました。復活された主イエスが、八日目に再び弟子たちの所に来られたとき、トマスを極めて個人的に扱われています。彼は主イエスから御言葉をかけられ(27節a)、主イエスに自分の問題点を扱われ(27節b)、主イエスによって明確な信仰告白に導かれ(28節)、主イエスに祝福されています(29節)。
信仰は、「わたしたちは」に動かされないという意味で個人的であることが大切です。復活の主イエスを「わたしの主、わたしの神」と信じる者は、いかなる時にも主との交わりに自分を置き、このお方を「主」とする幸いな勝利者の歩みとなるのです。
私たちが、復活の主イエスを肉眼では見えないのに信じられるということは、何と奇跡的な恵みでしょうか。

愛のぬくもり(2012.4.1)

宣教題  : 「愛のぬくもり」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 12章1節~8節

受難週の直前、主イエスのための晩餐会が開かれました。この席で、ベタニアのマリアが主イエスに香油を注いだことは(3節)、主イエスに愛され(ヨハネ11章5節)、その愛のぬくもりを受け止めた者の真実な愛の業でした。彼女をこのように突き動かした動機は、何だったのでしょうか。

1.主の時を知る
主イエスは、御自分の時をいつも心に留めておられました(ヨハネ2章4節、13章1節、17章1節)。そのように、主イエスが時に向かわれる場合の御心は、弟子たちに惜しみない愛を注がれるというものでした。それは、時を知って、御自身の救いの御業を成し遂げられることでした。
マリアは、その時を知って、主イエスの愛に応答して、純粋かつ一途に「高価なナルドの香油」を注いだのでした。主イエスは、イスカリオテのユダの批判を物ともせずに、マリアのその行為を高く評価されたのです(7節)。
私たちが主の時を知らないで、主イエスに対する愛を失っているならば、今こそ、やり直しのスタ-トをさせていただきたいものです(ヨハネの黙示録2章4~6節)。

2.主の御心を知る
マリアは、弟ラザロを生き返らせていただいたこともさることながら、自分自身が主イエスによって「死から命へと移っている」(ヨハネ5章24節)ことに感謝をしました。
それを身をもって表現したのが、香油を注ぐという純粋かつ謙遜な行為でした。マリアは、主イエスの十字架に現わされる主の御心を深く洞察していたのでした。この彼女の愛の行為は、その香りを周囲に満たし、愛のぬくもりとなって伝わって行ったのです。逆に、イスカリオテのユダは、自分の思いを貫き、主の御思いを軽んじたのでした。
主イエスは、マリアの行為に対して最大級の評価をされています(マルコ14章9節)。私たちは、主の御心を知り、主への愛の業に励むことによって、自分にではなく主に栄光を帰することです。私たちの進む道は、主の御心を知り、そこに身を置くことによって開かれてくるのです。