日別アーカイブ: 2012.04.08

動じない信仰(2012.4.8)

宣教題  : 「動じない信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : ヨハネによる福音書 20章24節~29節

トマスは、主イエスの復活の出来事を聞かされたとき、自分の主観に閉じこもってしまい、不信仰に陥りました。主イエスは、そんなトマスに向かって、救いの交わりの中に導かれました。ここには、私たちが、どのような交わりに身を置く必要があるかが語られています。

1.聖徒の交わりに身を置く  24~25節
トマスは、主イエスを慕って、主が行かれる所には一緒に行こうとする切なる願いを持っていました(11章16節、14章5節)。しかし、他の弟子たちが復活された主にお会いした喜びの体験を語ったときに(20章19~23節)、そこに居合わせなかったトマスは、自分で見て触れないかぎり「決して信じない」と不信仰になったばかりか、他の弟子たちに対する不信をも抱きました。
トマスの不信仰の原因は、「イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」とあるように、聖徒の交わりの中に自分の身を置いていなかったからでした。
私たちは、聖徒の交わりの中で神とその恵みを味わい、信仰が生み出され、養われ、育てられ、健全に保たれていくのです。

2.主イエスとの交わりに身を置く  26~29節
トマスの「わたしたちは」に動かされない主体的で実証的な特徴は、彼の動じない個人的信仰の下地となりました。復活された主イエスが、八日目に再び弟子たちの所に来られたとき、トマスを極めて個人的に扱われています。彼は主イエスから御言葉をかけられ(27節a)、主イエスに自分の問題点を扱われ(27節b)、主イエスによって明確な信仰告白に導かれ(28節)、主イエスに祝福されています(29節)。
信仰は、「わたしたちは」に動かされないという意味で個人的であることが大切です。復活の主イエスを「わたしの主、わたしの神」と信じる者は、いかなる時にも主との交わりに自分を置き、このお方を「主」とする幸いな勝利者の歩みとなるのです。
私たちが、復活の主イエスを肉眼では見えないのに信じられるということは、何と奇跡的な恵みでしょうか。