月別アーカイブ: 2012年3月

壮大な任務(2012.3.25)

宣教題  : 「壮大な任務」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 1章57節~80節

人は、「神の憐れみ」の大きさの前に、確かな愛を、確かな結びつきを、そして確かな使命(任務)を見い出すことができます。ザカリアとエリサベト夫妻に託された任務は、壮大なものでした。ただ、それは、信仰者であるならば誰にでも託されている任務なのです。

1.主をほめたたえる
約束どおりに男の子が与えられたことは、ザカリア夫妻だけでなく周囲の人々にとっても大きな喜びでした。彼らは、神から命じられたとおりに、その子の名を「ヨハネ」と名付けました。その時、ザカリアの口は開かれ、神を賛美したのでした(57~64節)。彼は、沈黙を強いられた期間、憐れみの神に委ねるという信仰に導かれ、その信仰をエリサベトと共に分かち合えるほどに強められ、「ザカリアの預言」となったのです。
ザカリアは、旧約聖書に証言されている神の救いの御計画が、イエス・キリストによって確実に進められ、その救いが完成されることをほめたたえています(68~73節a)。それは、イエス・キリストが「あけぼのの光」となって「訪れ」てくださり、罪と死の暗黒の中にいる人々を救い、「平和の道」に導かれることなのです(78~79節)。
私たちに託されている任務は、この救い主をほめたたえることなのです。

2.主に仕える
主をほめたたえるところに、「主に仕え」て礼拝し、神のものとされて聖別された歩みが造られていきます(73節b~75節)。そして、ヨハネのように、「罪の赦しによる救いを知らせる」器として神が用いてくださいます(76~77節)。
人が救い主と出会うために、私たちがいくらかの奉仕をさせていただく中で、主ご自身が働いてくださいます。人の救いを願う私たちの祈りの中で、主がその人に働きかけてくださいます。つたない私たちの信仰の証しの言葉の中で、主ご自身の力が働き、それを聞く人が新しく造り変えられ、信仰告白へと導かれるのです。
憐れみの神は、このような「主に仕える」という壮大な任務に、一人ひとりを招いておられるのです。

主の愛は訴えている(2012.3.18)

宣教題  : 「主の愛は訴えている」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 13章1節~20節

主イエスは、十字架の死という「御自分の時が来た」ことを自覚され、弟子たちを最後の極みまで「愛し抜かれ」ました。それは、十字架の死に至るまで愛を貫かれ、私たちの救いを完成してくださったことを意味しています。主イエスは、今もこの愛を訴え続けられておられ、私たちにそれに応えるように求めておられます。

1.謙って受け入れる   2~11節
主イエスは、貪欲になって悪魔に振り回されているイスカリオテのユダや後に主イエスを否認するペトロが悔い改めることを願われて、訴えるようにして彼らを愛いし抜かれました。そして、彼らに対して、当時の異邦人の奴隷が行った洗足をされたのです。それは、この後主イエスが十字架の身代わりの死によって彼らの罪を赦してきよめてくださることを象徴する行為でした。
その主イエスの御心を理解できないでいたペトロは、洗足を拒んだり、また的外れな応答をしています。彼は、謙って主イエスとその恵みの御業を受け入れることができなかったのです。
私たちは、主イエスによる救いの恵みと、救われた歩みを全うさせてくださる主の恵みを、謙って受け入れるものとさせていただきましょう。

2.謙って仕える   12~20節
このような主イエスの愛に生きる者は、謙って仕える愛に生きる者に変えられます(14~15節)。そうすることによって、真の幸いと祝福を経験する者となるのです(17節)。しかし、謙って仕える愛を経験しなかったイスカリオテのユダは、悪魔にねらわれる隙がありました。その結果、父なる神、そして御子イエス・キリストを受け入れることができなかったのです(20節)。
私たちが謙って仕える愛を経験するのは、主人や客人ではなく、食卓に仕え、客の足を洗う僕です。教会は、そのことを学び、また経験する神の愛の学校です。主イエスは、謙って私たちに仕えてくださっています。私たちは、この主イエスと結び合わされて、謙って仕える喜びを経験していきましょう。

主がしたとおりに(2012.3.18)

宣教題  : 「主がしたとおりに」   宣教:   水野 晶子 師
聖    書  : ヨハネによる福音書 13章1節~15節

今年もレントを迎えています。このレントの期間、一日一日を主の十字架を思いつつ歩ませていただきたいと思います。主は十字架を前にして、弟子たちと食事する最後の日、特別な意味ある日に何をされたのでしょうか?

1.ご自分の愛を示された。(1節~11節)
時が切迫している中で、イエス様は何よりも弟子たちを愛されました。時を知ることも空気を読むこともできない弟子たちはこの大切な時に、「誰が1番偉いか?」ということに夢中で、言い争いになってその場の雰囲気を台無しにしていました。主は彼らのいやしい姿、自慢好きで、偉くなりたいという欲望も、ユダの裏切りや弱さもみんなご存知でした。彼らがどんな性格であろうと、イエス様は最後まで彼らを愛し抜かれたのです。1番偉いのは誰か?1番高い地位につくのは誰かと争っている弟子たちに、どのようにして主の御心を伝えたらいいのか?主は夕食の席を立ち、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、たらいに水を汲まれ、奴隷となり、膝まずいて弟子たちの足を洗われました。主の御手は嵐を静め、盲人の目を開いた偉大な御手が、体の中で最も卑しく、最も軽んじられている足に触れ、洗われました。一番汚れていたのは彼らの心でした。主はその心に触れられ、清められたのです。主は私たちにも「足を出しなさい」ときよめようと待っていてくださいます。

2.主がなしたことの意味(12節~15節)
イエス様はこの洗足を通して弟子たちにカルバリで起こる事の洞察を与えられました(フィリピ2:5~8)。天の栄光を捨てて、衣を脱ぎ、人となられ、しかも奴隷となり、十字架にまで従われ、手足から血が流され、最後に槍でわき腹が突き刺され血と水が流れ出たのです。この血と水こそ私たちの足を洗う尊い水と血なのです。一人残らず洗ってもらう必要があります。イエス様は「わたしがしたとおりにするように命じられました」。それは下へ下へ降っていく姿勢、互いに足を洗い合う関係が求められているのです。主の愛と謙遜とを身に着けさせていただき、人が生かされ救われるために、人生をかけてキリストが歩まれたように生きるものとならせていただきましょう。

今は悔い改める時(2012.3.11)

宣教題  : 「今は悔い改める時」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   1章16節~34節

アテネに到着したパウロは、世界の文化人を相手取って福音を告げ知らせました。その伝道説教の結論は、「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じられています」というものでした。神の御心に適った悲しみがもたらす悔い改めは(2コリント7章10節)、どのような神の救いをもたらすのでしょうか。

1.新しく創造される  16~21節
アテネの町の至る所に偶像があるのを見て「憤慨した」パウロは、様々な立場の人々と「毎日」論じ合っていました。なかでも、哲学的・合理的考え方をする者たちは、主イエスと復活についての福音を聞いて、愚かな話しと受け取ったのでした。彼らは、パウロが語ることがどういう「新しい教え」なのかと興味本位な質問をしています。
ところで、パウロが福音を語る時には、時間の経過とともに古くなっていく時間的な新しさではなくて、時間が経過しても決して古くならない質的な新しさという理解をもっていました。私たちが、十字架に死んで復活されたキリストに信仰によって結び合わされるならば、全く質的に新しい者に造り変えられるのです(2コリント5章17節)。今こそ、悔い改めることによって、新しく創造された者とされましょう。

2.祝福された死が始まる  22~34節
パウロは、アテネの人々の宗教心に敬意を払いつつ、聖書が明らかにしている神について宣教しています。まことの神は、天地の主である創造の神であり、人間の命の神であり、歴史を支配される方で、私たちの身近な神であることを明らかにしています(22~29節)。そして、最後に、キリストによる審判の日に際して、キリストが復活されたことが死者の復活の確かな保証であると宣言しています。それゆえに、神に立ち帰ることを迫っているのです(30~31節)。悔い改めてキリストの福音を受け入れる時に、祝福された死の始まりの中に生きる者とされるのです。
今も変わらずに「イエスと復活について福音」が告げ知らされています。まず、悔い改めてそれを受け入れましょう。そして、それを大胆に、確信をもって知らせ続けましょう。

あわれむ神(2012.3.4)

宣教題  : 「あわれむ神」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  1章39節~56節

マリアの賛歌には、共通する神のご性質が語られています。それは、「憐れみ」という言葉に表されており(50節、54節、55節)、神は約束されたことは誠実に果たされるお方です。憐れむ神は、私たちに信仰による変革を経験させてくださいます。

1.神をあがめる信仰  46~50節
神から受胎告知を受けたマリアは、急いでザカリアの家に行きエリサベトに挨拶しました。彼女たちが喜びを共にした時に、マリアに歌が生まれたのでした(39~45節)。
マリアは、測り知ることのできない神の御思い・御計画・御約束・御業に対して、全存在をもって神をあがめ、讃え、自分の身を投げ出しています(46~47節)。そうすることが出来たのは、自分に目を見はるような高貴さや華やかさがないにもかかわらず、神が目を留めてくださり、大いなる救いの御業を進められることを知ったからです(48~49節)。彼女は、神を畏れ敬いつつ、その憐れみを讃えているのです(50節)。
憐れみの神は、罪に汚れ、自らの力で聖なる者になれないことを徹底して自覚する者を目に留めてくださり、神の救いを受け取らせてくださるお方です。私たちは、「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられる」信仰に生きる者とさせていただきましょう(フィリピ1章20節)。

2.生き方を変える信仰  51~55節
マリアは、憐れみの神が人間の価値観を変えてくださることを歌っています。それは、主なる神が現わしてくださった謙遜に生きること(51節)、その御支配に生きること(52節)、主なる神の恵みの豊さに生きること(53節)といった生き方です。神は憐れむことを決して忘れるお方ではなく、一人ひとりを通して、家族に、また周囲にそれを及ぼしていかれるのです(54~55節)。
ところで、マリアとエリサベトは、約三カ月に渡って神の憐れみを喜び合っていたのでした(56節)。そうした共にいる姿、喜ぶ姿、歌う姿は、今日の教会の姿でもあるのです。私たちは、「すべての聖なる者たちと共に」(エフェソ3章18節)、神の憐れみの交わりを共にし、そこに留まり続け、拡げていく生き方をさせていただきましょう。