聖霊のバプテスマ」タグアーカイブ

あなたはわたしの愛する子(2017.5.21)

宣教題  「あなたはわたしの愛する子」   宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章7~11節

もし、皆様が「あなたは何者ですか」と質問されたら何と答えられますか?

1.洗礼を受けた者
どんな時でも私たちの信仰を支え、キリスト者であることの確信を失わせない根拠は、『洗礼を受けた者』だという事実です。洗礼は、復活の主イエスのご命令です。この洗礼によって私たちはキリストと共に死に、共に生き、復活の命に与かる者とされたのです。イエス様の十字架への道は、神の御子が洗礼を受けるという大きな矛盾から始まったのです。ここに神の救いの御業があるのです。

2.三位一体の神の御業
イエス様が洗礼を受けられた時、「天が裂けて」(10節)とあります。これは、天と地とを完全に隔てていた罪という幕が裂けたということで、イエス様の救いの御業が、まさに三位一体の神の御業であることを、イエス様の洗礼の時に起きた出来事は示しています。イエス様がこの洗礼から歩み出す営みは、まさにこの罪という幕を裂き、神の国を来たらす業であることが示されたのです。

3.わたしの愛する子
父なる神が、「あなたはわたしの愛する子」と言われたのは、イエス様の十字架への道を良しとされたことを表しています。もちろんこの言葉は、イエス様に向けて告げられた言葉です。しかし、洗礼を受け、聖霊によって神に「父よ」と呼ぶことを許された私たちに対して、神が「あなたはわたしの愛する子」と呼んでくださっているのです。
無きに等しい私たちが、洗礼によってイエス様と一つにされ、神の子とされ、救われたのです。この恵みに感謝しつつ、神をほめたたえましょう。

主の道を整える者(2017.5.7)

宣教題  「主の道を整える者」         宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章2~8節

神によって遣わされた「主の道を整える者」の姿がここに現されています。

1.旧約の預言の成就として
神の救いの御業がなされる時、その前に主の使い、使者が送られてくる、そう旧約に預言されており、その預言の成就として、洗礼者ヨハネが現れたのだとマルコは告げています。そして洗礼者ヨハネの姿は、預言者エリヤの再来という位置づけの中で、エリヤの姿(列王記下1:8)と同じ格好でここに登場しています。

2.悔い改めの洗礼
洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え、その印としての洗礼を施したのです。悔い改めとは、方向を変えるという意味で、神から離れ、的外れの生き方をしていた人間が、神の方に顔を向けて方向を変えて生きるようになることです。私たちが本当に悔い改めた時、神の愛を知り、その愛に生かされて、隣人を愛する者に変えられるのです。

3.主の道を整える者として
ヨハネの洗礼は水の洗礼です。それは彼自身が悔い改めの教えを宣べ伝え人々を神に方向転換させる役目であることを自覚し、それが完成ではなく、彼はあくまでもその方の道を整える者であることをわきまえていたのです。
聖霊で洗礼をお授けになるお方、真の救い主が来られた時に神の救いの御業は完成されたのです。ヨハネのように、私たちも主をほめたたえる姿を示し、私たちの教会も主の道を整える者の群れとして用いさせて戴きましょう。

あなたがたのなかにおられる方(2015.3.22)

宣教題  「あなたがたのなかにおられる方」         宣教 小菅 剛師
聖 書  ヨハネ1章19~34節

荒れ野で叫ぶ声としてのヨハネは、人々の中に立っておられるイエスを指し示している。人々は、知らない、気づかないでいた。ヨハネは、人々に「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と語っている。ヨハネは自分も消え、人々も消えて、一人立っておられた方だけに人々の目を向けさせた預言者である。では、このイエスを、ヨハネはどのように証しをしたのか。

1.イエスを世の罪を取り除く神の小羊と証しした  29節
ヨハネは、人々の罪を鋭く指摘した。人々は、彼のもとに来て罪を悔い改めて洗礼を受けていた。それが救いではない。ヨハネは祭司の子として儀式宗教、小羊が献げられて罪が赦され、神を礼拝するレビ記教育を受けた人であった。しかし、ヨハネは旧約の生けにえ宗教で人の罪は取り除かれないことを知っていた。
神の子であられるイエスは、神の小羊として十字架で献げられたことにより、人は神に赦されることを明らかにされた。御子イエスの血がすべての罪からきよめるのである(1ヨハネ1章9節)。イエスは、罪を告白するそこに立っておられる。

2.イエスは聖霊のバプテスマを授ける方である 33節
イエスは、罪の力をきよめる聖霊の満たしを与えてくださる方であると証言されている。生まれ変わったクリスチャンは犯した罪で苦しむが、それ以上に内側から起こってくる罪の傾向性に苦しむ。自我であり、古き肉の性質と呼ばれるものである。パウロは、欲する善は行なわないで憎む悪を行なうと言って、自分の内に宿る罪の力に嘆いた。その厄介な内なる自我をキリストは共に十字架につけてくださり、聖霊が支配して罪の力から解放してくださる。
聖霊のバプテスマは、明け渡しに続く聖霊の支配であり、イエスの賜物である。イエスは、弟子たちを世に遣わすに「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20章22節)と言われた。罪からの解放と宣教の力は、聖霊のバプテスマによるのである。