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仕えるために(2023.10.8)

聖 書

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。(マタイによる福音書 20章28節)

礼拝音源(32.0MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 イザヤ書48章17節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
賛  美 83 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編59編
会衆祈祷 一  同
聖  書 マタイ20章17〜28節
使徒信条 93-4 1A 一  同
牧会祈祷 鎌野かをり副牧師
宣  教 「仕えるために」 鎌野かをり副牧師
祈  祷
献 児 式
賛  美 564 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 鎌野かをり副牧師
後  奏

宣教要旨

この聖書の箇所にはイエスがこの世界に来られた目的が書かれている。

1.受難の告知
イエスはエルサレムに上る途中、12弟子にこれからご自分の身に起こる出来事について話された。それは、十字架への道の苦しみと苦難と復活についてである。しかし、弟子たちはその真意を悟ることができなかった。

2.ゼベダイの息子たちと母
ゼベダイの息子たちと母がイエスのところへ来た。母は、息子たちが御国でイエスの右と左に座れるように、と願い出た。イエスは、あなたがたは間違った求めをしていると指摘する。御国の王座の右と左に座ることは、父なる神によって備えられた人たちに父が与えられるからだ。聞いた他の弟子たちは二人に腹を立てた。

3.仕えるために
弟子たちの中で、誰が偉いのかと権力争いをする様子を見たイエスは、この世の支配者のようになってはならないと言われた。偉くなりたい者は仕える者に、頭になりたい者はしもべになる。イエスがメシヤとして仕えるために、多くの人の身代金としてご自分の命を与えるためにこの世界に来られたからである。仕えるとは、奉仕、奉仕者と訳されることばである。イエスは私たちに仕えて、命を与えて下さった。その恵みのゆえに、私たちは与えられている賜物を用いて、イエスのように仕える者として奉仕するよう招かれている。

仕える者(2020.4.5)

宣教題 「仕える者」           宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ22章24~34節

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10MB)

 主イエスが十字架に架かられる前日まで、弟子たちは誰が一番偉いと思われているかと議論してきました(マタイ18章1~4節、同20章20~28節、ルカ22章24~27節)。それに対して主イエスは、十字架の救いの恵みに生かされて、「仕える者」に造られていくようにと語られます(26節)。

1. 試練によって  28~31節
 弟子たちは、主イエスがこれまで遭われた試練のときと同様に、この後の受難に対しても、一緒に踏みとどまって従い続けるように求められています(28節)。ところが、シモン・ペトロがそうであったように、このような試練のときにサタンによってその信仰がふるわれることがあります(31節)。
 主イエスは、そのような試練を通して、私たちを「仕える者」として造りあげていってくださいます。そして、天の御国における栄光の恵みに与らせてくださるのです(29~30節)。

2.主イエスによって 32~34節
 私たち自身の決心は、ペトロのようにしばしばつまずくことがあります(33~34節)。主イエスは、そのような者たちのために、「信仰が無くならないように」とりなし祈られます。後にペトロは、復活された主イエスによって信仰が回復され、その恵みを宣証していきました(32節)。
 主イエスが今も生きて私たちをとりなし続けていてくださることに、大きな驚きを覚えます(ヘブライ7章25節)。そのような恵みに与る私たちは、「仕える者」として造り変えられていくのです。

真に偉大な者(2009.8.23)

題   : 「真に偉大な者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章30節~37節
主イエスは、弟子たちを訓練しつつ、エルサレムに向かわれます。そこにおける弟子たちは、主イエスから受難と復活の予告を聞きますが、理解できないままで、「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」のです(34節)。
そこで、主イエスは、真に偉大な者はどういう心を持っているかを明らかにされました。

1.仕えていく心  35節
「だれがいちばん偉いか」と論ずることは、弟子たちにとって愚かなことであり、恥じることでもありました。この問いかけは、この後繰り返しなされています(マルコ10章35~45節、ルカ22章24~30節)。
それに対して、主イエスは、「仕える者」になるようにと明確に答えられました。それは、主イエスご自身が歩まれた道であり(マルコ10章45節)、それによって人が神に立ち返る道を開いていただき、神に生きるようにされたのです。
「だれがいちばん偉いか」と繰り返す狭い心は、今も私たちを支配しやすい罪の遺産です。キリストの救いの原点に立ち続けて、神の前に喜んで仕えていく者とさせていただきましょう。

2.受け入れていく心  37節
主イエスは、仕えていくことは、受け入れていくことだと強調されています。主イエスは、当時は無価値なものの代表のように思われていた「子供」をとりあげて、「ひとりの重さ」を教えられました(36~37節)。主イエスは、無価値とみなされている者をも招かれ、悔いし砕けた心でもってご自身に近づく者のために、徹底して自らを低くして受け入れられました。
私たちは、そのように神に受け入れられているのです。ですから、喜んで主イエスを受け入れ、かけがえのない一人一人を受け入れるのです。そうした中から、私たちは、何と多くの人から受け入れられ、生かされているかも気づかされるのです。
仕えていくとは、人を受け入れ、その心を主なる神に向け、その人が主イエスと出会い、主イエスを信じ、信頼し、従っていけるようにすることなのです。