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主に立ち帰るために(2022.4.10)

聖 書

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」 (マタイ26章26節)

礼拝音源(36.1MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 1ヨハネ3章16節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編19編
会衆祈祷 一  同
聖  書 マタイ26章17〜35節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「主に立ち帰るために」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
聖  餐  式 新49
賛  美 300 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

イスカリオテのユダが主イエスを裏切る企てをした直後に、「過越の食事」続く「主の晩餐」と言った主イエスとの交わりが持たれ、ペトロの離反と続きました。私たちは、この出来事を通して、再確認し再出発することがあるのです。

1.主の前に自分の姿を顧みる 17~25節、31~35節
神の救いの御業を想起する「過越の食事」の祝いの交わりを損なうことが起ころうとしていました。自分の思いを優先させ、それを押し通したユダの裏切りです(17~25節、47~50節)。さらに「主の晩餐」の直後に、ペトロを代表とする主の弟子たちが、主イエスにつまずいて見捨てて逃げていったことです(31~35節、69~75節)。その後、ユダを除く主の弟子たちが主の周りに集うようになったのは、主イエスが復活される時までありませんでした。
私たちは、自分を過信したり自分の都合で、主イエスのもとを離れたり、主の御心と掛け離れたところに自分の心を置いていることがないかを顧みることが必要です。

2.主にあって生きる 26~30節
そのような状況の中で、「主の晩餐」が執り行われました。この時に主イエスが執り行われたパンとぶどう汁を用いての行為と言葉は、今日の私たちに聖餐というかたちで受け継がれています。私たちは、この聖餐において、自らを吟味して罪を悔い改め、憐れみの見本として主イエスの救いにすがるのです(1テモテ1章15~16節)。
私たちは、主イエスにあって、新しく造り変えられ、やり直しのチャンスをいただき、
いつまでも主と共に生きていくのです。

忘れるな(2011.2.20)

宣教題  : 「忘れるな」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章22節~26節
主イエスは、過越の祝いの席において、聖餐の制定をされました。これを通して、主イエスは、私たちが主ご自身とその恵みの深さを忘れずに日々を過ごすことを教えられたのです。

1.主ご自身を忘れるな
過越の食事のテ-ブルマスタ-は、家長でした。ここでは、途中から主イエスがそれをされています。「イエスはパンを取り・・・杯を取り」とあるように、明らかに「主」が備えてくださった「晩餐」でした。ですから、主イエスが「取りなさい。これはわたしの体である。・・・わたしの血である」と言われたとき、弟子たちは主イエスから受け取ったのです。
さて、パウロが「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(1コリント11章23節)と語っているように、主イエスは、聖餐の場に特別に臨在しておられるのです。ですから、今日も聖餐のパンとぶどう汁を司式者を通して受け取ることは、主イエスから受け取るとの信仰が必要なのです。そうするならば、主イエスを忘れることはないのです。

2.主の恵みを忘れるな
「これはわたしの体である」とパンを裂かれたことは、私たちのためになされたことでした(1コリント11章24節)。また、手渡された「杯から飲んだ」ぶどう汁は、私たちを罪から解き放つ完全な救いを成し遂げてくださった十字架の血潮を意味します(ヘブライ9章12節)。主イエスが、賛美と感謝の祈りを唱えて執り行われたことは、そこに救いの恵みがあるからです。
パウロが「わたしの記念として行いなさい」と二度繰り返したのは(1コリント11章24~25節)、主の救いの恵みを、主のご再臨まで忘れずに語り続けるためでした(同26節)。
このようにして私たちは、聖餐の恵みに与かる度ごとに、罪を赦し、それを祝福の転機としてくださる主イエスの恵みを受け取り続けていくのです。