ローマ」カテゴリーアーカイブ

聖霊の助け(2011.6.12)

宣教題  : 「聖霊の助け」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 14章21節~28節  ローマ 8章26節
聖霊によって送り出されたパウロたちは(13章4節)、7教会を生み出すまでに伝道を展開してきました。しかし、そこには、困難や妨害といった苦難がともなっていました。聖霊は、「多くの苦しみ」と「神の国に入る」という二つの対照的な事柄を一つにしていくのです(14章22節)。

1.多くの苦しみを通して
パウロたちは、何もかも計画してその通りに伝道してきたというよりも、聖霊に満たされ、聖霊のくすしき導きに従って伝道を進めてきました。
その際パウロが経験した「多くの苦しみ」は、彼が気丈夫であったから乗り越えられたのではなく、いつも弱さを自覚しつつ苦闘していたのです(2コリント11章30節)。「弱いわたしたちを」と多くの点で弱さがあることを知っていたパウロは、とりわけ苦しみの中でどのように祈ってよいのか分からないという弱さを知っていました(ロ-マ8章26節)。
私たちが、苦悩や不安や不信といった苦難に揺さぶられたり、罪や誘惑や弱さによって失敗し挫折する経験をしたりするときに、その弱さを自らが受け入れることができるように、聖霊は助けてくださるのです。

2.神の国に入るのである
パウロたちが、アンティオキアの母教会で感謝の報告をした際に、それを自分たちが成し遂げたとは一言も言っていません。神の国に入れられるという御業は、全て神がなされるのです(27節)。ですから、全ての栄光は神にあるのです。
しかし、そのように告白させてくださるのは、聖霊の助けによるのです。聖霊が私たちと一緒に弱さを負ってくださり、聖霊が私たちと向かい合って弱さを運んでくださるからです。聖霊は、私たちに代わってとりなしてくださるからです(ロ-マ8章26節)。
このようなペンテコステの恵みの御業は、今もなし続けられているのです。

死はもはや支配せず(2011.4.24)

宣教題  : 「死はもはや支配せず」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ16章6節~7節、ロ-マ6章8~11節
「生」と「死」は、聖書が私たちに投げかけている一大テ-マです。それは、死に支配されたままでいるか、それとも死にもはや支配されていないか、との問いかけでもあります。
聖書は、「死はもはや支配しない」と宣言しています。

1.キリストが「復活」されたから
人は例外なく死に支配されています。それには肉体の死だけではなく、生きながらにして希望や喜びや愛に生きることを失った状態でいる死もあります。
それは、神から離れて生きている罪の結果による死です。「罪の支払う報酬は死です」(ロ-マ6章23節)と語られているとおりです。
十字架の死から復活されたキリストは、死に支配されることのないお方です
(マルコ16章6節、ロ-マ6章9~10節)。私たちは、このキリストに捉えられ(マルコ16章7節)、キリストに結び合わされて身を任せていくならば、もはや死の支配に生きることはないのです(ロ-マ6章8節、11節)。

2.キリストが「主」であるから
「死は・・・支配しません」とは、「死はもはや主でありません」という意味です。復活のキリストに結び合わされた者は、「キリストが主です」と告白するのです。私たちに死は存在しますが、それがもはや主ではなく、復活されたキリストを主とする信仰の歩みを続けることです。
この信仰は、教会の中心をなすものです。その根拠は、それを証言する聖書が残されていますし、キリストの復活の証人が絶えることがありませんでしたし、教会が存続していることに見い出すことができます。しかし、歴然たる証拠は、私たち自身が、復活されたキリストを「私の主です」と告白して生かされていることです。
復活された主イエス・キリストの恵みに捉えられ、生かされ、支えられているならば、死はもはや支配しないのです。

信仰によって生きる(2011.3.20)

宣教   : 「信仰によって生きる」   宣教:   岸本 望 師
聖    書  : ローマの信徒への手紙  5章1節~11節
ロ-マ書は、5章から新しい展開に入ります。即ち、信仰によって義とされた者の生活、つまり<信仰によって生きる>ことがテ-マとなります。
パウロは「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」(2コリント4章8節)という生き方を語っています。これこそが聖書の約束する、信仰によって生きる者の姿です。一体、何がこのような命を生きさせるのでしょうか。

1.神との間に平和を得ている
聖書は「神との間に平和を得ており」(1節)と記しますが、果たして私たちは本当に平和を持っているでしょうか。平和を得ていると告白するパウロは、すぐ後に「苦難をも誇りとします」(3節)と語りますから、苦難の中にあるのです。しかじ、その苦難の中でなお経験できる平和を持っているのです。
その根拠は、「信仰によって義とされ」(1節)ているからなのです。義とされるとは、私たちの道徳的な状態をいうのではなく、神との関係をいうのです。それがすなわち「神との間の平和」なのです。神との関係は、人間の罪によって断たれたのですが、ユダヤ人は律法を守ることによって回復しようとして失敗しました。今、私たちはキリストを信じることによって与えられるのです。

2.希望は私たちを欺くことがない
神との平和は、栄光に与かる希望をもたらします。そしてこの「希望は欺くことがありません」(5節)と言います。これこそが途方に暮れても行き詰まらず、苦難にあっても喜ぶ命を生きさせるのです。聖霊はこのような命に生きさせるために私たち信じる者の内に注がれているのです。
信仰によって義とされた今、信じる者の内に住んでくださる聖霊によって揺るがない希望が与えられ、絶望と思われる中で希望を、困難の中で平和を与えられて生きる、これが信仰によって生きることです。パウロと共に「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」(2節)と感謝しましょう。