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Kobe Central Church

恵みの再発見(2015.4.5)

宣教題  「恵みの再発見」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章17~21節
 
十字架に死んで復活された主イエスの救いの御業が、繰り返し語られています(1章1~12節、18~21節)。ペトロは、「知ってのとおり」と語ることにより、信仰者が救いと信仰の歩みに対する自覚を失うことないように、主イエスの恵みの再発見をするようにと勧めています。

1.こんなに大きく救われている  18~21節
 神は、「終わりの時」に主イエスによって救いの御業を具体的に始められました(20節)。その目的は、罪に捕らわれ、死に脅かされ、滅びを前にしてなすすべもなく、虚しい生き方をしていた私たちを、十字架の尊い血によって贖うためでした(18~19節)。そして、主イエスの復活に基づく希望をもたらすためでした(21節)。そのようにして、永遠の滅びから、永遠の救いに与らせてくださったのです。こんなに大きな神の恵みによって、こんなにも大きく救われていることを想起せざるをえません。
 ですから、私たちは、日常の平凡な歩みにおいても、困難な状況や激しい試練に見舞われるときであっても、主イエスの恵みのご支配を覚えて歩むのです。

2.こんなに偉大な「父」を知っている  17節
 このような神の恵みに基づく歩みは、神を畏れて生活するようになります。それには、神をどのようなお方として理解しているか、ということに関わりがあります。
「父」なる神は、主イエスによる救いのゆえに、信じる者を惜しみなく赦し、もはや罪を問われず、さばかないと宣言してくださいました。私たちは、その神を「父」と呼び、神の子とされた人格的な交わりに生かされています。愛と憐れみに満ちた神は、ご自分との交わりから一人たりとも失いたくないために、威厳と権威をもって導かれます。ですから、私たちは、それにふさわしい父なる神への畏敬の念をもった歩みをするという自覚が必要なのです。この恵みを噛みしめつつ、信仰の歩みを形づくらせていただきましょう。

十字架の勝利(2015.3.29)

宣教題  「十字架の勝利」            宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  マルコ10章32~45節

十字架は愛のしるしだとよく言われる。しかし、人々の面前でいじめられ、辱められ、見せしめにされ、苦しめられる十字架刑のどこが愛だろうか。その十字架でイエスは勝利を取られた、と言って、だれが信じるだろうか。

1. 敗北のしるし?
イエスと一緒に旅をしていたその弟子たちも、十字架を勝利のしるしだとは信じていなかった。むしろ、これからエルサレムへの上ろうとしているイエスは、そこを占拠している異邦人であるローマ軍を追いだし、王として即位すると信じていた。そのようにしてイエスが栄光を受けるとき、自分たちもイエスと一緒に支配者となり、敵どもに権力を振るおうと考えていた。だから、イエスの予告(33~34節)など理解できなかった。十字架に架けられるメシアなど、敗北者にほかならなかったからだ。

2. だれと、どのようにして戦うのか
イエスと弟子たちと、何が違っていたのだろうか。弟子たちにとって敵は、エルサレムを占拠している異邦人ローマであった。しかし、イエスは、人々を突き動かしているサタン、罪そのものと戦うべきだと考えていた。そして、背後で牛耳っている罪とイエスは戦った。弟子たちは、敵を、敵が用いてきた武力で打ち破ろうとした。しかし、イエスは、敵が想像できない方法、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」(45節)ことを通して戦った。そして、罪の最も醜い姿を十字架で世界にさらし、悪すべてを自らの身に負われた。

3. 十字架の勝利に生きる
イエスは十字架で、罪と戦い、確かに打ち勝たれた。三日の後の復活(34節)こそ、十字架の勝利の証拠である。イエスは、弟子たちには想像できない方法で、世界を支配している最大の敵である罪に打ち勝ち、王となられ、世界の秩序をひっくり返した。力ある者ではなく、仕える人やすべての人のしもべを通して、神はこの世界でご自身のわざを進めておられることが明らかになった。
十字架の勝利で世界が変わった、などと信じることのできない世界に私たちは生きている。しかし、イエスを信じるとは、見るだけでは信じることのできないこの世界の変化を受け入れることである。そして、イエスに従うとは、十字架の道、神のみわざの道を選び続けることである。神は、十字架を負う者たちを通して、世界を変え続けてくださっている。

礼拝ご案内・行事予定(2015.4)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び    1階集会室にて
お話は毎回完結します。いつでもお入りください。
5日(日) 第1聖日 イースター感謝礼拝
「恵みの再発見」
1ペトロ1章17~21節
合同記念会
「いつまでも主と共に」
1テサロニケ4章13~18節

 「主イエスの復活」
マタイ28:1~10
鎌野 健一
12日(日) 第2聖日 礼拝
「理不尽な戦闘準備」
ヨシュア5:1~12、エフェソ6:10~13
「共におられるとの約束」
マタイ28:16~30
増永  茂
19日(日) 第3聖日 伝道礼拝
「御言葉に生きる」
ルカ8章4~15節
祈りと証し
26日(日) 第4聖日 聖会礼拝
「恵みの仕組み」
ヨハネ1章41~42節
ギデオンの精鋭」
士師6:7~16
大塚 章信

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)   AM 10:30 ~12:00、PM  7:00 ~  8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

4月行事予定

5日  (第1聖日)イースター感謝礼拝 4月誕生者祝福 洗礼式  CSイースター合同礼拝
召天者合同記念会
12日(第2聖日)礼拝 聖餐式 奉仕者任命式 教師研修会① 役員会 エノク会例会
青年会おたのしみ
19日(第3聖日)礼拝 壮年会例会
26日(第4聖日)伝道礼拝 Happy Sheep

5月行事予定

3日(第1聖日)礼拝 聖餐式 5月誕生者祝福
10日(第2聖日)母の日礼拝 銀婚式  役員会
17日(第3聖日)礼拝
24日(第4聖日)ペンテコステ感謝礼拝  ハーベストアワー
31日(第5聖日)礼拝

あなたがたのなかにおられる方(2015.3.22)

宣教題  「あなたがたのなかにおられる方」         宣教 小菅 剛師
聖 書  ヨハネ1章19~34節

荒れ野で叫ぶ声としてのヨハネは、人々の中に立っておられるイエスを指し示している。人々は、知らない、気づかないでいた。ヨハネは、人々に「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と語っている。ヨハネは自分も消え、人々も消えて、一人立っておられた方だけに人々の目を向けさせた預言者である。では、このイエスを、ヨハネはどのように証しをしたのか。

1.イエスを世の罪を取り除く神の小羊と証しした  29節
ヨハネは、人々の罪を鋭く指摘した。人々は、彼のもとに来て罪を悔い改めて洗礼を受けていた。それが救いではない。ヨハネは祭司の子として儀式宗教、小羊が献げられて罪が赦され、神を礼拝するレビ記教育を受けた人であった。しかし、ヨハネは旧約の生けにえ宗教で人の罪は取り除かれないことを知っていた。
神の子であられるイエスは、神の小羊として十字架で献げられたことにより、人は神に赦されることを明らかにされた。御子イエスの血がすべての罪からきよめるのである(1ヨハネ1章9節)。イエスは、罪を告白するそこに立っておられる。

2.イエスは聖霊のバプテスマを授ける方である 33節
イエスは、罪の力をきよめる聖霊の満たしを与えてくださる方であると証言されている。生まれ変わったクリスチャンは犯した罪で苦しむが、それ以上に内側から起こってくる罪の傾向性に苦しむ。自我であり、古き肉の性質と呼ばれるものである。パウロは、欲する善は行なわないで憎む悪を行なうと言って、自分の内に宿る罪の力に嘆いた。その厄介な内なる自我をキリストは共に十字架につけてくださり、聖霊が支配して罪の力から解放してくださる。
聖霊のバプテスマは、明け渡しに続く聖霊の支配であり、イエスの賜物である。イエスは、弟子たちを世に遣わすに「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20章22節)と言われた。罪からの解放と宣教の力は、聖霊のバプテスマによるのである。

美しい人生(2015.3.15)

宣教題  「美しい人生」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章1~3節 ローマ8章32節

人は故郷を失うと、自分の原点また心の居場所まで失うことがあります。さて、神を信じる者は、約束されている「天の故郷」を目指して生きています(ヘブライ11章13~16節)。そのためには、マグダラのマリアのように、主イエスとの出会いが必要です。美しい人生を送るために、人は必ずしも偉大でなくてもよいのです。

1.主イエスと一緒に生きる喜びを経験する  ルカ8章1~3節a
自分で自分をコントロールできずにいたマリアは、主イエスのもとに連れられてきて、病を癒していただきました。以来、主イエスの一行と行動を共にしています。後に主イエスが十字架にお架かりになられた時には、「イエスの十字架のそばに」立っていました(ヨハネ19章25節)。このように十字架のそばに身を置くことによって、そこから流れ出る慰めと恵みを受け取ったのです。しかも、復活された主イエスのお声を聞くことにより、主イエスと一緒に生きることを喜びとしたのです(同20章11~18節)。
ところで、神は私たちの側に立っていてくださり(ローマ8章31節)、罪と死の恐れの中にある私たちの身代わりとして「御子をさえ惜しまずに死に渡され」ました(同32節a)。ですから、私たち一人一人は、主イエスを十字架に架けた私の罪を覚えて、ただ十字架の主イエスを仰ぐのみです。

2.主イエスの後を歩み続ける  ルカ8章3節b
マリアは、主イエスへの感謝をもって、その後ろからついて行き、一行に奉仕しました。その歩みは、主イエスによって用いられました。
御子をさえ惜しまないで与え尽くしてくださった愛の神は、最後まで一緒に歩んでくださり、神が私たちに必要とされるものを備えて、「すべてのものをわたしたちに」与えてくださいます(ローマ8章32節b)。ですから、私たちは、主イエスを信頼して、天の故郷を目指して歩み続けるのです。そして、今日一日が最後の日であるかのように覚えつつ、主イエスと一緒に歩むのです。

心の底から(2015.3.8)

宣教題  「心の底から」               宣教 池口留都伝道師
聖 書  エフェソ4章17節~5章5節
私たちの生き方、行動、私たち自身を決めるのは、私たちの心の中にあるものです。そして心の中にあるものが、私たちの刈り取る結果を決めます。

1. 古い人と、その心の中
異邦人と書かれている、古い人は、愚かな考えを頼りにし、歩みます。よいものを見ても、それをよいものだと分からず、悪いものを見ても、それをよいものであるかのように思ってしまいます。知性が暗くなっているからです。その原因は、心の中にある、無知とかたくなさです。その結果、態度は無神経、無感覚、鈍感で冷淡、まひした状態になり、行動は醜く、生き方は絶望的です。これは、生まれながらの人の姿、この世の姿そのもので、キリストと神との国を受け継ぐことはできません(5章5節)。

2. 心の底から新たにしてくださる、イエス様
しかし、あなたがたはそのように歩んではいけない、と主は言われます。なぜなら、キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだからです(4章21節)。私たちを自由にする、イエス様にある真理。それは、「…古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け…」(4章22~24節)です。私たちは、イエス様の十字架のもとに古い人を脱ぎ捨て、復活されたイエス様によって、新品の、新しい人格、つまり、イエス様の心、人柄、かおり、性質を、着せていただけるのです。表面ではなく、心の底から、私たちを変えてくださるのです。イエス様のように。

3. 新たにされた心で、愛する
心の底から新たにされた歩みは、愛によって歩む生き方です(5章5節)。私たちの心、感情の対処の仕方、言葉、働く意味…すべてが、キリストのからだを建て上げるための有益な賜物として、新たにされ、用いられます。そこにある関係は、「実に、神の国がここにある」…という、私たちの関係です。
心の底から新たにされ続け、愛による歩みをさせていただきましょう。

2015年3月22日 春の聖会のご案内

聖会礼拝 「あなたがたの中におられる方」
午後の聖会「わたしはこう祈ります」
メッセージ 小菅 剛 師

詳しくはこちらをご覧ください。
150322

恵みにふさわしい生活(2015.3.1)

宣教題  「恵みにふさわしい生活」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章13~16節
 
これまで主の恵みを力説してきたペトロは、それを深く味わい(詩編34編9節参照)、その上にしっかりと立ち、それにふさわしい歩みをするようにと勧めています。主の恵みをひたすら待ち望むことと、聖なる者となることとは、私たちの立ち位置です。

1.ひたすら待ち望みなさい  13節
 信仰者は、終わりの時の大いなる救いの完成を(5~9節)、いささかも疑わずにひたすら待ち望んでいます。その望みの根拠は、キリストの十字架と復活に現された過去にあります(21節)。
 この望みが、日々の信仰の歩みにおいて生き生きと現されるために、「いつでも心を引き締め、身を慎んで」いることが求められます。このように語るペトロは、自分を制することのできなかった苦い経験を思い起こしたことでしょう(ルカ22章54~62節)。私たちは、望みの根拠であるキリストの救いを疑わせたり、曖昧にさせたり、またその恵みの豊さを見失わせたり、その恵みに正しく応答することを鈍らせたりすることのないように、ひたすらに恵みの主キリストに望みを置き続けることが大切なのです。

2.聖なる者となりなさい  14~16節
 信仰者は、救いの恵みに与って「聖なる者」とされたのですから、これまでの自分勝手な思いや生き方でなく、「聖なる者」であり続けることが求められます。聖なる者とは、恵みによって神のものとされたことであり、その在り方や生き方の「生活のすべての面で」神のものとして生きる者なのです。
 そのためには、恵みに対し「無知であったころの欲望」に支配されるのではなく、聖なるキリストに倣って「従順な子」として形づくられていくことが大切です。その従順さは、神の御心が最上、最善、最高のものとして受け入れる在り方また生き方となって現れます。私たちは、従順な子として御言葉に聴き従い続けることによって、聖なる者とされたことを軽んじない歩みをしていくのです。

神の出番(2015.2.22)

宣教題  「神の出番」                宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マルコ2章1~12節

ここに登場する中風の人とその仲間たちは、自分たちの力ではなすすべもない課題に対して神の出番を望み、さらに彼ら自身が気づいていない最大の問題の解決に対して、権威ある神の出番の必要を促がされました。

1.主イエスにひたすら依り頼むときに
不自由を覚えていた「中風の人」は、お会いしたいと願っていた主イエスの所に彼の仲間たち四人によって運ばれてきました。彼らは、無礼を承知で、乱暴とも思える方法を用いました。
それに対して主イエスは、中風の人に憐れみの心を抱かれたというよりは、必死になって彼を主イエスの前につり下ろした仲間たちの信仰を見られました(5節)。彼らは、愛に促がされて、主イエスにひたすら依り頼んだのです。この信仰が、神の救いへの導きとなったのです。
このように、一人の人が主イエスに出会うために、その人をめぐる人々の愛と信仰と祈りのあることを知るのです。

2.罪を赦す主イエスの権威に触れるときに
主イエスは、仲間たちの信仰を見られて、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と宣言されました。主イエスは、このことを通して因果応報を教えておられるのではありません。どんな病気をしていようと健康であろうと、どんなに苦難にあろうと幸せな生活を送っていようと、誰もが主イエスによって罪を赦していただくことなしに、神との交わりを回復していただき、本当に健やかに生きることはできないのです。
私たちは、主イエスが十字架上でご自身の命を投げ出して告げてくださった罪の赦しを聴きつつ(ルカ23章34節)、自分の罪の深さに気づくのです。そして、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11節)との権威ある御言葉に立って、魂も心も体も自由にされて自分の足で歩み始めるのです。

礼拝のご案内・行事予定(2015.3)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び    1階集会室にて
お話は毎回完結します。いつでもお入りください。
1日(日) 第1聖日 礼拝
「恵みにふさわしい生活」
1ペトロ1章13~16節
 祈りと証し
8日(日) 第2聖日 礼拝
「心の底から」
エフェソ4章17節~5章5節
主の再臨に備える
マタイ25:1~13
鎌野 健一
15日(日) 第3聖日 伝道礼拝
「美しい人生」
ルカ8章1~3節
契約の血
 マタイ26:26~29
 増永 茂
22日(日) 第4聖日 聖会礼拝
あなたがたの中におられる方
ヨハネ1章19~34節
捕えられたイエス
 マタイ26:47~56
大塚 章信
29日(日) 第5聖日 パームサンデー礼拝
「十字架の勝利」
マルコ10章32~45節
十字架上のイエス
マタイ27:45~56
佐藤 正雄

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)   AM 10:30 ~12:00、PM  7:00 ~  8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

3月行事予定

1日  (第1聖日) 礼拝   聖餐式 3月誕生者祝福 新任教師研修会1 ファミリーコイノニア
8日  (第2聖日) 礼拝 新任教師研修会2 役員会
15日(第3聖日)   伝道礼拝 新任教師研修会3  Happy Sheep
22日(第4聖日)礼拝  春の聖会
29日(第4聖日)パームサンデー礼拝  JC&YC スプリングキャンプ    新任教師研修会4

4月行事予定

5日  (第1聖日)イースター感謝礼拝 4月誕生者祝福 洗礼式  CSイースター合同礼拝
召天者合同記念会
12日(第2聖日)礼拝 聖餐式 奉仕者任命式 教師研修会① 役員会 エノク会例会
青年会おたのしみ
19日(第3聖日)礼拝
26日(第4聖日)伝道礼拝 Happy Sheep

涙の出会い(2015.2.15)

宣教題  「涙の出会い」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ7章36~50節

ここに登場する一人の女性は、主イエスの足を自分の涙でぬらしています(38節、44節)。主イエスは、彼女を泣くに任せられ、その涙を受け入れ、喜んでおられます。この女性が主イエスに出会ったような出会い方で、私たちも主イエスに出会っていくことが大切です。

1.主によって罪の赦しをいただいた出会い
ファリサイ派のシモンが、主イエスを自分の家に招いて食事を共にするという交わりをしています。そこに「罪深い女」が入って来て、最大限の愛の業をしたのです(38節)。その行為は、悔い改める心をもった主イエスへの心からの信頼と、繰り返し尊敬の念を表し続けるものでした(45節)。主イエスがこの女性をどう見ておられたかは、そのたとえ話を通して明らかにされています(40~43節)。
主イエスによって罪が赦されたことを自覚した者は、惜しみない愛を表すようになるのです(47~48節)。主イエスに対する信仰が、私たちの罪を赦し、神に近づき、神と共に歩む新しい人生をつくるのです(50節)。

2.主を愛することを知った出会い
主イエスを迎え入れたシモンには、罪深い女がいただいていた信仰と真実さが欠けていました。その心は冷めたものでした(39節)。それゆえに、主イエスは、彼に多く愛することを語られ、また問いかけられたのです(40~43節)。
主イエスは、誰かを多く赦し、誰かを少なく赦しておられるのではありません。どんなに多く赦していただいているかを身にしみて分かっているか、そのように自覚していないかだけなのです。この罪が赦された喜びと感謝の思いをもって、愛の業に励むのです(44~47節)。
実に愛の源泉は、イエス・キリストを主と信じ、その十字架の贖いによって罪の赦しをいただいたところにあるのです。

神のわざを記憶し続ける(2015.2.8)

宣教題  「神のわざを記憶し続ける」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア4章1~24節、2テモテ2章8節

毎週、なぜ礼拝に来るのだろうか。祈るため、きよくされるため、安心のため、単なる習慣?。イエス・キリストを思うため(2テモテ2章8節)に集められている。では、具体的に何を思い出すのだろうか。

1. ヨルダン川を渡る
イスラエルの民がヨルダン川を渡り、十二の石の記念碑を建てることがヨシュア4章には記されている。ヨルダン川を渡る途中で、主はヨシュアに、十二人の男が十二の石を担ぎ、それを宿営の地に据えることを命令した(4章1~9節)。祭司たちは民が渡る間、ずっとヨルダン川の真ん中に立ち止まっていた(4章10節)。ヨルダン川の東岸に嗣業の地を得た部族も、民の先頭に立って川を渡り(4章11~13節)、この出来事を通してヨシュアは大いなる者とされた(4章14節)。そして、主の命に従って祭司たちが川から上がった時、川は元の状態に戻った(4章15~18節)。ヨシュアは、対岸のギルガルに宿営した民に十二の石の記念碑の意味を語った(4章19~24節)。

2. 十二の石の記念碑の意味
なぜ、このような記念碑を作ったのだろうか。ヨルダン川の流れが主の箱の前でせき止められたことを記念するためである(4章7節)。しかし、単なる自然現象が起こったのではない。これは、イスラエルの神が全イスラエルのためになされたわざである。そのような神のわざを記憶し続けるために、出エジプトの時と同じようにご自身の民を自由にし、民を回復する神に目を向けるために記念碑は作られた(4章23節)。そして、主のわざを記念し、それを記憶し続ける時、世代が変わっても同じように働かれる神を民は知り、恐れ敬いつつそのような神に従うようになる。そして、そのような神の民の姿を見た世界中の人々は、川や海を自由に動かすことのできる神とその力を知るようになる(4章24節)。記憶し続ける民は、宣教のわざに与るようになる。
礼拝は、十二の石の記念碑を見ることに比べられよう。イエス・キリストの十字架を思い、神が私たちを自由にし、回復したことを思い出す。そのような素晴らしい神を恐れ敬い、この方に従って行こうと改めて心に決める。そして、私たちの姿を見て、世界中がこの神の素晴らしさを知るようになる。礼拝という恵みは、私たちを世界へと宣教に遣わす。

伝えられる恵み(2015.2.1)

宣教題  「伝えられる恵み」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ1章9~12節

ペトロが証言するように、私たちは、福音を告げ知らせていただき、今も生きておられる主イエスを信じ受け入れ、主イエスと共に生きるのです。それほどに、主イエスは私たちに近い存在となってくださったお方なのです。ペトロは、そのことを生き生きと語り伝えています。

1.福音が伝えられる
「福音をあなたがたに告げ知らせた」(12節)との御言葉が響いています。それは、「この救いは」(10節)とあるように、ただ神の恵みによる「魂の救い」(9節)であり、今現に受けているもので、「終わりの時に」(5節)完成される救いの福音です。
なお、この魂の救いとは、単に心の救いを述べているだけではなく、主イエスを信じる人の生き方が大きく変えられる救いです。その人のうちに、愛と信頼と喜びが満ち溢れ、試練をも神への全き信頼へと純粋なものに変えていくのです(6~8節)。
この福音が今日まで告げ知らされてきたことは、大きな恵みでした。ですから、この魂を救う福音が、もっと早く、多くの人々に伝えられることが、私たちの切実な願いなのです。

2.聖霊に導かれた人を通して伝えられる
ペトロは、救い主がまだ訪れていなかった旧約時代を振り返っています。預言者たちは、やがて訪れる救いの時を待ち望みつつ、それが誰を意味し、どういう時を指しているかを探求し、注意深く調べたのでした。そして、彼らの「内におられるキリストの霊」によって、キリストの十字架の苦難と復活の希望の光を示してきたのです(10~11節)。しかも彼らは、それが自分たちの時代に実現するのではなく、やがてその福音によって救いにあずかる人々のために仕えているとの自覚を持っていました(12節a)。
福音は、今に至るまで、聖霊に導かれて福音を告げ知らせる人々によって届けられてきました。その恵みは、天使たちも見たいと切望しているのです(12節b)。そして、この福音を告げ知らせることは、私たちにも託されています。そのためにも、私たちは、まず福音の恵みをしっかり味わい、大切に見つめ直すことが必要なのです。

礼拝のご案内・行事予定(2015.2)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び    1階集会室にて
お話は毎回完結します。いつでもお入りください。
1日(日) 第1聖日 総会礼拝
「伝えられる恵み」
1ペトロ1章9~12節
幼子のように
マタイ18:1~5
鎌野 健一
8日(日) 第2聖日 礼拝
「神のわざを記憶し続ける」
ヨシュア4:1−24、2テモテ2:8
祈りと証し
15日(日) 第3聖日 礼拝
「涙の出会い」
ルカ7章36~50節
七たびを七十倍するまで
 マタイ18:21~35
 大塚 章信
22日(日) 第4聖日 伝道礼拝
「神の出番」
マルコ2章1~11節
仕える生き方
 マタイ20:20~28
  佐藤 正雄

 祈祷会   恵みの分かち合い (毎週水曜日)   AM 10:30 ~12:00、PM  7:00 ~  8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

2月行事予定

1日  (第1聖日) 総会礼拝   聖餐式  教会総会 2月誕生者祝福
8日  (第2聖日) 礼拝 教会員の御言葉の学び5  役員会
15日(第3聖日)   礼拝 各会総会
22日(第4聖日)伝道礼拝

3月行事予定

1日  (第1聖日)礼拝 聖餐式 3月誕生者祝福  新任教師研修会1
8日  (第2聖日)礼拝 役員会  新任教師研修会2
15日(第3聖日)伝道礼拝 Happy Sheep  新任教師研修会3
22日(第4聖日)礼拝 春の聖会
27-29日 JC&YCスプリングキャンプ
29日(第5聖日)パームサンデー礼拝  新任教師研修会4

 

仰ぎ見て生きる(2015.1.25)

宣教題  「仰ぎ見て生きる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章15~23節
「ヨハネによる福音書」は、真実な神の愛が響き渡っています。その神を仰ぎ見ることが信じることであり、そこから神と私たちとが響き合う間がらとしての人生がつくられていくのです。それは、どのように生きる日々となり、人生となるのでしょうか。

1. 主体的に生きる
復活された主イエスは、ペトロにこれからの生涯の生き方について話されました。ペトロが、仲間のヨハネを見て、「主よ、この人はどうなのでしょうか」と尋ねました。それに対して、主イエスは「あなたは、わたしに従ってきなさい」と言われました(20~22節)。それは、人がどう見ているか、何と言っているかでなく、神がどう見ておられるか、何といっておられるかに関心を持つようにということです。
このように、主イエスは、ご自身を仰ぎ見て、主体的に生きることを一人一人に勧められるのです。主イエスは、一人一人の魂のために十字架にお架かりくださり、救いの道を開いてくださることによって愛を現してくださいました。人を見てがっかりしたり、逆に威張ったりして振り回されるのではなくて、一人一人を神は愛してくださり、期待しておられることを知って歩み出したいものです。

2. 使命に生きる
ペトロは、主イエスの十字架を前にして裏切ったことを悩み、心痛み悔いていました。主イエスは、ペトロに「わたしを愛しているか」と問いかけられたとき、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えていますが、それを三度も繰り返されています(15~17節)。主イエスを信じることは、変わらずに愛し抜いてくださる主イエスを愛することなのです。
続いて、主イエスは、ペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と使命を託し、「わたしに従いなさい」と招かれたのです(15~19節)。このようにして、主イエスはペトロを信頼され、ペトロもまた主イエスを信頼したのです。
十字架で身代わりの死を遂げられ、復活された主イエスを仰ぎ見るならば、私たちの生き方は変わってくるのです。