月別アーカイブ: 2016年4月

礼拝ご案内・行事予定(2016年5月)

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
1(日) 第1聖日 礼拝「共に重荷を負い合いつつ」
ルカ10:1~16
聖霊待望の祈り 使徒1:12~14
鎌野 健一
8(日) 第2聖日 母の日礼拝「互いの謙遜」
1ペトロ5:1~5
ルツ    ルツ1:15~18
大塚 章信
15日(日) 第3聖日 ペンテコステ感謝礼拝 「聖霊による心のきよめ」
使徒言行録15:6~11
ペンテコステの恵み  使徒2:1~11
真田 重治
22日(日) 第4聖日 礼拝 「思い直される神」
ヨナ3:1〜10
キリストの名による歩み  使徒3:1~10
増永 茂
29日(日) 第5聖日 伝道礼拝 「野の花を見よ」
マタイ6:25~34
祈りと証し

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

5月行事予定

1日(第1聖日)礼拝 聖餐式 5月誕生者祝福
8日(第2聖日)母の日礼拝 銀婚式 役員会
15日(第3聖日)ペンテコステ礼拝  献児式   JC&YC例会
22日(第4聖日)礼拝 Happy Sheep
29日(第5聖日)伝道礼拝  献児式  質問受付会

6月行事予定

5日(第1聖日)教会総会礼拝 聖餐式 6月誕生者祝福  教会総会(定期総会)
12日(第2聖日)礼拝  花の日訪問
19日(第3聖日)父の日礼拝  特別伝道集会
26日(第4聖日)海外宣教日・伝道礼拝  教師研修会2

新しいボス(2016.4.24)

宣教題  「新しいボス」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  1テサロニケ1章9~10節

クリスチャンとなるとは、きれいではなく、ずるい世界の真ん中で、きれいでずるくない世界を造り出す人となることである。そのためには、新しいボスの下に付かなければならない。
悪いボスの典型例が、旧約聖書に登場するエジプトの王ファラオである。ファラオという主人のゆえにイスラエルは不幸となり、命を失い、滅びそうになっていた。イスラエルの民の運命をボスであるファラオが握っていたからである。
イスラエルの民をひどいボスから解放するために立ち上がられたのが、世界のすべてを造り、天に住まいながらも、地上におけるあらゆる出来事に深くかかわり続けておられる「生けるまことの神」(9節)であった。十の災いと葦の海を分けることを通して、ファラオを打ち破り、イスラエルを解放した。ただし、イスラエルはファラオのやり方に慣れきってしまっていたために、「生けるまことの神に仕える」(9節)という歩みを簡単に選び取ることはできなかった。
あなたの人生のボスはなんだろうか。あなたのボスは、あなたを通してきれいなもの、ずるくないものを生み出しているだろうか。人を支配しているボスのほとんどが、ファラオのようにあなたを苦しめ、あなたを失望させる。「生けるまことの神」以外のすべてのボスは、あなたをあなたが一番なりたくない人の姿へとあなたを変えていく。すべてのボスが、罪と死という人を苦しめるボスの下に仕えているからである。
生けるまことの神は、2000年前にイエス・キリストを送られて、罪と死に対して十字架で戦われた。力をもって戦われたのではない。あらゆる悪と憎しみと腐敗と破壊を十字架でご自身の身にすべて負われ、もっともきれいではなく、もっともずるいもののすべてを受け入れることによって戦われた。その結果、罪と死の力はその牙を完全に抜かれ。イエスを通して、「生けるまことの神」は完全に勝利され、あらゆるボスに仕えて苦しんでいる人々に奴隷解放令を出してくださった。そして、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるように」(9節)に招いていてくださっている。
新しいボスを選ぶことができる。きれいで、ずるくない世界を造り出すあなたになる道がある。イエスによって勝利された「生けるまことの神」に向かって、「あなたがわたしの人生のボスになってください」と祈り求めることからすべてははじまる。

この小さな者たちの一人にしたのは(2016.4.17)

宣教題  「この小さな者たちの一人にしたのは」     宣教 岩上 祝仁師
聖 書  マタイ25章31~46節
トルストイはこのたとえ話をもとに「愛のあるところに神はいる」という小説を書いた。靴屋のマルティンとして有名な動画である。愛の業の大切さを教えている。
マタイは主イエスのたとえ話を主の最後の説教として書いて、重要さを現した。

1. このたとえの中心は単に行ったか行わなかったかではなく、心から出て来る行動に主イエスは注目しておられる。
このたとえには、どちらも・・・・してくれた。・・・・してくれなかったという表現で、私たちの行動が問われている。しかし、良くたとえを読んでみると、行った者も、行わなかった者もどちらも「いつ、わたしは しましたか?(しませんでしたか?)」と語っている。それは無意識の行動、もう少し言い換えると私たちの普段のあり方そのものが問われている。私たちの心と性質が主の前に問われている。「木のよしあしはその実によって知られる。」今朝、まず私たちが罪を悔い改め、主イエスにつながることによって、良き実を結ぶ者とされていることを確認しよう。

2. 主イエスは、この言葉で私たちの生き方そのものを変えようとされた。
私たちは小さい者と相手を認識した時点で、その人を見下し、自分を高めてしまう傲慢の誘惑に陥っている。そして、小さい者のために何かが出来ることで、自己満足してしまう。さらに小さい者から見返りがない時には不平不満が出て来ることにもなる。そんな私たちに対して、主イエスは、最も小さい者のひとりにしたのはわたしにしたのですと語られる。主イエスの愛に応答して、愛の業に励む様にと変えられるからこそ出来るようになる。自分のためでもなく、相手のためでもなく、主イエスのために愛に生きる様にとの主の招きである。
最後に、この神の愛に生きるためには、自らのもっている人間的な愛では到底間に合わない。自らの汚れた愛を主イエスの十字架によってきよめて頂き、聖霊によって私たちの心に注がれ、満たされる神の愛がこれを可能にする。そして、真実に愛を求め、愛に生きる者に主は永遠の御国を継がせて下さるお方である。

主の真実のゆえに(2016.4.10)

宣教題  「主の真実のゆえに」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ4章12~19節

「真実であられる創造主」は、創造されたもの全てを治め、保っておられます。何よりも創造の冠である人間の救いのために、十字架と復活の御業を通して永遠の救いに与らせてくださいました。私たちは、このように真実の限りを尽くしておられる主を見失うことなく、今の現実や苦しみと向き合うことが必要です。

1.苦しみを受ける中で
いろいろな試練の中には、「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練」があります(12節)。このように語られる背後には迫害と殉教の歴史がありますが、今日の私たちとは直接関係のないこととして読み過ごすことはできません。
ここに、「キリストの苦しみにあずかる」(13節)、「キリストの名のために非難される」(14節)、「キリスト者として苦しみを受ける」(16節)、そして「神の御心によって苦しみを受ける」(19節)とあります。いかなる時にも、このように生きることが、キリスト者の生活なのです。この苦しみを受けることが間違っているのでもなければ(12節)、決して恥じることでもありません(16節)。キリストに倣うこととして、幸いなことなのです(マタイ5章10~12節)。真実な主のために担う苦しみは、敗北ではないのです。

2.信仰に生きることを学ぶ
恵みにより神のものとされることによって、今の苦しみは喜びとなり、将来の歓喜の先取りとなります(13節)。聖霊によって励まされ、助けられているからです(14節)。それゆえに、神をあがめ、神に栄光を帰するのです(16節)。そして、真実であられる創造主に自分の魂をゆだね、信頼するのです(19節)。
私たちは、苦しみや試練を経験する様々な状況の中で、神の真実を疑ったり、そうしたことに耐えられるだろうかと思ったりします。しかし、人は、信念で苦しみや試練に耐えることができるのではありません。真実なキリストが戦っていてくださるのですから、このキリストにゆだねて歩み続けるだけなのです。

真実なキリストに向かって(2016.4.3)

宣教題  「真実なキリストに向かって」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章57~62節

ここで語られている三つの対話は、一貫した「従う」という主題を持っています。
それは、バプテスマの恵みに与った者が、終生変わらないでキリストに従う信仰に生きるようになるためです。ものを考える時にも、事を行う時にも、「これがキリストに従う生き方か」という問いを持ち続けるようになることです。

1.真実を貫かれたキリスト
キリストは、十字架と復活の時が近づくのを覚えられ、エルサレムへの道に向かわれました。そこには、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」(ルカ9章51節、口語訳)と、キリストは父なる神に全面的に明け渡してその御心に委ねられ、贖罪者としての使命を成し遂げようとされる決意が表れています。この平静さをもたれた輝きは、十字架上の最後の祈りに結集しています(同23章46節)。そして、「必ず」と言われたキリストの十字架と復活の御業に集中しています(同9章22節)。
ここに、キリストの真実な愛を見ます。キリストは、約束されたことは「必ず」成し遂げられることにおいて、御自身を否むことはなさらないという真実を貫かれました(2テモテ2章13節)。私たちは、この恵みをしっかり受け取るのです。

2.真実な心をもって従う
キリストを受け入れ、キリストに結ばれて歩む者は皆、キリストに学び、キリストに倣う、キリストの弟子です。そこで、キリストは、御自身に従うときに犠牲を払うことができるか、と問いかけておられます(57~58節)。また、従うのは今です、と命じておられます(59~60節)。そして、条件をつけないで福音に生きることを勧めておられます(61~62節)。これらは、真実の限りを尽くされたキリストに対して、真実な心で従うことの大切さを語られたのです。この福音書の著者ルカが、そのように生きた証人です(2テモテ4章11節)。
キリストは、「わたしに従いなさい」と私たちを召し出していてくださいます。キリストの真実な御心の分かるキリストの弟子としていただきましょう。