月別アーカイブ: 2015年10月

礼拝ご案内・行事予定(2015.11)

 

礼拝はキリスト教会の最も大切な行事です。私たちのいのちの糧である聖書の言葉が、わかりやすく語られます。讃美歌を歌い、祈ります。 神さまを讃え、救いにあずかった感謝を表します。

◎ 主日礼拝 (毎週日曜日)
第1礼拝 :AM 9:00 ~ 10:15
第2礼拝 :AM10:45 ~ 12:00
第3礼拝 :PM 7:00 ~ 8:00
○成人科プログラム (毎週日曜日)
AM9:30 ~ 10:15
楽しい聖書の学び 1階集会室にて
お話は毎回完結します。
いつでもお入りください。
1(日) 第1聖日 聖徒の日記念礼拝「日々、主とともに」
ルカ9章18~27節
罪赦された者として  ルカ7:36~50
鎌野 健一
8日(日) 第2聖日 特別伝道礼拝「赦しを求めて」
ルカ23章26~43節
祈りと証し
15日(日) 第3聖日 幼児成長祝福礼拝 「祝福を受け継ぐため」
1ペトロ3章8~12節
ザアカイ   ルカ19:1~10
佐藤 正雄
22日(日) 第4聖日 収穫感謝礼拝  「契約:福音に応えるために」
ヨシュア24:14-28、ヘブル8:10
恵み深き神への賛美   詩篇65:1~13
真田 重治
29日(日) 第5聖日 待降節・伝道礼拝 「降る愛」
イザヤ9章1~6節
答えられた祈り  ルカ1:8~25,57~66
増永  茂

祈祷会 恵みの分かち合い (毎週水曜日)  AM 10:30 ~12:00、PM 7:00 ~ 8:30

祈祷会は毎日の家庭の祈りに加えてクリスチャンが心を合わせて神に問い、神と語る集会です。キリスト教にとって、祈りは「ご利益の祈願」や「瞑想」ではありません。 神さまのみこころが私たち世界に満ちることを願い、さらに救われたことを、神さまに感謝するものです。

11月行事予定

1日(第1聖日)聖徒の日記念礼拝 11月誕生者祝福  聖徒の日召天者合同記念会
8日(第2聖日)特別伝道礼拝 バルナバミッション祈り会 特別講演会
15日(第3聖日)幼児成長祝福礼拝 聖餐式  役員会
22日(第4聖日)収穫感謝日礼拝  大掃除
29日(第5聖日)待降節・伝道礼拝  チラシ配布  教師研修会3

12月行事予定

6日(第1聖日)待降節礼拝 聖餐式 12月誕生者祝福
13日(第2聖日)待降節礼拝  Happy Sheep・CSクリスマス祝会
20日(第3聖日)クリスマス感謝礼拝 洗礼式 クリスマス祝会
23日(水) JCYCクリスマス祝会
24日(木) クリスマスイブ礼拝
27日(第4聖日)年末感謝礼拝

仰ぎ見て生きよ(2015.10.25)

宣教題  「仰ぎ見て生きよ」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章20~25節

私たちの本当の生き方は、この一日を生きるということから始まって、大きいことばかりでなく、小さいことにも、ありとあらゆることを主なる神に信頼し、信じ仰ぎ見て生きることです。それを忘れて生きるとしたら、それが罪なのです。信仰とは、仰ぎ見て生きることなのです。

1.わき見しないで、キリストを!
ペトロは、主イエスと対面して、前向きに向き合う人生を始めました(15~20節)。
ところが、「ペトロが振り向くと」、主イエスが愛しておられた弟子がついて来ていました。そして、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いかけています。 ここに、自分自身と他者にこだわり続けているペトロの姿があります。それは、罪を犯した途端に、主なる神の顔を避けて隠れた人の姿でもあります(創世記3章参照)。
私たちは、この罪を赦してくださるために十字架にお架かりくださった主イエスを仰ぎ見て生きるのです。そして、主イエスがペトロだけでなく主が愛しておられた弟子に「生きている」ことを望まれたように、主イエスとその御言葉と愛にとどまって生きる者とならせていただきましょう(15章5節、7節、9節)。

2.達成感よりも使命感を!
ペトロにとっては、主が愛しておられた弟子が気になる存在でした。それをご存知であった主イエスは、ペトロに対して「あなたは、わたしに従いなさい」との使命に生きるように招かれたのです。人は、この使命感がはっきりすると、それを成し遂げていく達成感や生きがいをもって生きていくことができます。
このように、私たちには、主の弟子として、主の証人として歩む共通の使命が与えられています(22節、24節)。私たちは、主イエスを仰ぎ見つつ、各々の持ち場に遣わされて生きる者となるのです。「わたしに従いなさい」との主イエスの招きに応答させていただきましょう。

力あるあかし(2015.10.18)

宣教題  「力あるあかし」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ3章1~7節

イエス・キリストの救いの福音は、私たちの生活と関係があり、その日常生活の中に現れてきます。ここでは、妻と夫のことが語られていますが、「同じように」(1節、7節)とあるように、あらゆる立場の信仰者に示されている生き方でもあります。信仰が生活化されているのを「見る」ことを通して、力強いあかしとなるのです。

1.感化力をもって  1~6節
妻が夫に従うことを通して、夫が信仰に導かれて救われる、また信仰が回復される場合のことを語っています。そのために、妻が無言の行ないと神を畏れる純真な生き方が用いられるというのです。このときペトロは、裏切る者を無言のうちに愛の眼ざして見つめられる主イエスを想い起こしつつ語ったことでしょう(2章22~24節)。
キリストに結ばれて新しくされた者は、外面の装いではなく、内面的な装いに価値を置いた生き方になります。ちょうど、旧約聖書に登場する婦人たちも時代を越えてそのことを証しし、良き感化を及ぼしました。
神への畏れをもって、妻が夫に従い、また夫と妻が仕え合っていることは(エフェソ5章21節)、神に望みを託した者の生き方なのです。

2.祝福力をもって  7節
夫たちの頭上には、二つの命令が響き渡っています。一つは、「生活を共にし」すべての営みを愛をもってすることです。二つは、妻をかけがえのない人格として「尊敬」することです。そうすることによって夫は、妻が自分より弱い器であることを認め、温かい理解と態度を示すことになります。また、永遠の「命の恵みを共に受け継ぐ者」として、その祝福が見える形で今実現していることを自覚して生きることになります。
このようなかけがえのない夫妻は、互いに愛と尊敬と思いやりをもって、共に祈る信仰の同労者です。同様に、神の家である教会につながるお互いは、愛と尊敬と思いやりをもって、祈りを尊ぶ同労者なのです。

すべての約束の実現(2015.10.11)

宣教題  「すべての約束の実現」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア23章1~16節 エフェソ6章10~12節

クリスチャンの戦いは、究極的には神の武具によって悪魔の策略に立ち向かうものである(エフェソ6章11~12)。しかし、人間が戦えそうもない相手、そして目の見えない相手とどのように戦うのだろうか。

1. すべての戦いは主の戦い
約束の地の征服のための戦いを終え、年老いたヨシュアは、その生涯を振り返りつつ、これまでの戦いは、すべてイスラエルの神である主が戦われたものであると述べた。イスラエル自身もそのことを見てきた(ヨシュア23章3節)。イスラエルは戦ってきたが、それはあくまでも主の戦いであった。わたしたちの悪魔の策略との戦いも、主の戦いである。

2. 過去の戦いから将来の戦いへ
約束の地での戦いはまだ続く。くじによって各部族に分け与えられた土地を獲得する戦いに向かう必要がある(4節)。主は、過去もそうであったように、これからも戦われると約束してくださっている(5節)。これまでヨシュア記で起こってきたことがこれからも続くからこそ、一人で千人を追い払うことができる(10節)。ところが、主の戦いであっても、イスラエルには、モーセの教えの書に従い、他の神に仕えず、主ののみ信頼することが求められている(6~8節)。彼らがこのようには歩まないとき(12節)、この土地から彼ら自身が滅び失せる危険性があるである(13節)。事実、士師記を見ると、約束の地でイスラエルは危機に瀕していた。

3. すべての約束は守られる
なぜ主はイスラエルの行動に基づいてご自身の戦いを戦われるのだろうか。それは、主がイスラエルを、そして私たちをこの世界におけるご自身のパートナーと見なしておられるからである。そして、パートナーである者たちと共に戦うために主が用意されたのが、主の約束である。主が約束された通り、すべてのよいことはこれまで行われてきたし(15節)、契約を破るならば約束通り、パートナーには滅びがおとずれる(16節)。すべての約束を守られる主だから、パートナーである私たちがどのように応答するかに応じて、主はご自身の戦いを進められる。
だから、「主に依り頼み、その偉大な力によって」強くされ、主に忠実でありつづけるように招かれている(エフェソ6章10節)。主は約束のすべてを守ってくださる方であるからこそ、主の約束を知り、それに忠実に生きていこうではないか。

あなたがた自身で(2015.10.4)

宣教題  「あなたがた自身で」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章10~17節

主イエスは、群衆を深い憐れみの御心をもって恵みの御業をなされました(11節、マルコ6章34節)。続いて主イエスは弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)と恵みの御業に加わるように招かれ、彼らを用いられました。それは、主イエスの憐れみと豊かな恵みに生かされている者が、共通して経験することです。

1.主イエスは仕える力を供給される
主イエスは、弟子たちが五千人の人たちに食べ物を与えることができないことを知っておられ、ご自身がなさろうとされることを腹の中にしまっておいて、弟子たちを試されました(ヨハネ6章5~9節)。このようにして主イエスは弟子たちに、自分たちでは何もできない者であることを、とことん教えようとされたのです。そして、主イエスが五千人に食べ物を供給しようとされていることを明らかにされたのです。
この出来事を通して、主イエスは、福音を伝え福音に仕える者をどのように用いられるかを教えておられます。それは、私たちの無力さを分からせていただき、主イエスの恵みによって砕かれ、恵みの器にさせていただくことなのです。恵みの供給と力は、主イエスからくるのです。

2.主イエスはささげるものを用いられる
何と主イエスは弟子に、「それをここに持って来なさい」と言われました(マタイ14章18節)。そして、五つのパンと二匹の魚は主イエスの手に渡され、祈りのうちに祝福されて、弟子たちを通して配られたのです。
私たちに託されているものが、どんなに小さなものであっても、それが主イエスに渡されると何倍にも祝福され、その結果私たちを通して用いられるのです。ですから、私たちは、主イエスが「あなたがた自身で」と言われるときに、その力は主イエスから来ることを知って、「わたしをささげます」と主イエスにお返しすることが求められているのです。