月別アーカイブ: 2013年5月

わたしは門である(2013.5.26)

宣教題  : 「わたしは門である」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ10章7~9節
私たちの人生は、大小さまざまな決断の連続を繰り返しています。とりわけ、人生の大切なことがらに関しては、後で後悔しなくてもよいように、その決断を助けてくれるものを求めます。
主イエスは、そのような私たちに、重い問いかけをされました。

1.狭い門から入れ  マタイ7章13~14節
人生には、滅びに通じる門と命に通じる門があるというのです。多くの人が殺到する人生の広い門は、その先が行き詰まりで、滅びです。一方の狭い門は、罪赦されて天国に招き入れられるという永遠の命の保証がありますが、それを見い出そうとする人が少ないのです。
その狭さは、私たちの側に何かの資格、行状、品性などにおいて条件を満たしていることを要求されるものではありません。そのようなことが問われるのであれば、初めから諦めるしかないのです。ただ、ある一つの門をくぐるという点においてだけの狭さがあるというのです。

2.イエス・キリストこそが門である  ヨハネ10章7~9節
羊飼いである主イエスは、羊である私たちと出会うために来られたのであり、そのために羊飼いはただ一つの門を通られました(ヨハネ10章2節)。それは、私たちの罪の赦しのために十字架の死を遂げられたという門です。
私たちは、どんなに努力し信心しても、新たに生まれ変わって、天国の一員となることは到底不可能なことです。「わたしこそが門である」と言われる主イエスが、十字架と復活によって神の救いに与からせてくださる救いの門を開いてくださったのです。この救いの門は、誰にでも開かれています(ヨハネ3章3節、5節)。それが狭いというのは、ただ罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じるという点においてなのです。さらに、この救いの門は、一人一人が入らせていただくということで狭いのです。

聖霊の導きに従って(2013.5.19)

宣教題  : 「聖霊の導きに従って」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章1~6節  ガラテヤ5章25節
イースターから50日目にペンテコステがあり、一つ所に集まって祈る人々の上に約束の聖霊が下り、一人一人が聖霊に満たされました(使徒言行録2章1~4節)。その結果、彼らは力強い主の復活の証人となり、人々が主を信じるようになり、キリスト教会の誕生となったのです。その聖霊は、今も私たちを導いておられます。

1.聖霊の導きに従う確かさ  1節~5節b
ここには、パウロや主の弟子たちが、聖霊に導かれて歩む様子が描かれています。聖霊に促がされてエルサレムに向うパウロは(使徒言行録20章22~24節)、ミレトスから長い距離の船旅をしてティルスに到着しました。そこに住んでいた主の弟子たちは、聖霊に動かされて、パウロに迫害が待ち受けていると思われるエルサレム行きを繰り返し反対しました。しかし、結果は、聖霊がパウロを導いておられることを重んじて、その導きに従ったのでした。
私たちにとっても、自分の決意や意志に集中して歩むのではなく、聖霊に導かれて歩むことが確かな生活です(ガラテヤ5章25節)。その聖霊の導きを喜びとし、それに従って行くならば、神の永遠の約束の地につながる道となるからです。

2.聖霊の導きに従う秘訣  5節c~6節
主の弟子たちが、パウロへの聖霊の導きを、どうして自分たちの導きと受け取ることができたのでしょうか。それは、共にひざまずいて祈ったからで、お互いに主の臨在の前におのれを捨てて、謙り、聖霊の確かな導きに従ったからでした。
この背景には、父なる神の御心に従ってエルサレムに向われ(ルカ9章51節)、ゲツセマネでひざまずいて祈られた主イエス(同22章41節)と同じ信仰で生きたパウロの姿があります。
聖霊の導きに従う秘訣は、ひざまずいて神を礼拝し、祈るところにあります。そこに、キリスト教会の一致と、赦しと、和解と、平和があるのです。

主の日を望みつつ(2013.5.12)

宣教題   : 「主の日を望みつつ」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖書  : アモス 9章5~15節
聖書におけるビジョンは、「こうなればいいな」という空想ではない。目の前にある現実とは違うが、やがて来ると確信し、実際に確かに到来するなにかを指している。

1.全世界を支配し、導かれる主(9:5-7)
大地を自由に動かすことが主にはできる(5)。大空は主が据えたものであり、海の水も自由に動かし、雨を降らせることもできる(6)。更にはイスラエルのみならず諸国民の移動も主が導いている(7)。アモスは、イスラエルの神である主がすべての造られたものを支配し、ご計画に則って導かれているというビジョンを持っている。

2.民を整える主(9:7-10)
イスラエルは主に選ばれた民である(8)。しかし、彼らの姿は奴隷であった他国民と変わらないし、出エジプトも諸国の大移動と変わらない(7)。「罪に染まった王国」であるならば、イスラエルだろうとなかろうと主は公平にさばき、ふるいにかけて、仕分ける(9-10)。アモスは、選ばれた者を主は整えるというビジョンを持っている。

3.使命を全うする主の日を備えられる主(9:11-15)
イスラエルが選ばれたのは、主から与えられた使命を果たすためである。そして、ついには使命を全うすることができる者となる「主の日」が到来する。主はダビデの子である王を送り、その支配を国内外に確立させる(11-12)。国を豊かな農産物が溢れるところへと再建する(13-15)。イスラエルに対して自らを「あなたの神」(15)と呼ぶ方がそのようにする。イスラエルが豊かになるだけのためではなく、世界へその祝福を溢れ流れさせるためである。アモスは、選ばれた民が主から与えられた使命を全うできるようにされる日が来るというビジョンを持っている。
昇天されたイエスは、天の王座、ダビデの位に着き、その支配を確立された。預言者のビジョンが実現したペンテコステの日が到来した。アモスのビジョンは今、ここに来ている。だからこそ、このビジョンを確信して、歩もうではないか。

一人一人を愛される主(2013.5.5)

宣教題  : 「一人一人を愛される主」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ 4章38~44節
主イエスは、何よりも一人一人を愛して、懇ろに届いてくださるお方です。その主の愛の御業は、カファルナウムにおける安息日の礼拝において(31~37節)、その日が暮れで安息日が終わる場面において(38~41節)、そして翌朝の宣教へと続いています(42~44節)。

1.日常的な事柄に関わってくださるために  38~41節
先には、大勢が集まっていた会堂での礼拝において汚れた霊に取りつかれた一人の人のいやしがなされ、ここではシモン・ペトロの家で彼の姑のいやしがなされました。人々は、会堂では言えなかったのですが、主イエスが家に来てくださったので話すことができたのでした。続いて、主イエスのもとに連れて来られた「一人一人に手を置いていやされた」のでした。
主イエスは、今も変わらず、誰に対しても一人一人に、しかも日常的な様々な出来事の一つ一つに、愛をもって関わってくださいます。これは、私たちにとって大きな慰めです。

2.必ず神の国に招き入れるために  42~44節
翌朝、主イエスは人里離れた寂しい荒野へ出て行かれて、父なる神とお会いし、その御心を求められました。そうしておられる主イエスを群衆は捜し回り、続けて多くの人々の病をいやしていただくことを求めました。父なる神の御心は、病を癒すことが最終目的ではなく、人々を神の国に招き入れ、そこで生きる喜びを宣べ伝えることでした。これは、必ず成し遂げられなければならないことだったのです。
神の国に招き入れられるとは、聖霊による罪の赦しが与えられ、聖霊によって神との平和の関係が回復され、聖霊による喜びが与えられる恵みに生きることです(ローマ14章17節)。このために、主イエスは十字架と復活による救いを成し遂げてくださったのです。神の国の福音に生きる一人一人とさせていただきましょう。