日別アーカイブ: 2009.02.15

共に手を携えて(2009.2.15)

題   : 「共に手を携えて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 6章1節~13節
私たちの究極の居場所は、私たちの造り主にして、私たちを愛してやまない神のもとにしかありません。私たちは、一人ひとりが神と共に歩み、神を中心にして互いに生かされ、そして遣わされて生きるのです。

1.主イエスと共に
主イエスは、郷里ナザレで神の国の福音を宣べ伝えられましたが、多くの人々は耳を傾けようとしませんでした(1~3節)。それに対して、主イエスは、せっかくの恵みの機会を彼らが逸していることを嘆いておられます。
そして、信仰が期待されているところに、不信仰しか見出せなかったことを驚いておられます(4~6節a)。人が主イエスに対する信仰がないと、主が働かれないのではなく、働けないのです。
それでも主イエスは、伝道を進めていかれます。そして、そのために12人を呼び寄せ、伝道の使命を託し、権威と力を与えて遣わされました(6節b~7節)。
主イエスは、これを通して神に対する信頼を確かにすること、人を信頼すること、結果は神に委ねることを教えられました(8~11節)。神に立ち返る悔い改めの伝道がなされる時に、主イエスご自身が共に働かれることを経験させていただけるのです〈12~13節、16章20節)。

2.同労者と共に
主イエスが、「二人ずつ組にして遣わすことにされた」(7節)のは、なぜでしょうか。互いが、協力し、助け合い、励まし合い、慰め合い、祈り合いながら伝道するためです。そして、主から訓練を受けつつ学び進めていくためです。
後に、無学な普通の人であったペトロとヨハネは、大胆な態度で伝道をしています(使徒言行録4章⒔節)。そこには、福音を語るペトロがいます。そして、彼と一緒になって協力し、支え、労苦を共にしているヨハネがいます。それだけではありません。キリストに救われて喜んでいる無言の証人がいます(同⒕節)。彼らは、ただ「イエスと一緒にいた」者たちでした。
伝道は一人でできるというのは傲慢です。主に遣わされて、教会の仲間と共に歩み、労するところから生まれます。そこに祝福があるのです。