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キリストは他人を救った(2020.8.23)

聖書

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23章43節)

礼拝音源(28.6MB) 

礼拝順序

前  奏
招  詞 第1ヨハネ3章16節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 51編1~21節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章32~43節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 298 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストは他人を救った」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 433 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

人は誰でも死に向かい合って生きていますが、キリストの十字架の救いの恵みによって生きるならば、その死は勝利となります。キリストは、当時の人々に「他人を救った」と嘲られましたが、それは私たちの救いと深いかかわりがあるのです。

1.キリストは十字架で命を捨てられた

自分を救うことなく他人を救われたキリストは、私たちの罪を負って神に呪われてくださったのです(イザヤ書53章3~5節)。そのようにして、自発的にご自分の命を捨ててくださったのです(ヨハネ10章11節、18節)。

そうすることによって、私たち一人ひとりの罪を赦し、失われた神との交わりを回復してくださいました(34節)。人が求めてやまない愛と平安は、キリストによる罪の赦しを受け入れることから生まれるのです。

2.キリストは罪人を救われる

神を恐れたひとりの犯罪人は、自らは十字架刑を受けることは当然だと認めつつ、キリストは十字架に架かられる必要のないことに気づきました(40~41節)。それゆえに、彼はキリストの憐れみにすがり、信頼して「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」との願いを申し出ています(42節)。そして、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とのキリストの呼びかけに応答した時が、彼の「今日」の救いとなりました(43節)。

私たち一人ひとりは様々な状況下に置かれています。それがいかなる時であっても、キリストの呼びかけに応答する「今日」が、あなたの救いの時となるのです。

 

 

 

 

罪を赦される方(2020.3.15)

宣教題 「罪を赦される方」        宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ2章1~12節

イエスは再び、カファルナウムのペトロとアンデレの家に帰って来られた。イエスは救いを求める人がいるところに来て下さる。

1.イエスの元に集まる人々
 イエスのところへは、群衆、中風(麻痺)の人一行、律法学者たちが集まって来た。群衆は言い広まったイエスの評判を聞き、見に来た。中風の人一行は癒しを求めて。律法学者たちは偵察のため。それぞれの目的があった。

2.中風(麻痺)の人の罪の赦し
 当時は、体が麻痺して動かない人は、汚れた者として神の前に出ることができなかった。そうなった原因は、罪を犯したためと言われていた。(イエスは、それを否定していた[ヨハネ9:2,3])。イエスは病を癒すより、中風の人の罪を赦した。その人の本当の必要に応えられた。そこには、大きな喜びと平安があったであろう。
 罪が赦されたことは、外から見ていても分からない。律法学者たちはイエスが罪を赦す権威を持っている事が分からず、神を冒涜していると考えた。イエスは罪を赦す権威がある証明として、中風を癒した。難しい事を行うことが出来れば、より易しいことは当然行う事が出来るという証明方法であった。見ていた群衆は神を賛美した。

3.当事者になっているか
イエスは、日々私たちのところへも来てくださる。私たちは、群衆ではなく、律法学者でもなく、イエスの元に癒しを求めて来た中風の人のように、救い主イエスの前に出て、血潮による約束の赦しと、立ち上がる力を日々受け取ろう。そして、イエスの使者として喜びをもって遣わされる者とならせていただこう。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(14MB)

神が召すとき(2019.6.30)

宣教題 「神が召すとき」          宣 教  大嶋重徳師 
聖 書 イザヤ書6章1~13節

ウジヤ王の死んだ年にイザヤは神殿で幻を見ます。神の為さることの全てに神のご計画があるのであれば、この時、イザヤに神は語らなければならないことがありました。イザヤの住む南ユダ王国は偶像礼拝、姦淫、不品行が満ち、形だけの礼拝をする民が多く居ました。すでに預言者の働きを始めていたイザヤにとって、ユダの状況は怒りと裁きの預言を語るしかなかったのです。

しかし神はご自身をイザヤにあらわされ、イザヤに「わたしは汚れた唇の者」さらに「汚れた唇の民の中に住む者」(5節)と自らの罪とユダ王国の罪人の繋がりの中にいる自らの存在の告白に導かれます。そして「すると」(6節)という言葉と共に、神の側の一方的な救いの業が起こり、「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(7節)という赦しの宣言がイザヤに聞こえてくるのです。

キリスト者は、自らの罪深さを深く知りつつ、尚、礼拝の只中で神の圧倒的な赦しに身を置いていることを深く知らされていく者とされているのです。そしてさらにイザヤは驚くべき神の声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」(8節)。この驚くべき神の召命の実際を聞いたイザヤは「主よ、いつまででしょうか」(11節)と自らが受けた救いをあのイスラエルの民の中でいつ実現するのでしょうか?という祈りをささげ、キリスト預言に生涯をささげました。

私たちは今日、自分に与えられた救いの事実からどのように主の召しに生きるように導かれているでしょうか。

聖書朗読(1.1MB)

メッセージ(15.7MB)

あなたの罪は赦される(2018.1.14)

宣教題  「あなたの罪は赦される」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章1~12節

イエス様が中風の人を癒された出来事から、わたしたちには何が最も大切なのかを見ていきましょう。

1.子よ、あなたの罪は赦される
 イエス様が町に入られると、そこに中風の人が運ばれてきました。するとイエス様は、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。罪を赦すことのできるのは神だけです。イエス様は神としての罪の赦しを宣言されたのです。それは、神の国は既に来ているのだから、神の子として、新しい命に生きなさい、ということを人々に告げようとされたのです。

2.イエスとは誰か
 イエス様の言葉に律法学者たちは心の中で神を汚す言葉だと論じます。しかしイエス様は続いて、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。それによってイエス様は、自分には罪を赦す権威があり、自分が誰であるかを示されたのです。そして神の国が既に来ており、神に近くあることの幸いに生きる者となるように告げようとされたのです。

3.その人たちの信仰を見て
 イエス様は、中風の人の信仰ではなく、彼を運んできた人たちの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。確かに癒される人の信仰は大切ですが、その人の良き業によって罪が赦されるのではなく、イエス様の憐れみ、イエス様の執り成しによるのです。
 わたしたちにとって最も大切なのは、隣人への愛とイエス様への信頼です。そこに神の御業が現わされていくのです。そのことを求めて共に祈りましょう。

神の出番(2015.2.22)

宣教題  「神の出番」                宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マルコ2章1~12節

ここに登場する中風の人とその仲間たちは、自分たちの力ではなすすべもない課題に対して神の出番を望み、さらに彼ら自身が気づいていない最大の問題の解決に対して、権威ある神の出番の必要を促がされました。

1.主イエスにひたすら依り頼むときに
不自由を覚えていた「中風の人」は、お会いしたいと願っていた主イエスの所に彼の仲間たち四人によって運ばれてきました。彼らは、無礼を承知で、乱暴とも思える方法を用いました。
それに対して主イエスは、中風の人に憐れみの心を抱かれたというよりは、必死になって彼を主イエスの前につり下ろした仲間たちの信仰を見られました(5節)。彼らは、愛に促がされて、主イエスにひたすら依り頼んだのです。この信仰が、神の救いへの導きとなったのです。
このように、一人の人が主イエスに出会うために、その人をめぐる人々の愛と信仰と祈りのあることを知るのです。

2.罪を赦す主イエスの権威に触れるときに
主イエスは、仲間たちの信仰を見られて、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と宣言されました。主イエスは、このことを通して因果応報を教えておられるのではありません。どんな病気をしていようと健康であろうと、どんなに苦難にあろうと幸せな生活を送っていようと、誰もが主イエスによって罪を赦していただくことなしに、神との交わりを回復していただき、本当に健やかに生きることはできないのです。
私たちは、主イエスが十字架上でご自身の命を投げ出して告げてくださった罪の赦しを聴きつつ(ルカ23章34節)、自分の罪の深さに気づくのです。そして、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11節)との権威ある御言葉に立って、魂も心も体も自由にされて自分の足で歩み始めるのです。

涙の出会い(2015.2.15)

宣教題  「涙の出会い」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ7章36~50節

ここに登場する一人の女性は、主イエスの足を自分の涙でぬらしています(38節、44節)。主イエスは、彼女を泣くに任せられ、その涙を受け入れ、喜んでおられます。この女性が主イエスに出会ったような出会い方で、私たちも主イエスに出会っていくことが大切です。

1.主によって罪の赦しをいただいた出会い
ファリサイ派のシモンが、主イエスを自分の家に招いて食事を共にするという交わりをしています。そこに「罪深い女」が入って来て、最大限の愛の業をしたのです(38節)。その行為は、悔い改める心をもった主イエスへの心からの信頼と、繰り返し尊敬の念を表し続けるものでした(45節)。主イエスがこの女性をどう見ておられたかは、そのたとえ話を通して明らかにされています(40~43節)。
主イエスによって罪が赦されたことを自覚した者は、惜しみない愛を表すようになるのです(47~48節)。主イエスに対する信仰が、私たちの罪を赦し、神に近づき、神と共に歩む新しい人生をつくるのです(50節)。

2.主を愛することを知った出会い
主イエスを迎え入れたシモンには、罪深い女がいただいていた信仰と真実さが欠けていました。その心は冷めたものでした(39節)。それゆえに、主イエスは、彼に多く愛することを語られ、また問いかけられたのです(40~43節)。
主イエスは、誰かを多く赦し、誰かを少なく赦しておられるのではありません。どんなに多く赦していただいているかを身にしみて分かっているか、そのように自覚していないかだけなのです。この罪が赦された喜びと感謝の思いをもって、愛の業に励むのです(44~47節)。
実に愛の源泉は、イエス・キリストを主と信じ、その十字架の贖いによって罪の赦しをいただいたところにあるのです。

罪の赦しの福音(2013.7.14)

宣教題  : 「罪の赦しの福音」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章17~26節
主イエスのご来臨の目的は、「神の国の福音を告げ知らせ」ることでした(4章43節)。ここでは、主イエスが中風の人をいやされたことを通して、福音とは何かを明らかにされています。福音とは、「人よ、あなたの罪は赦された」とあるように、罪の赦しであることを宣言されたのです。

1.福音は「求めるもの」に与えられる
中風の人と彼を運んできた男たちは、主イエスに切なる求めをしています。彼らは、様々な障害を乗り越える勇気と熱心さとを持ち合わせていました。さらに、彼らが、主イエスが与えてくださるものを受け入れ、主イエスのもとに飛び込んでいくほどの信頼を抱いています。「イエスはその信仰を見て」おられたのです。
そうした中にあって、群衆や家の主人は、この突然の予期しない出来事によって自分たちの願いが中断されても、また犠牲を強いられても、中風の人に協力しています。
私たちは、福音を求めるものであり、それに与かろうとする人たちのために協力するものでありたいと願います。

2.福音は「キリストによって」与えられる
神の祝福の根本は、人が罪を赦されることを通して神と和解し、神との交わりに入れられることです。
ところで、聖書が言う罪は、神を欺き、神を悲しませることです。この罪を自覚するならば、主イエスが「人よ、あなたの罪は赦された」との宣言を受け入れることができるのです。主イエスは、罪の赦しを十字架で完成するので、それを受け取ってほしいと願っておられるのです。
福音は、私たちを前向きにさせます。主イエスの十字架によって罪の赦しが完成されていると信ずるからです。身が震える思いで、過去に決別し、喜びをもって立ち上がらせていただきましょう。

自分が変われば(2012.10.28)

宣教題    :     「自分が変われば」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 8章1~12節
今、私たちが最も必要としているものは、心の光ではないでしょうか。しかし、現実は心の暗闇におおわれています。イエスはその暗闇に光を灯そうとされて、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12節)と招かれるのです。

1.暗闇の中を歩んでいた事実
ある朝早く、人々が一人の女性を連行してきた目的は、「イエスを試して、訴える口実を得るため」でした。そこには、人間の暗い闇が潜んでいます。姦通という人間の哀れな本性にまつわる罪があります。そして、自分も同じ可能性を持ちながらも、この女性が犯した行為、その現象だけを厳しく咎めて裁いている人間の底知れない罪があります(3~6節)。そして、救い主をすぐ目の前にしながらも、その御言葉に背を向け、折角の救いのチャンスを放棄し、その場を立ち去っていく人間の哀れな姿があります(7~9節)。そこにも私たちの罪の暗さを見ることができます。これこそが、時代を越えて存在する人間の共通の罪、その暗さです。
自分には罪がないと言える人は、一人もいません。自分で自分を救える人もいません。イエス・キリスト御自身とその救いの御業による以外にないのです。

2.光であるキリストに従う信仰
イエスは、この女性に優しく語りかけ、それに答える彼女に決定的な御言葉を告げられました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』と(10~11節)。これは、罪の審きが貫かれ、その赦しが貫かれている十字架のイエスを仰ぐことにより可能となる宣告です。
私たちは、「世の光」であるイエスによって、罪を赦されて生かされる「命の光を持つ」のです。そして、私たちの内側から輝かしていただく「命の光」に立つのです。
各人がそのように変えられるためには、イエス・キリストへの信仰が必要です。それは、イエス・キリストの御人格と御性質を信じ受け入れ、その真実な御業にすべてを委ねていくことです。このお方に信頼し従っていくことです。