復活の主」タグアーカイブ

キリストは生きておられる(2020.10.11)

聖書

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」(ルカ24章6節)

礼拝音源(25.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マタイ16章24節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 84編1~13節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ24章1~12節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 11 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストは生きておられる」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 513 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスが墓の中に「おられない。復活なさった」ということは(6節)、主イエスはどこにでもおられ、今ここに生きておられるということです。主イエスが復活されたという事実に対して、私たちはどういうあり方であればよいのでしょうか。

1. 思い出しなさい
最初に墓に行った婦人たちは、主イエスのご遺体がないことに途方に暮れていたとき、主の使いから「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と聞かされ(6節)、それを弟子たちにも伝えました。思い出すことは、主イエスが十字架に架けられ、復活されるという出来事でした(7節、ルカ9章22節)。
私たちは、御言葉が解き明かされる時に、聖餐に与る時に(1コリント11章24~25節)、主イエスの十字架と復活によって、罪と死のとりことなっていたところから解き放たれたことを、思い当たることとして、繰り返し思い出すのです。

2.お会いしなさい
マタイによる福音書における並行記事で、復活の主イエスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタイ28章7節、10節参照)と語られました。ガリラヤは、弟子たちが最初に主イエスに出会い、主イエスに従った場所です(ルカ5章1~11節)。弟子たちは、そのガリラヤで復活の主イエスにお会いし、再献身するように招かれたのです。
私たちを信仰の原点に立ち帰らせてくださり、信仰の歩みに変革をもたらしてくださるのは、今も生きておられる復活の主イエスです。

 

 

人生は空しいものではない(2013.3.31)

宣教題  : 「人生は空しいものではない」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ21章1~14節
復活された主イエスは、シモン・ペトロをはじめ七人の弟子たちに御自身を現わされました。それは、彼らがティベリアス湖で漁をしていた時のことでした。彼らはそこで、どのような新しい展開をいただいたのでしょうか。

1.主イエスが御自身を現わされる
ペトロをはじめとする弟子たちが漁に行ったとき、彼らは主イエスとお出会いする以前の自分たちの仕事に仕方なく戻って行ったのでした。それは、主イエスとの関わりを失った後戻りの生き方であったと言えます。この時の彼らの心の状態は、十字架を前にしての主イエスを否んで裏切った心苦しい心境であり、もはや主イエスから忘れられていると思う空しさと失意と虚脱感を抱いたものでした。
主イエスは、このような心の状態でいる弟子たちに「御自身を現わされた」(1節、14節)のです。夜の間、彼らを見守っておられる主イエスのお姿をほうふつとさせます(3~4節)。夜が明けると、主イエスは「子たちよ」と呼びかけられて彼らとの交わりを回復させ、愛に満ちた指示をされました(5~6節)。そして、愛の配慮ある新たな交わりを造られました(9~13節)。
今も復活の主イエスは、空しい状況に明け暮れし、失意の中にあり、目標を失いかけている者に、「子たちよ」と呼びかけ、御自身との新しい交わりの中に招いていてくださいます。

2.復活の主を告白し続ける
弟子たちは、主イエスが生きておられることを告白しています(7節、12節)。これは、「我らの主、イエス・キリストを信ず」(使徒信条)と告白し続ける教会のひな型です。私たちの礼拝と信仰生活の中心には、復活された主イエスが生きておられ、いつも共にいてくださるとの信仰があるのです。
ここから、私たちの空しい生活は終わりを告げ、意味ある生きがいある人生が始まるのです。
そして、主イエスとの命の交わりに生きる喜びが生まれるのです。死んで復活され、永遠に恵みをもって支配される主イエスを目当てとして生きることが、私たちの希望です。

先立つ主イエス(2011.8.28)

宣教題  : 「先立つ主イエス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  16章1節~8節
復活された主イエスについて「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(7節)と告げられていることは、主イエスが予告されたことであり(14章28節)、自ら十字架に向かって決然として先立ち行かれたお姿でもありました(10章32節)。先立たれる主イエスは、どういうお方なのなのでしょうか。

1.復活の命を与える主
主の弟子たちとペトロがガリラヤに戻ることは、彼らにとってはもう一度やり直そうとの願いがあったからかもしれません。ただ確かなことは、死んだらお終いだとの暗い思いに捕らわれていたということです。死に勝利して復活された主イエスは、そうした彼らに永遠の命を与えて生きるものとするために、ガリラヤに先立って行かれたのです。
私たちが信仰を与えられるようになるには、各々その道筋をたどります。ただ共通していることは、復活の主イエスが先回りして出会ってくださり、復活の命に生きる者にしてくださるということです。それは、今までとは違う解き放たれた自由と喜びと平安に生きることです。

2.再起動される主
主の弟子たちだけでなく、マグダラのマリアを始めとする女性たちは、ガリラヤに向かって先立たれる主イエスの後ろ姿を見ながらついて行きました。主の弟子たちにとっては、それはふりだしに戻っていくことでもありました。かつて主イエスは、そのご生涯をガリラヤ伝道から始められ、弟子たちは「イエスの後について行った」からです(1章14~20節)。先立たれる主イエスは、彼らを使命の原点に立たせ、再起動させようとされたのです。
十字架に死んで復活され、今も生きておられる主イエスは、私たちを絶えず初心に立ち返えらせて、与えられている使命に振い起させてくださいます。私たちは、死と恐れが支配しているように見える中にも、「ここは、復活され、先立たれる主イエスが支配しておられる」との信仰に立ち続けたいものです。