信仰の歩み」タグアーカイブ

悪い時代をどう生きるか(2020.5.10)

聖書

時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。(エフェソ5章16節)

礼拝音源(19MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨエル3章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 127編1~5節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ5章12~17節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 11 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「悪い時代をどう生きるか」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
5月誕生者祝福 イザヤ書40章11節
賛  美 531 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

パウロは、先に「光の子として歩みなさい」(8節)と勧め、「暗闇の業に加わらないで」(11節)と語りました。その暗闇の業は、私たちが以前は普通に口にしていたこと、普通に行っていたことです(4章31節、5章3~5節)。これらは主に喜ばれる実を結ばないものでした(5章10~11節)。このような暗闇の業が作り出す「今は悪い時代」です(16節)。この時代に、私たちは、どのように歩めばよいのでしょうか。

1.目覚めて生きる  12~14節
暗闇の業が光であるキリストによって明らかにされることによって、今やキリストに信仰によって結ばれた者は光の中にある者とされました(13~14節a)。
そのように光とされた者は、キリストへの信仰の告白となり賛美となります(14節b)。これは、初代教会の洗礼式で歌われた賛美と言われており、キリストを通して神を信じるとはどういうことなのか、洗礼を受ける前と後ではどう異なるのかとの内容です。
詳しく味わってみます。自分について、世界について、神について知ろうとしないで漫然と生きているのが「眠りについている者」です。神を信じるということは、そのような眠りから目覚めていることであり、「死者の中から立ち上が」ることです。そうすることによって、自分が何者なのかを自覚し、この世界が何であるかを意識して、神に心を向けるようになるのです。そして、暗闇の中にまどろんでいた者が、「起きよ」と光へと呼び出され、キリストに照らされて生きるのです。
洗礼にあずかっている者は、いかなる時であっても「目覚めて生きよ」とのこの賛美の呼びかけを聞き続けて歩むのです。

2.知恵ある者として歩む  15~17節
悪い時代のただ中を生きるからこそ、「賢い者として、細かく気を配って歩」むのです(15節)。賢い者とは、「知恵」ある者であり、神から与えられた永遠の救いに関わる知恵を与えられている者です。そのように歩む秘訣は、こうです。
まず、「時をよく用いなさい」(16節)とあるように、単なる時間ではなく、機会あるいは時期や好機をわきまえて十分に生かすことです。自分たちが生きている世界がどのようなものであるかを自覚して、今の機会を逃さずに最善に用いるのです。
そして、「主の御心が何であるかを悟りなさい」(17節)とあるように、キリストの御心を悟って歩むことが、知恵をいただいていることです。その主の御心を悟って生きてこそ、今の機会が用いられるのです。そのためには、主の御心に生きたいと願うことです。主ご自身と親しく交わることです。
「今は悪い時代なのです」と言われる「今」は、パウロの時代のみでなく、代々の信仰者にとっても、私たちにとっても、私たちの子どもたちにとっても、常に「今」です。「今の悪い時代」のただ中を生きる者は、目を覚まし、主の御心を悟り、知恵ある者として歩み続けるのです。

 

聖なる者にふさわしく(2020.3.29)

宣教題 「聖なる者にふさわしく」      宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 エフェソ5章1~5節

 初代教会は、迫害や自然災害や疫病といった問題のみか、不道徳や不一致や異端といった問題に遭っていました。そうした中にあって、すでに主イエスによって聖なる者にさているのですから、それにふさわしく歩むように命じています(3節)。

1.神の愛によって生かされるように  1~2節
 神に倣う者とは、神に愛されている神の子として、その愛によって生かされ、その愛を手本として愛することです(1節)。そして、主イエスが、ご自身を「いけにえ」として神に献げてくださるまでに私たちを愛してくださった、その愛に生かされて愛のうちを歩むのです(2節)。
 教会は、今日に至るまで、永遠の命が与えられているという確信のともなった希望をいだいて、信仰に基づく愛の共同体としての歩みをしてきました。いつまでも残るものは、この信仰と希望と愛に生きることです(1コリント13章13節)。

2.神を感謝して生きるように  3~5節
 続いて、聖なる者にふさわしくない言葉を口にしないことを命じています。それは、人を卑しめたり、自分をおとしめたりする不品行な言葉、神の不名誉となるような言葉を口に出してはいけないということです(3へ4節a)。そうでないと、偶像礼拝者となり、キリストと神の国を継ぐことができないからです(5節)。
 そこで積極的に口にする言葉は、神が備えて与えてくださるすべてのことに対して、神を感謝することです(4節b)。神が生きて働いておられることを信じて感謝し、神は変わることのないお方であることに望みをおいて感謝し、神が愛していてくださることを感謝するのです。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(11MB)

向こう岸へ渡ろう(2019.1.13)

宣教題 「向こう岸へ渡ろう」        宣教 今田好一牧師
聖 書 マルコ4章35~41節

わたしたちはイエス様が共におられることを信じて信仰の歩みをします。それがキリスト者です。

1.危機を前にしてのつぶやき
 イエス様に言われて弟子たちは舟を出します。しかし、嵐が起きて舟が沈みそうになり、弟子たちは恐れますが、イエス様は寝ておられた。すると弟子たちはイエス様に非難めいた口調でつぶやき出したのです。同様にわたしたちも困難な状況に陥ると、主が共にいてくださることをいとも簡単に忘れてしまうのです。

2.沈むことのない舟
 この時イエス様は、嵐の中でも平安であられたので眠っておられました。しかし、弟子たちは恐れと不安に支配されていました。イエス様は弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われたのです。それは、主が共におられるなら決して舟が沈むことはないということと、嵐を静めて、ご自身が神の子であることを示されるためでした。

3.向こう岸に向かって舟が出る
 弟子たちは舟を出さなければ嵐に遭うこともなかったのです。しかし、そうしていたら嵐を静められるイエス様を見ることはできなかった訳です。そして、そのことによって、益々イエス・キリストというお方を知ることになるのです。

 「向こう岸に渡ろう」とのイエス様の促しに従い、一歩踏み出すのが教会であり、キリスト者です。イエス様はいつもわたしたちと共におられます。だから大丈夫。イエス様はわたしたちと共に向こう岸へと渡ってくださるお方なのです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8.9MB)

新しい革袋として(2018.2.11)

宣教題  「新しい革袋として」        宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章18~22節

ヨハネの弟子とファリサイ派の人々は断食していましたが、イエス様と弟子たちが断食していないことで、彼らの間に断食問題を巡る論争が生じたのです。

1.古いぶどう酒と古い革袋
古いぶどう酒とは、ファリサイ派の人々が厳格に律法を守って救われようとする信仰の在り方で、古い革袋とは、その考えに基づく信仰生活です。イエス様は婚礼の客と花婿のたとえをもって、そうではないと言われました。それはイエス様ご自身を花婿にたとえることで、わたしが真の救い主だと言われたのです。

2.新しいぶどう酒と新しい革袋
 新しいぶどう酒とは、救い主が来られた祝いの酒であり、主の十字架による罪の赦しを示します。それを入れる新しい革袋とは、救われた者の喜びと感謝を示しています。わたしたちには、新しいぶどう酒を注がれた、新しい革袋としての新しい信仰の歩を整えていくことが求められているのです。

3.新しい革袋として
 キリスト者とされた者の生活とは、第一に、礼拝が喜びの日となり、第二に、毎日祈るようになり、第三に、神と人に仕える者とされることです。この礼拝と祈りと奉仕という点においてわたしたちは新しい革袋へとされ続けるのです。
 わたしたちも、新しいぶどう酒を注がれた者として、主に向かって喜びと感謝と賛美をもって主をほめたたえ、新しい革袋としての信仰の歩みをしていきましょう。

二人は一緒に(2009.6.21)

題   : 「二人は一緒に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  22章1節~14節
アブラハムは、愛する独り子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と神から命じられました。これは、アブラハムにとって大きな信仰の危機でしたが、そこから逃げることなく、命じられた場所に向かって「二人は一緒に歩いて行った」(6節、8節)のです。

1.試みの中において
アブラハムにとっては、全てが順調にいっている時に与えられた試みでした。それは、「全能の神」であり(17章1節)、「永遠の神」(21章33節)がなされることとは思えなかったので、彼の信仰は揺さぶられました。また、アブラハムとイサクは、説明がつかない、納得できないことに逃げ出したいとの思いをもって、「その場所」(4節、9節)に立ったのです。二人のうちどちらが欠けても成り立たない神の計画の中で、二人は一緒に歩き続けたのです。
聖書は、神を信じていても試みに出会うことを否定していません。むしろ、そうした経験の必要と尊さを明らかにしています。試みは、「いろいろな試練」とあるように、その種類は一様ではありませんし、それを通して信仰が本物とされ、忍耐という品性が与えられ、成長させてくださる大きな喜びなのです(ヤコブ1章2~4節)。

2.神を信じる信仰をもって
アブラハムは全能の神を信じ信頼していました(5節、8節、9~10節)。神の呼びかけに「はい」と答えて、神の御手の中に留まり続けました(1節、11節)。
イサクは、この父と同じ信仰に立っていました。二人を結びつけていたものは、全てを備えてくださる神を信じる信仰であり、父の信仰に子が従い、この信仰に父が励まされています。そんな彼らを神は見守り、導き備えられたのです(14節)。
私たちは、互いが神を信頼しながら(イザヤ30章15節)、親子、夫婦、兄弟、そして教会員のお互い、また伝道者と信徒などの関わりの中で、「二人は一緒に歩いて行った」との歩みを続けることが求められています。そこにこそ、神の祝福の御業がなされていくのです(16~18節)。