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新約聖書

喜びを物語る(2012.1.8)

宣教題  : 「喜びを物語る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書   1章1節~4節

ルカによる福音書は、喜びの福音書と言われるほどに、主を讃え、喜んでいる内容で満ちています。そして、主イエス・キリストがどういう方であったか、何をなさった方であったかを物語り、主の恵みを伝えています。その結果として、人々が喜び物語る中に巻き込まれていくことを語っているのです。

1.「私が」巻き込まれる  1~3節
著者ルカは、異邦人の医者であり(コロサイ4章14節)、パウロと伝道を共にした協力者であり(フィレモン24節)、その殉教の死の時まで共にいました(2テモテ4章11節)。彼は、使徒言行録も書き記すほどにキリストに捉えられていました(使徒言行録1章1~2節)。
そんなルカが、実際主イエスを見聞きした人々の言葉を聴き、語り伝えるために仕える人々の言葉に耳を傾け、書き連ねられた言葉を熟読し、自らも「マルコによる福音書」などを基に詳しく調べて、順序正しく書いて伝えようとしたのです。
ところで、「わたしたちの間に実現した事柄について」と語っていますが、ルカ自らもそこに含まれ、巻き込まれているとの信仰に立っているのです。同じように私たちも、そこに含まれ、巻き込まれているのです。

2.「一人ひとりを」巻き込む  3~4節
ルカは喜びの物語を「テオフィロ」一人に語りかけています。彼が求道者であったか、信仰をもってまもない人であったかは不明ですが、彼に確かな信仰の決心が与えられ、信仰が強くされるようにと願って訴えかけているのです。そこには、主イエスの福音の喜びを味わい知った者の篤い思いがあります。
福音は、本来一人ひとりの魂に向かって注ぎ込むように語られるものですが、結果として、それが全ての人に向かって語り伝えられるのです。ですから、「私に語られているメッセ-ジである」との姿勢が一人ひとりに求められるのです。
私たちは、喜びの物語に巻き込まれる時を大切にして、そこから始まる喜びの出来事を生活の中で語り続け、書き表し続けていきたいものです。

若者も老人も(2012.1.1)

宣教題  : 「若者も老人も」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   2章16節~21節

約束の聖霊が降られたペンテコステは、キリスト教会の誕生を意味しました。ペトロは、この出来事が旧約のヨエルの預言の成就であると宣言したのです(ヨエル3章1~5節)。ここに、教会は本来どのような性質を持っているかを明らかにしています。

1.「主の名を呼び求める者」の集まり
「主」とは、イエス・キリストご自身であり、「主の名を呼び求める」とは、イエス・キリストを信じ、信頼することです。教会は、全ての者の罪のために十字架に架かり、死から復活されて今も生きておられるイエス・キリストを信じ、そのことによって救われた人々の集まりです。
この信仰を基盤にして共に礼拝し、様々な活動や必要のために集まるのが教会です。
このような教会につながる私たちは、いかなる状況下でも主なる神を呼び求める道が開かれているのです。

2.様々な立場を越えた集まり
聖霊は、新約の時代に生きる「すべての人に」注がれ、男も女も、若者も老人も隔てなく、イエス・キリストとその救いを証しし、宣べ伝えるように導かれています。これは、教会の素晴らしい特質の一つです。
そして教会は、若者も老人も互いに尊びながら、現実をしっかりと見つめて、これからどうなるかを洞察します。その上で、どうすべきかという構想や幻を見させていただく神のビジョンに生きるのです。

3.神の時を待つ集まり
ペンテコステの日にヨエルの預言が成就したのが、約八百年経過してからでした。主の弟子たちに聖霊が臨まれたのは、彼らが待望の祈りを始めてから十日目でした。神の時が成就されるのは、神の御心一つです。
主の名を呼び求める者の集まりである教会は、目先の方法論や姑息な手段に頼るのではなく、困難があっても決していらだたず、各自が神の前に真実に生きるとともに、神の時の来ることを信じて、その時を待つのです。

降る愛(2011.12.18)

宣教題  : 「降る愛」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一   4章9節~10節
クリスマスは、大いなる神が小さくなられて、幼子イエスとして、この地上に最も低く降ってくださった時です。私たちは、この出来事を「神は、独り子を世にお遣わしになりました。・・・ここに愛があります」と言い表していることに目を向け、そこに立ち帰り、そこから新たに出発するのです。

1.人を生かす愛  9節
神は、私たちに愛する価値があるから愛してくださったのではありません。神の愛は、神の方から示してくださったものであり、愛するに値するものを発見できなくても愛されるのであり、愛することによって価値あるものと造り変えてくださるのです。
それは、イエス・キリストによって私たちを生かす愛です。命の源である神と断絶して死んだような状態にあった者に、生きることの意味や目的や生きる力を与えられるのです。さらに、もうダメだと思われた人の生き方を変えて、その持ち味を生かして用いられるのです。そして、肉体の死で終わることなく、永遠にまで生かされるのです。
人は誰でも、自分を気遣ってくれて、自分の人生を肯定的に生かしてくれる人を求めます。イエス・キリストこそが、私たちにそれを成し遂げてくださるのです。

2.罪を贖う愛  10節
神に生かされることをとどめるのが、私たちの内にある「罪」です。罪は、神と人の本来の関係を破り、人と人との関係も人と自然との関係も破るもので、人間にとっての最大の問題です。それは、人間世界に悪や不義や不正や対立や争いとなって表れます。
愛の神は、この罪を放置しておくことができないので、ご自身の方から救いの手を差し伸べてくださったのです。それは、神の独り子が十字架にお架かりくださり、「罪を償ういけにえ」となってくださったことによって明らかにされました。このことを信じる者に与えられる罪の赦しは、私たちが勝ち取った赦しではなく、贈られた赦しです。罪を赦された者は、真に生きる者となるのです。
「ここに愛がある」とは、何という素晴らしい宣言でしょうか。ほんものの愛に必ず会える「ここ」と呼び得るところは、イエス・キリストです。

光の中に生きる(2011.12.11)

宣教題  : 「光の中に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一   1章5節~10節
イエス・キリストの来臨は、まことの光が失われてしまった世界に、神ご自身がまことの光であることを現わされた出来事でした(ヨハネ1章9節)。私たちには、この「光の中を歩む」のか、「闇の中を歩む」のかが問われています。
光の中に歩み続けるとは、どういうことなのでしょうか。

1.神と交わり続ける  5節~7節
イエス・キリストを信じる者は、光の中を歩み、神との交わりに生かされているのです。ところが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩んでいることがあるというのです。具体的には、信仰と生活が関係なくばらばらになっている生き方をしていることです。しかし、神との交わりとは、主イエス・キリストに堅く結ばれ、主のものとされている交わりです。主に愛されていることを知るがゆえに主を愛し、礼拝に生きる者とされている交わりです。
闇の中に生きるならば、人は孤立し、互いに信頼し助け合うことができなくなります。しかし、光の中に生きるならば、互いに交わりを持つ健やかな人生がつくられ、新たな交わりを築き上げていきます。

2.神の真実に触れ続ける  7節b~10節
もし私たちが、これまで罪を犯したことがないとか、今も自分に罪がないといって罪を軽く考えるなら、それはイエス・キリストによってなされた救いの業を意味のないものとしてしまい、自分を欺くことになります。しかし、神は、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、私たちが心にある罪の事実をそっくりそのまま神に告げて悔い改めることによって、あらゆる罪を赦し、罪から清め続けてくださるのです。この神の真実に触れ続けることが、光の中に生きることなのです。
光の中に生きることは、あやふやな生き方をすることではなく、私たちの日常生活を力ある歩みとします。ですから私たちは、自分の力で光を輝かせようとすることをやめて、まことの光であられるイエス・キリストに立ち帰り、その光の中に生き続けることが大切なのです。

喜びが満ち溢れて(2011.12.4)

宣教題  : 「喜びが満ち溢れて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネの手紙 一  1章1節~4節
神が人に近づかれ、その人生に介入される時、人は不安や恐れを覚えることがあります。とともに、それが大きな喜びに変わり、新たな出発となる経験をします。それは、最初のクリスマスの出来事においても見られました(ルカ2章8~11節)。本日の聖書箇所には、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」と証言しています。

1.永遠の命に与かる喜び  1~2節
イエス・キリストは、天地が創造された時すでに存在しておられた永遠の神であり、永遠の命そのものであり、私たちに永遠の命を与えるために現れてくださったのです。そして、人の言葉をもってご自分の意志・考え・計画を私たちが分かるように語りかけてくださいました。
使徒たちが経験したように、私たちは、信仰の耳をもってキリストの言葉を聞き、信仰の目を開いていただいてキリストを見、信仰の手を差しのべてキリストに触れることができるのです。そうすることによって、私たちは永遠の命に与かり、魂の深みにおいてキリストによって慰めを受けるのです。そして、最初のクリスマスの出来事に出会った人々と同じように、私たちは恐れではなくて喜びに溢れるようになるのです。

2.交わりを持つ喜び
永遠の命であるイエス・キリストを証しし、伝えることが教会の使命です。そうするのは、人々が「わたしたちとの交わりを持つようになるため」なのです。罪と死は、人と人を引き離し、交わりを削ぎます。しかし、命は人と人をつなぎ、交わりをもたらします。わたしたちの人と人の交わりを支え、守るのが、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」なのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰と、それによって与えられる永遠の命を共有する交わりです。このような神との交わりに生きる人々の交わりが拡大され、強められていくのが生きた教会です。
私たちは、永遠の命に与かる者たちの交わりに加えられていることを喜びましょう。さらに私たちは、喜びが満ち溢れる交わりを与えてくださるイエス・キリストを喜びをもって証しし、伝えていきましょう。

窮地に生きる信仰(2011.11.20)

宣教題  : 「窮地に生きる信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章16節~25節
聖書には、信仰をもっているのに試練があることと、そのような試練にあったときにそれを喜びとしている証しが多く記されています。パウロのフィリピ伝道は、順調な出来事ばかりでなく、パウロやシラスの投獄というような窮地に追い込まれたこともありました。しかし、その時にも別な意味での喜びがありました。

1.主イエスに試される喜び
占いの霊に取りつかれた奴隷の女は、精神的にもバランスを欠いた状態で雇い人に利用されていましたが、主イエスの十字架と復活の福音によって、その罪の奴隷の悲惨な生活から解き放たれ、救いにあずかりました(16~18節)。ところが、この女の雇い人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、ありもしない罪状を作って、パウロとシラスを捕えて訴え、牢に投げ込んだのでした(19~24節)。パウロたちは、この難を避けるために正当な訴えもせずに、甘んじて受け入れました。このことが、続く看主の家族の救いにつながっていくのです。
私たちは、「神を信じているのに、神は約束されているのに、なぜこのような試みを通されるのか」と、信仰の土台を揺さぶられる経験をします。主イエスは、私たちの信仰が本物になるように、敢えて試みを通されるのです。そこには、主イエスに試されることによって得る喜びがあります(ロ-マ5章1~5節)。

2.主イエスを想う喜び
このような窮地の中で、しかも真夜中ごろ、パウロとシラスは神に賛美をして祈っていました。他の囚人たちはそれを聞き入っていました(25節)。普通ならば意気消沈してつぶやき、不満が出てくるものです。
彼らは、主イエスの十字架を想い起こし、罪の罰である死を受けてくださり、罪の奴隷から解放し、復活の命に与からせてくださったことに感謝して、神に賛美し、祈ったのでした。
私たちも窮地に追い込まれた時に、主イエスの十字架と復活の福音を想い起して賛美し、祈ろうではありませんか。必ず主の御業が拝せられることを信じて!

真実な救い(2011.11.6)

宣教題  : 「真実な救い」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 16章19節~20節
主イエスが弟子たちと共に働かれたので、彼らは確信をもって福音の働きをすることができました。『彼らの語る言葉が真実である』ことが証しされ、人々に真実な救いとして受け入れられていきました。

1.勝利をもたらす救い
私たちが、「いまキリストはどこにおられるか」と問われたならば、「天に上げられ、神の右の座に着かれ」ていますと答えます。それは、遥か遠い所で静観しておられるということではなく、「主は彼らと共に働き」とあるように、弟子たちと共に歩まれた地上の在り方とは違った状態でおられるということです。すなわち、いつでも、どこでも共にいてくださって(マタイ28章20節)、福音の働きを共に進めてくださり、真実な救いへと導いてくださるのです。それは、「主イエス」の勝利の支配が、いつでも、どこにでも及んでいくということです。
私たちは、信仰者としても、教会としても様々な信仰の経験をし、試練を受け、また思わぬ方向へと導かれていくものです。そのような時、「神はこのことを通して何を教えていてくださるのか」と問いつつ、主イエスは私たちを勝利をもって支配しておられるということを本気で信じることが大切です。

2.拡がり続ける救い
主イエスがご自分の弟子たちと共に働かれて、彼らの語る言葉が真実であることを、主の臨在と同行という確かなしるしをもって明らかにされたことは、今も変わらずに続けられていることです。
また、主イエスは、ご自身の弟子たちを通して、「永遠の救いに至る・・・福音を広められた」(結び二)とあるように、今も変わらずに私たちを用いて、救いのご計画を進めておられます。
私たちは、十字架に死んで復活された福音の灯を消してはなりません。今も私たちと共に働かれる主イエスの恵みを無にするわけにはいきません。私たちが語る福音の言葉が真実であることを証ししないわけにはいきません。

信じること(2011.10.30)

宣教題  : 「信じること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 1章12節~13節、3章16~21節
聖書は、ひたすら神の恵みにより、ただそれを私たちが信じる信仰によってのみ、罪赦され、罪を全く犯したことのない義人と認められると主張しています。「信じる」という語を多く用いている「ヨハネによる福音書」は、それはどういうことで、何をもたらすのかを語っています。

1.受け入れて、未来の先取りを
私たちは、イエス・キリストを「信じる」に際して正しい事実を知ることから始める必要があります。まず、私たちは罪という事実を自分自身のこととして認め、死という事実から目をそむけないことです。そして、イエス・キリストの十字架と復活の事実は、罪と死の唯一の解決の道であることを認めることです。
イエス・キリストは、神の愛を伝える「言」として、愛そのものである神を明確に示されました(3章16節)。私たちは、この方の御人格と御業を「受け入れ」るのです。それは、単なる賛成や同感することではなく、ありのままの自分を任せて安んじてしまうことです(1章12~13節)。そうするなら神は、神に敵対する人生を歩んできた者を「神の子」として受け入れ、神と共に「永遠の命」に生きる者として天国の世嗣としくださるのです。このように、私たちは未来を先取りする者とされているのです。

2.信頼して、生活の改革を
イエス・キリストを信じる者は、罪を拒否する生活改革を行います。私たちは、「真理を行う者は光の方に来る」(3章21節)とあるように、真理の御言葉に照らされることにより、真面目な罪意識を持ってそれを告白するならば、イエス・キリストの十字架の血潮ゆえに、神の無限の赦しの愛を信じて立ちあがることができるのです。
このように、イエス・キリストを信じるとは、このお方の真実に身を委ねて、信頼していくことです。私たちは、罪人から徐々に義人になるのではなくて、きっぱりとした決断をすることにより、そこから神の祝福に生きる歩みが始まるのです。
私たちの生活改革がされる解決の糸口は、私たちの側にあるのではなくて、神の側すなわちイエス・キリストの十字架と復活にあるのです。

身代わりとして十字架に架かられたキリスト(2011.10.23)

宣教題  : 「身代わりとして十字架に架かられたキリスト」   宣教:   唐木 照雄 師
聖    書  : マルコ 15章25節~39節

1. 十字架を背負い処刑場に向かうキリスト
主イエス様は、十字架に架かる為にゴルゴタの丘に向かいます。そこは犯罪人が処刑される場所であります。そしてその十字架と言うのは、想像するのに、犬きくて、重たくて荒削りの十字架ではなかったであろうか。恐らくその十字架は主イエス様の肩にぐいぐいと食い込んで来た事と思います。しかも十字架を背負った主イエス様に対して死刑執行人であるローマの兵士は、時間までにその刑を終わらせたいという思いから早く歩けと言わんばかりに急き立ててまいります。

2.想像を絶する苦しみを受けられるキリスト
やがてゴルゴタの丘に着いた主イエス様は、自ら背負って来た十字架上に両手、両足を縛られ、死刑執行人によって有無を言わさずに、あの太い犬釘にも似た釘がガン、ガンと打ち込まれたと言うのであります。この時の肉体的な痛みについては、ある方は『痛みは、時とともに増して行き、裂かれた肉体の痛み、ことに不自然な姿勢の結果、手足は硬直し頭脳、肺、胃におけるはなはだしい充血、血管の膨張、身を焼かれるような渇き、めまい、頭痛、しかもこうしたものが、すべて同時になされる時、しかも意識はまだ失うまでにいたらず、その苦しみは、人間の想像を絶する耐え難い苦しみとなって起こって来る』と語っています。

3.キリストは何故このような苦しみを受けなければならなかったのか
何故キリストはこのような苦しみをしなければならなかったのであろうか、私たちの罪の身代わりとしての苦しみであったと聖書は告げております。いわば十字架とは、捨てられなくても良いお方が捨てられ、捨てられて当然の者、いや、捨てられなければならない者が捨てられることなく救われる為であったと言うのです。今まで父なる神様を喜ばせてばかり来たお方が、父なる神様を少しも喜ばせなかったような者として取り扱われ、今まで、父なる神様を少しも喜ばせなかった者が、全く父なる神様を喜ばせてばかり来た者のように受け入れられる。つまり上なる者が下に、そして下なる者が上に、この交差、クロスこそがイエス・キリストの十字架であったと言うのであります。

神の必然としてのリバイバル(2011.10.2)

宣教題  : 「神の必然としてのリバイバル」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章11節~15節
主の恵みが満ち満ちて、それが溢れ出でて周囲を変革していくのが「リバイバル」と言われています。その「リバイバル」の本質は、主イエス・キリストが崇められ、主イエス・キリストが拡大されていくことです。それは、日常的なことであり、その備えがいつもなされていることが求められます。

1.「主が」心を開かれる  14節
主がヨ-ロッパ伝道に導いておられると確信したパウロ、シラス、テモテ、ルカたちは、当時小ロ-マと言われた「フィリピ」に到着しました。彼らは、そこの祈り場に集まっていた婦人たちに福音を語りました。その中に居合わせたリディアは、「神をあがめる」敬虔な婦人で、主がその彼女の霊の目を開かれたので、語られることを集中して聴き、回心へと導かれました。
真のリバイバルは、このような「敬虔の気風」を生み出し、それが教会の気風となり、教会を決定づけます。そのためには、一人ひとりが不敬虔から敬虔への人生に変えられ(ルカ23章40節)、それが深められることが必要です。何よりも、毎週繰り返される礼拝において、私たちは信仰の基本に立ち返り、敬虔であることを慕い求め、敬虔の鍛錬をされていくことが大切なのです(1テモテ4章7節)。

2.「主に」忠実である  15節
リディアとその家族は、共に洗礼を受けました。そして彼女は、自宅にパウロ一行が泊まるように愛をもって招待しています。こうして、この家族が中心となって、「喜び」を最大の特徴とするフィリピ教会が誕生しました。それ以来、彼女の家を拠点としてフィリピ伝道がなされ(16章40節)、「献身的な気風」に満ちた教会となりました(フィリピ4章15~16節)。
こうした気風は、「主を信じる者」すなわち「主に忠実な者」たちが、一つになって集まる所に生まれます。「世界聖餐日礼拝」は、こうしたことを重んじて生まれました。私たち一人ひとりは、主イエスを信じる信仰をもって、主に忠実に、また主に真実に生きるならば、途絶えることのないリバイバルが生まれるのです。

わたしたちを生かす信仰(2011.9.25)

宣教題  : 「わたしたちを生かす信仰」   宣教:   中川 利行 師
聖    書  : マルコによる福音書 16章1節~8節
キリスト教信仰の中心は、イエス・キリストを神の御子、罪よりの贖い主、そしてこの方をわたしの個人的な救い主と信じる信仰です。そして福音とは、イエス・キリストの御生涯、彼が受けられた十字架による苦難、その死よりの復活を言います。

1.「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
マルコ16章1~8節は、主のご復活の記事です。この時の三人の婦人たちは、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という天使の声を聞いた時でさえ、持参した香料のことをすっかり忘れてしまうほどに、疑いの心、落胆しきった気持ち、絶望感を抱いたままでした。婦人たちは、ここに至るまで主イエスから何度も十字架の死と復活の予告を聞いてきたにもかかわらず、結局死んだらお終いだとの疑いの心に捕らわれていたのです。続いて婦人たちは、復活された主にガリラヤでお目にかかれると聞いても、震え上がり、正気を失って墓から逃げ去りました。戦慄を覚えたからです。
しかし、主イエスの復活は事実起こりました。主が復活された三つの証拠があります。(1)三人の婦人の証人=彼女たちは目撃者でした。(2)大きな証拠品=封印された大きな石が転がされていました。(3)天からの証し=天使が「あの方はよみがえられた」との伝言がありました。

2.復活されたイエス・キリストをいつも思う。
キリストの使徒となったパウロは若き伝道者テモテに、「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(2テモテ2章8節)と語っています。
主イエスは今日も復活されて生きておられます。私たちが信仰生活を続けていく上で特に記憶しなければならない事は、「死者の中から復活された」イエス・キリストの事を思うことです。パウロは「イエス・キリストをいつも思い起こす。これがわたしの福音である」と生き生きと表現しています。
私たちを生かす信仰は、十字架に死んで復活されたイエス・キリストを信じる信仰以外にありません。私たちは、この信仰に立つ者となりましょう。

主を愛するゆえに(2011.9.18)

宣教題  : 「主を愛するゆえに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ16章1節~8節、1ペトロ1章8~9節
私たちは、主イエスの愛に応答したマグダラのマリアの歩みから、さらに主イエスの愛に応答することを証言し続けたペトロのメッセ-ジから、主イエスを愛するとはどういうことかを教えられます。

1.主イエスに仕えることを喜ぶ
マグダラのマリアは、以前は「七つの悪霊」にとりつかれていた悲惨な生き方をしていました。そういうところから主イエスによって救われただけに、彼女の主イエスへの感謝は誰にも負けないくらいに深かったと思われます。ですから彼女は、主イエスが十字架にお架かりになった際もそこに立っていましたし(マルコ15章40~41節)、主イエスが葬られた後も墓から去りがたかったのです(同47節)。そして、彼女は世界で最初に復活の主イエスにお会いする光栄を与えられたのです(同16章9節)。
このように、人として惨めさを知り抜いたひとりの女性が、主イエスに愛され、その罪を赦され、悪霊から解き放たれた結果、ひたすら主イエスを愛し、仕えることを喜びとする歩みをするようになったのです(ルカ8章1~3節)。私たちが、主イエスを愛して喜び仕えていくなら、主イエスの深い愛が見えてくるのです。

2.キリストの証人であることを喜ぶ
これまでのキリスト教会の歴史において、多くの婦人たちが、黙々と忍耐深く、礼拝をささげ、祈りをささげ、教会の働きを担ってきました。何よりも、「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」マグダラのマリアのように、彼女たちは十字架と復活の証人となりました(マルコ16章10節)。
ところで、ペトロもこの喜びの知らせを聞いて、復活された主イエスに会い、主イエスを愛し、信じ、喜びに満ち溢れました。同じように、魂の救いを受けている者は、主イエスを肉眼では見てはいなくても主イエスを愛してやまず、信じ、言葉では言い尽くせない喜びに溢れる者とされるのです(1ペトロ1章8~9節)。ですから私たちは、マグダラのマリアやペトロのように、主イエスに愛され、主イエスの愛に生き、主イエスを愛する者とされていることを喜びをもって証しするのです。

確信はどこから(2011.9.4)

宣教題  : 「確信はどこから」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章6節~10節
パウロ一行がアジア伝道からヨ-ロッパ伝道へという新たな展開をするにあたって、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」と語っています。それは、情況を総合的に判断して、このように決断したということです。この決断は、どういうところから生まれたのでしょうか。

1.聖霊の導きに従うことを通して
パウロは、第一回目の伝道の時に開拓された教会を問安し、小アジアの中心エフェソに赴く計画を持っていましたが、「聖霊から禁じられ」、続いて「イエスの霊がそれを許さなかった」と二度にわたって阻まれました(6~7節)。
主なる神の御心は別のところにあることを示そうとされたのです。この時パウロ一行は、主なる神が最善のところに導かれると信じつつも、不安と戦いつつ、迷い、悩み、戸惑ったことでしょう。
パウロが、自分の計画や考えを持ちつつ、それを捨ててまでも聖霊の導きに従うことができたのは、「私ではありません。キリストです」との信仰経験と訓練を絶えず持っていたからでした(ガラテヤ2章19~20節)。主なる神からの確信は、聖霊の導きに従うことを通して与えられるのです。

2.魂の叫びを聴くことを通して
聖霊の導きによってトロアスに着いたパウロは、一人のマケドニア人の嘆願を通して、ヨ-ロッパ伝道の幻を見たのです(8~9節)。この三度目の主なる神の導きに、「わたしたちは」とあるパウロ、シラス、テモテ、そしてルカが従ったのでした(10節)。
主イエスが一人の魂の叫びを大切にされたように、パウロは一人の魂の叫びを聴き逃しませんでした。魂の救いの叫びは、途絶えることなく続いています。主なる神は、今日までその叫びを聴いた人を用いてご自身の救いの御業を進めてこられました。私たちは、一人の人の魂の叫びを聴き取って、その人のところに遣わされていく群れであり続けたいと切願します。

先立つ主イエス(2011.8.28)

宣教題  : 「先立つ主イエス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  16章1節~8節
復活された主イエスについて「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(7節)と告げられていることは、主イエスが予告されたことであり(14章28節)、自ら十字架に向かって決然として先立ち行かれたお姿でもありました(10章32節)。先立たれる主イエスは、どういうお方なのなのでしょうか。

1.復活の命を与える主
主の弟子たちとペトロがガリラヤに戻ることは、彼らにとってはもう一度やり直そうとの願いがあったからかもしれません。ただ確かなことは、死んだらお終いだとの暗い思いに捕らわれていたということです。死に勝利して復活された主イエスは、そうした彼らに永遠の命を与えて生きるものとするために、ガリラヤに先立って行かれたのです。
私たちが信仰を与えられるようになるには、各々その道筋をたどります。ただ共通していることは、復活の主イエスが先回りして出会ってくださり、復活の命に生きる者にしてくださるということです。それは、今までとは違う解き放たれた自由と喜びと平安に生きることです。

2.再起動される主
主の弟子たちだけでなく、マグダラのマリアを始めとする女性たちは、ガリラヤに向かって先立たれる主イエスの後ろ姿を見ながらついて行きました。主の弟子たちにとっては、それはふりだしに戻っていくことでもありました。かつて主イエスは、そのご生涯をガリラヤ伝道から始められ、弟子たちは「イエスの後について行った」からです(1章14~20節)。先立たれる主イエスは、彼らを使命の原点に立たせ、再起動させようとされたのです。
十字架に死んで復活され、今も生きておられる主イエスは、私たちを絶えず初心に立ち返えらせて、与えられている使命に振い起させてくださいます。私たちは、死と恐れが支配しているように見える中にも、「ここは、復活され、先立たれる主イエスが支配しておられる」との信仰に立ち続けたいものです。

死と向かい合う(2011.8.14)

宣教題  : 「死と向かい合う」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  15章42節~47節
私たちが告白する使徒信条には、主イエスの十字架の死の事実を「十字架につけられ、死にて葬られ」と詳しく言い表しています。本日の聖書箇所には、主イエスの埋葬と、その死と向かい合う人間の姿が描かれています。

1.墓に向かう人生
主イエスの死が確かめられてから、その体はアリマタヤのヨセフによって、王と同じような待遇でもって丁重に葬られました。主イエスは犯罪者のように呪われた死を死なれましたが、死の直後から栄光を受け始められたのです(イザヤ53章9節)。このようにして、主イエスは本当に死なれたのであり、葬られたのです。
主イエスは、私たち人間が死ぬのと同じように死なれ、同じように葬られました。その意味で、私たちと主イエスとは、「死にて葬られ」ということにおいて一つとなることができます。ただし私たちは、主イエスが復活してくださったゆえに、今や墓に向かう人生から墓を突き破る人生に変えられているのです(16章)。

2.主イエスに向かう人生
アリマタヤのヨセフは、神の国を待望しつつも、公然と信仰を言い表わすことができなかったようです(ヨハネ19章38節)。しかし、彼は、この時一切の恐れを捨て、地位も名誉も失う覚悟で、主イエスの埋葬の役を買って出たのです。彼をしてこのような言動に至らせた理由は、主イエスの十字架の死の事実があったからでした。アリマタヤのヨセフ同様に、主イエスの十字架を仰ぐ者は、信仰の妨げとなるものを打ち砕くのです。
「この人も・・・」と言われていますが、アリマタヤのヨセフだけでなく、先の百人隊長も(39節)、最後の最後まで主イエスを見失わなかった婦人たちも(47節)、主イエスに向かう人生を歩んだのです。そして、神の恵みの支配に生きる「私たちも」主に向かって歩み続けるのです。