メニュー 閉じる

新約聖書

聖なる主をあがめよ(2016.1.31)

宣教題  「聖なる主をあがめよ」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  1ペトロ3章13~22節

私たちは、キリスト信仰のゆえに苦難を経験することがあります。しかし、天の御国の視点
に立ってそれを見るならば、キリストと共に勝利する者とされていることを知ります(13~14節)。ですから、恐れたり心乱したりすることなく、「心の中でキリストを主とあがめ」るように勧めているのです(15節a)。それは、どのような信仰の歩みなのでしょうか。

1.希望の弁明  15節b
ペトロは、キリストを主と告白することが「希望」であると言っています。なぜならば、キリストは十字架の苦しみを通して罪の支配下にある者を神のもとに導かれ、その死から復活されて勝利されたからです。そして、復活されたキリストは、昇天されて神の右に着座され、今も変わらずに尊厳と栄光と権威をもってすべてをご支配しておられるからです。人が洗礼に与るのは、このキリストご自身と御業を正しい良心をもって応答することなのです(18~22節)。
私たちは、この与えられた希望について説明を求める人には、「だれでもいつでも」(新改訳聖書)弁明できるように備えておくことが必要です。このようにして、この希望を語り伝え、また見せ、そして一緒に与ることが大切なのです。

2.弁明の態度  16節
弁明するものに求められる姿勢があります。自己主張せずまた尊大ぶらずに「穏やかに」語ることです。神への畏れと「敬意」をもって語ることです。「正しい良心」をもって、自分の生活態度が弁明することと矛盾することのなく生きることです。これらの三つが結ばれるとき、弁明は効果的に働くのです(16節a)。
福音の光は、敵対する人の目と心とを開きます(16節b)。その良い証しが、ステファノです
(使徒言行録7章54~60節)。彼は人々の激しい怒りや憎悪の中にあって、神の栄光と復活のキリストを見ていました。そして、その復活のキリストを証言し弁明しました。そこには、苛立つことなく落ち着いた姿がありました。
同じように私たちは、キリストをきよめてくださる主として心の中にお迎えしましょう。

この日を正月としなさい(2016.1.24)

宣教題  「この日を正月としなさい」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  出エジプト12章1~14節 2コリント5章17節

聖書に「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(2節)とありますが、この時はイスラエルの民の歴史にとって、転機的な時であり、新たな歩みが始まった時でした。
それは、私たちが神の子として自覚的な誕生をし、そこから新たな歩みをすることがいかに大切であるかを語っています。

1.イスラエルの正月とは
イスラエルにとってこの転機的な出来事は、二つの意味がありました。一つは、エジプトに住む家畜をも含むあらゆる初子を撃つという神の審きがなされるに際して、屠った小羊の血を取って家の柱と鴨居に塗っておけば審きが過ぎ越すということでした(6~7節)。もう一つは、酵母を入れないパンと苦菜を添えて屠られた小羊の肉を食べたイスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から解放され、身軽になってそこから旅人として新たな出発したことでした(11~12節)。このようにして、新生イスラエルの歴史が始まったのです。
この神の御業には、大切なメッセージが語られています。神が血を見られられたことにより、神は過ぎ越されるという救いをなされたことです(13節)。

2.あなたの正月は
すべての人は罪を犯しているので、神の審きを受けなければならなくなりました(ローマ3章23節)。そこから逃れる道は、ただ一つです。私たちの身代わりとして十字架に血を流して死んでくださった神の小羊であるキリストを信じることです(ローマ3章24~25節)。神は、このキリストの血を見られ、神の前に悔い改めてキリストご自身を信じる者を救われるのです。ここから神が備えていてくださる新しい歩みが始めまるのです。
キリストを信じるとは、「キリストと結ばれる人はだれでも」とあるように(2コリント5章17節)、キリストを信頼し、キリストと命の結びつきをもつことです。それによって初めて、新しく造り変えられた人生の正月がおとずれるのです。私たち一人ひとりは、それを「この日」にさせていただきましょう。

栄光の主を見つめながら(2016.1.17)

宣教題  「栄光の主を見つめながら」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  ルカ9章28~36節

この「イエスの姿が変わる」との出来事は、そのご生涯の大きな転換点となりました。一路十字架を目指して進まれたからです(ルカ9章51節)。私たちの信仰の歩みは、自らの足元を見つつ、見つめるべき栄光の主イエスに目を留めていることが大切です(2ペトロ1章16~18節)。栄光の主イエスのどこに目を留めることが必要なのでしょうか。

1.変貌された主イエス
主イエスは、「祈るために」「祈っておられるうちに」とあるように、父なる神と交わっておられます(28~29節)。「ルカによる福音書」は、祈るイエスを重視して伝えています(3章21節、4章2節、4章42節、6章12節、9章18節、9章28~29節、22章41節、23章34節)。このように、主イエスの祈りに合わせて神の救いのご計画が進行したのです。主イエスの変貌は、継続された祈りの折になされた出来事だったのです。
主イエスの顔の様子が変わったのは、神である栄光のお姿に変貌されたことでした。これによって、主イエスが神であることを明らかにされました(35節)。私たちは、いかなる時にも、「栄光に輝くイエス」を仰ぎ見るものとさせていただきましょう。

2.使命を成し遂げる主イエス
主イエスは、ご自身が神であることを明らかにされるとともに、全ての人に救いをもたらされる僕としてご自身を現わされました。この時、ペトロたち三人の弟子たちは、その重荷を分かち合えないでいましたが、父なる神はモーセとエリヤとが「イエスと語り合」うことができるように遣わされたのです。彼らは、神の民が神の救いにあずかるための重荷を持って、執り成し祈り、苦闘した経験があったからです(30~33節)。
そこで語り合われたことは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について」でした。最後についてとは、主イエスが十字架の血潮によって成し遂げられる救いです。
私たちは、主イエスに聞き続け、贖い主である主イエスを見失わないで拝するのみです(35~36節)。

本物の礼拝者(2016.1.10)

本物の礼拝者          宣教 鎌野 直人協力牧師
聖 書  ヨナ1章1~16節 フィリピ3章3節

1.主のことばから逃げる
ヨナはヤロブアム二世の時代(紀元前8世紀)、イスラエルの拡張を預言した。そして、そのことばのとおり、北王国は繁栄した(2列王14章25節)。ニネベを都とするアッシリア帝国が弱体化していたからである。主は、そのヨナに、立ち、ニネベへ行き、そこで呼びかけよ、と命じた(2節)。ヨナは立ち上がったが、ニネベとは逆方向のヤッファに下り、さらに西のタルシシュ行きの船に乗り込んだ(3節)。主とそのことばから逃れようとした。

2.主のわざへの二通りの応答
ところが、ヨナが逃げたところにも主はおられた。風を海に放たれ、大嵐が起こった(4節)。異邦人の船乗りたちは、おそれ、自分の神に叫び、積み荷を海に投げ捨てはじめた。ところが、ヨナは船底へと下り、寝ころび、夢の世界へと降っていった(5節)。船長は、立ち、自分の神に叫べ、と命ずるが、ヨナは聞こうとはしない。主のわざであると気がついているのに、平然としていた。一方で、船乗りたちは「神があるいは」(6節、口語訳)と神のあわれみに期待して、叫んでいる。本物の礼拝者はいったい、どちらだろうか。

3.主をおそれる
神の怒りの原因はだれか。人々はくじを引いて、御旨を求めた。くじは見事にヨナに当たる。「海と陸とを創造された天の神、主」(9節)をおそれる、と語る彼にはわかっていた。自分を海に投げ捨てれば、主は怒りをとどめ、海は凪ぐ(12節)。ヨナは冷静に語るが、人々はヨナが犠牲にならずにすむようにと努力する。それも限界。自分たちを滅ぼさないで、と叫びつつ、彼らはヨナを海に投げ捨てる(15節)。その瞬間、主は海を静める。船乗りたちは、あわれみの主をおそれ、礼拝をする(16節)。
主をおそれ、そのことばを守ったのは異邦人たちであった。主のあわれみに期待したのは彼らであった。選民であることに固執したヨナは偽物であることが暴露された。本物の礼拝者は、主のわざに気づき、主のあわれみにすがり、主をおそれる。あなたは、肉を頼みとするヨナか、それとも、キリスト・イエスを誇りとする船乗りたちか(フィリピ3章3節)。

次世代への継承(2016.1.3)

宣教題  「次世代への継承」          宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  2テモテ1章1~14節

この手紙は伝道者パウロから愛弟子のテモテに書き送られたものですが、キリスト者すべてに語られている内容です。パウロが主イエスからゆだねられた福音を、テモテにゆだねていこうとしている姿勢があります。ここには、どのように福音を継承していくかについて述べられています。

1.恵みによって
キリスト者が福音に生きることに、またテモテのように主と教会と人々に仕えることに弱さや足りなさや無力感を覚えたりすることがあります(3~4節)。主イエスは、そのような者に、聖霊の恵みに与り続けるように勧めています(6節)。
それは、おく病な者を大胆な者に変えてくださる神の恵みの賜物です(7節)。具体的には、主イエスを証しする「力」の霊(使徒言行録1章8節)、人を生かす神の「愛」の霊(ローマ5章5節)、健全な「思慮分別」すなわち慎みと常識の霊という恵みです。それによってテモテは、福音のためには一歩も退かなかったほどに変えられています(ヘブライ13章22節)。
私たちは、聖霊によって燃えたたせていただくという恵みの継承が必要です。

2.信仰によって
聖霊に燃えたたせられ続けるには、私たちが主イエスに自分自身を明け渡して従うことが大切です。それを具体的にさせていただくためには、テモテ同様に私たちが信仰によって見続けている必要なものがあります。まず、福音の出所である主イエスご自身を仰ぎ見ることです(9~12節)。福音は、神によって開かれ、イエス・キリストの救いの恵みによって明らかにされているからです。さらに、信仰の遺産を回顧することであり、「純粋な信仰」を受け継いでいくことです(5節)。そして、信仰に立っている聖徒たちを見て励まし合うことです(16~18節)。
ゆだねられた福音が私たち自身と周囲を変え、それが次世代にまで伝えられて受け継がれ、さらに拡大していくという信仰に立たせていただきましょう。

再び燃えたたせよ(2016.1.1)

宣教題  「再び燃えたたせよ」          宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  2テモテ1章6~7節

神は私たちに、恵みの賜物として聖霊を与えていてくださいます。パウロは、その「(聖)霊の火を消してはいけません」(1テサロニケ5章19節)と語り、積極的には、神の賜物である聖霊を「再び燃えたたせるように」(6節)と勧めています。そのことによって、日々どのような歩みが造られるのでしょうか。

1.キリストを知ること  1章12~14節
キリストの十字架と復活によって現された福音は、キリストから人にゆだねられるものです。人はゆだねられた福音を自分の力でしっかり守り抜くのではなく、順境また逆境と如何なる状況下を通されても「聖霊」によって最後まで守りまっとうさせていただくのです(14節)。
そのことを通して、パウロが「わたしは自分が信頼している方を知っており」(12節)と告白しているように、「キリストを知る」ことが私たちの内に刻み込まれていくのです。私たちの信仰の生涯は、キリストの教えや教会の信仰告白を知っているだけでなく、個人的な経験としてキリストを知り続けることです。

2.キリストを愛すること  1章7節
キリストを知っているということは、キリストを愛しているということです。この手紙の受信人であるテモテには、弱さのゆえに(3~5節)、どこまでもキリストを愛して、キリストとその御旨に従えるのだろうかとの心配があったようです。
そこでパウロは、「力と愛と思慮分別の霊」に燃え立たせられるように勧めたのです。とりわけ、聖霊によってキリストの愛に占領され、駆り立てられることを大切なこととしています(ローマ5章5節)。人はキリストを知れば知るほど、キリストを愛するようになります。キリストを愛すれば愛するほど、キリストを他の人と分かち合いたい、伝えたいと願うようになります。そのようにして、キリストがリアルなお方となっていきます。
日々聖霊の火を消すことなく、燃えたたせていただきましょう。

神の愛の奇跡(2015.12.20)

宣教題  「神の愛の奇跡」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  イザヤ7章10~14節 マタイ1章21~23節

神の御子の誕生が告げられた「インマヌエル」の出来事こそが、クリスマスの奇跡であり、神の愛の奇跡です。そのことはすでに、イザヤを通して預言されていたことでした。「神は我々と共におられる」とは、どういうことなのでしょうか。
1.「神が共に」との救いが起こった  イザヤ7章14節
イザヤが預言した紀元前735年頃は、ユダの王アハズがアラムとエフライム連合と大国アッスリアとの狭間にあって危機的な状態にありました。その時イザヤは、不信仰に陥っていたユダの王と民に対して、神への信頼を持つように勧めました(7章1~9節)。続いて、神は「しるしを求めよ」と言われましたが、王は現実問題にとらわれたままでした(同10~13節)。そのような状態の王と民に対して、神自らが、一人のおとめが身ごもり男の子を産むという「しるしを与えられる」のです。それによって、「神が共におられる」ことを明らかにされ、勝利をもたらすとの約束をされたのです。
病気がなおった、敵が打ち破られた、困難に際して祈りが答えられたなども救いですが、確かな救いは、いかなる時にも「神が共におられる」という事実です。
2.罪からの救い主となられた  マタイ1章23節
イザヤの預言が成就したのは、イエス・キリストの誕生においてでした。「インマヌエル」とは、真の神と真の人が主イエスにおいて全く一つになったということであり、この主イエスによって、人が神と共にいることができる恵みが実現したのです。本来、聖なる神と罪人とが一緒にいることができないので、「罪から救う」ことを主イエスが十字架の身代わりの死を通して成し遂げてくださったことにより、人は神と共にいることができるようになったのです(マタイ1章21節)。
私たちは、インマヌエルの救いを信じ受け入れることによって、永遠の滅亡から「神は我々と共におられる」という永遠の命の中に導かれるのです(マタイ28章20節)。クリスマスは、そのような神と共にある歩みを新たに踏み出す時です。

クライマックスの到来(2015.12.13)

宣教題  「クライマックスの到来」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  マタイ1章1節~17節

神はイエスの誕生のために二千年近くも準備され、その準備が42世代の系図にまとめられている。7世代を一日と考えると、神の準備の一週間が見えてくる。

1. 最初の六日間
まずアブラハムの選びからはじまる(創世記12:1-3)。全イスラエルに広がりつつも、特別な人を選んで神は準備を進め(2-3)、第14代目、神の準備の二日目のクライマックスにダビデが登場した(6)。イスラエルの王ダビデに与えられた使命は、世界を治め、世界を祝福すること、つまり、アブラハムへの約束を実現することであった。しかし、「ウリヤの妻によって」(6)が示唆するように、準備は順調に進まず、むしろ王国の歴史は下り坂を辿り、第28代目、神の準備の四日目に王エコンヤは民とともにバビロンへと移住させられる(11)。次の14代の間に、民はイスラエルへと帰還はしたが、本当の回復は実現せずにいた。

2. クライマックスとしての第六日目
第42代目、つまり神の準備の六日目の最後に大きな変化が起こる。福音書が語る「アブラハムの子ダビデの子、イエス」(1)が誕生されたからだ。イエスこそアブラハムへの約束を、そしてダビデ王の使命を果たすメシアである(16)。その誕生は特別であった。イエスはヨセフの子ではないが、ヨセフの妻マリアから生まれた(16)。そこに神の直接的介入を見る。さらに、神の準備の六日間、ずっとそうであったように、立場の弱い女性たち(タマル、ラハブ、ルツ、マリア)を通して、神はクライマックスを到来させた。さらに、天地創造の第六日目に人が創造されたように(創世記1章)、神の準備の六日目のクライマックスにアダムに与えられた使命を果たすメシア、まことの人イエスをこの地上に遣わされた。

3. 八日目に向けて
六日目のクライマックスに来られたメシアであるイエスは何をもたらしたのだろうか。「罪からの救い」(21)であり、創造の第七日目が象徴する安息の到来である(11:28-30)。そして、世界の民がイエスの弟子となり、この安息を世界に告げ知らせている(28:18-20)。今、私たちは神の第八日目、イエスが再び来られ、新しい天と新しい地が持たされる日を待ち望んでいる。アドベントは、神がこの世界のために準備されてきたご計画を覚えつつ、新しい世界の到来を待ち望む季節でもある。

契約:福音に応えるために(2015.11.22)

宣教題  「契約:福音に応えるために」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア24章14~28節 ヘブライ8章10節
王などいらない、と人々は叫ぶ。強大な力をもった王が自分の利益を求め、わがままに振る舞い、王に仕える人々が大いに苦しめられるからである。しかし、よい生を送ることができるようにと願って統治する王に仕えることはどうだろうか。

1. 福音
ヨシュアはその生涯の終わりにあたって、イスラエルの民に主のことばを語っている。そこには、創世記からヨシュア記まで書かれていることがまとめられている。イスラエルの先祖が他の神々に仕えていたこと。そこから主が連れ出したこと(2~4節)。エジプトに下って奴隷になっていたところから、連れ出したこと(5~7節)。荒野に住んでいた民に勝利を与え、敵の手から救い出したこと(8~10節)。ヨルダン川を渡ったあと、その地に住む者たちを追い払い、その地を与え、よき生活の場所を与えたこと(11~13節)。よい王である主がこれらのことをなされたからこそ、イスラエルの今がある。主がイスラエルにためになされたすばらしいみわざ、福音が語られた。

2. 選択
主の一方的なわざをうけて、ヨシュアは、神々を除き去って、ただ主に仕えること、すなわちこの方を王として受け入れ、その導きに従うことを求める(14節)。自らも、その家族も主に仕えることを宣言する(15節)。しかし、民に強制することはせず、自分たちで選ぶように求めている。福音を聞いた者に対して、よい王である主は選ぶ自由を与えている。誰に仕えるかを選ぶことを通して、私たちは自分の将来を自分で選ぶ。

3. 契約
ヨシュアは民に対して、主に仕えることを選ぶことの重さを思い起こさせ、警告を与える(19~21節)。「聖なる、熱情の神」は自らに仕えることを選んだ者たちの応答に対して、無関心ではない。受け入れ、誓約した民は、主を「わたしたちの神」(24節、ヘブル8章10節)と呼び、契約を結び、「掟と法」(25節)をうける。福音を聞いた者は、自らの王を選び、その選択に伴う責任を喜んで果たすのだ。
主に仕えることは私たちに責任ある生き方を求め、契約の民となることを求める。しかし、これらはすべてよい王である主のめぐみのわざ(福音)に対する喜びから生まれる自発的な応答だ。

祝福を受け継ぐため(2015.11.15)

宣教題  「祝福を受け継ぐため」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ3章8~12節

私たちは、神の祝福を受け継いで、それに生かされ、他者に受け継がせるために召されています(9節c)。私たちは、他に何も持っていなくても、このような神の祝福をかけがえのない資産として受け取っているのです。この召しに生きる者は、どういう信仰の歩みをすればよいのでしょうか。

1.交わりを豊かに  8節
この手紙には、これまで様々な苦難の日々に直面していた人々に語られてきましたが(2章11~3章7節)、「終わりに、皆」と要約するように書き送っています。まず、信仰を告白して心を一つにし、共に労苦し、愛し合う兄弟となり、憐れみ深く思いやりを抱き、謙虚に生きる交わりを勧めています。
神の祝福を受け継ぐためには、このような交わりがお互いのあらゆる中に、教会の中に豊かに造られていくことが必要なのです。そうさせていただけるのは、謙遜の限りを尽くして神の愛を現してくださった主イエスの十字架の贖いの恵みに触れ続けることによってです。

2.愛を豊かに  9~12節
神の祝福を受け継ぐために召された者は、幸いな善い日々を見続けて過ごします(10節)。喜びの日、悲しみの日、楽しみの日、苦しみの日といかなる日々であってもこのように過ごすのです。これこそ、信仰の急所に触れる生き方です。
このような祝福を受け継ぐ者は、「善を行い」幸せを造り出す生き方をします。すなわち、悪に対しては、「祝福を祈り」(9節)、祝福の言葉を語り(10節)、祝福をもって報いることに徹するのです(11節)。
そのような祝福に生きるためには、贖い主イエスの愛に立ち帰り続けることが大切です(2章21~25節)。愛の主イエスのまなざし、祈りを聞いていてくださる主の耳、主の御顔を日々に自覚しながら過ごす者は幸いです(12節)。

赦しを求めて(2015.11.8)

宣教題  「赦しを求めて」           宣教 高木 実 師
聖 書  ルカ23章26~43節

十字架を取り巻く三種類の人々は、人の罪深さの三つのタイプを示しています。
一つ目は、人の苦しみや痛みに対する無感覚、無関心な冷淡さです。十字架で苦しむイエス・キリストを前に、兵士達はイエスの着物をゲームで取り合っているのです(34節)。
二つ目は、自分の罪を認めない愚かさです。自分の罪のゆえ、同じく十字架につけられた強盗は、自分のことは柵に上げてイエス・キリストを罵っています(39節)。神の前に、自分の罪を認めることができない…これこそ最も根本的な罪だと聖書は教えています。
三つ目は、人の心に潜む残忍さです。祭司長、律法学者という宗教的な指導者たちまでもが、苦しむイエス・キリストに追い打ちをかけるように「あざ笑って」います(35節)。人の不幸や苦しみが、もっとひどくなればいいという残忍さを見ることができます。
一方のイエス・キリストは「彼らをお赦しください」(34節)と祈っています。このように十字架は醜い人間の罪の暗黒の真っ只中にこそ与えられた、神の赦しと和解をもたらす希望のメッセージなのです。
強盗の一人は自分の罪を認めました(41節)。「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章11~24節)の弟息子は放蕩三昧したのち、自分の罪に気付き父のもとに立ち返ります。その悔い改めた弟息子を待ち受けていたのは父親の熱烈歓迎でした。神は悔い改めて神のもとに立ち帰ってくるのを、いつも待っておられるお方なのです。この強盗の一人も、放蕩息子のように父なる神に受け入れられ、その胸に抱き締められていたと言えるでしょう。神が与えてくださる救いは、良い行いや正しく生きた人生の報いとして与えられるものではありません。救いとは、このように受けるに値しない者に与えられる、まさに恵みなのです。

日々、主とともに(2015.11.1)

宣教題  「日々、主とともに」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  詩編68編20~21節、ルカ9章18~27節

主が「日々、わたしたちを担」っていてくださるのですから(詩編68編20節)、私たちは「日々、自分の十字架を背負って」主イエスに従っていくのです(ルカ9章23節)。
私たちの信仰は、特別なこと、特別な日のためだけにあるのではなく、普通の日々、平凡な生活にあってこそ意味があるのです。

1.日々私たちを担ってくださる主
恵みの主が救い、導き、顧みていてくださることに、神の民は深い信頼を寄せています(詩編68編20~21節)。人が持つ最も重いに荷は、罪と死の重荷ですが、そのような重荷を担っている私自身はもっと重い荷といえるでしょう。
主イエスは、人の罪と死そのものを担ってくださいました。ご受難を受けられ、十字架において捨てられ、殺され、その死から復活されました(ルカ9章21~22節)。私たちは、この救い主イエスに対して、自分の口でまた自分の存在をもって信仰を言い表わすのです(同9章18~20節)。
主イエスは、時々思い出したようにではなく、あるいは気まぐれにではなく、日々に私たちを担っていてくださるのです。

2.日々十字架を負う私たち
私たちが自分を捨てて日々自分の十字架を負うことは、主イエスに従う者に与えられている喜びの証しです(ルカ9章23節)。私たちは、それを避けることもできますが、主イエスのために、福音のために背負わせていただくことにより、主の栄光を拝することができるのです。
そのようにして、日々の日常生活がつくられていくならば、他者を生かし、教会を生かし、結果としてその人自身も生かすことになるのです(同24~25節)。私たちは、自分の十字架を自分だけの頑張りで背負うのではなく、日々に私たちを担ってくださる主イエスにすべてを委ねながら歩むのです。

仰ぎ見て生きよ(2015.10.25)

宣教題  「仰ぎ見て生きよ」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章20~25節

私たちの本当の生き方は、この一日を生きるということから始まって、大きいことばかりでなく、小さいことにも、ありとあらゆることを主なる神に信頼し、信じ仰ぎ見て生きることです。それを忘れて生きるとしたら、それが罪なのです。信仰とは、仰ぎ見て生きることなのです。

1.わき見しないで、キリストを!
ペトロは、主イエスと対面して、前向きに向き合う人生を始めました(15~20節)。
ところが、「ペトロが振り向くと」、主イエスが愛しておられた弟子がついて来ていました。そして、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いかけています。 ここに、自分自身と他者にこだわり続けているペトロの姿があります。それは、罪を犯した途端に、主なる神の顔を避けて隠れた人の姿でもあります(創世記3章参照)。
私たちは、この罪を赦してくださるために十字架にお架かりくださった主イエスを仰ぎ見て生きるのです。そして、主イエスがペトロだけでなく主が愛しておられた弟子に「生きている」ことを望まれたように、主イエスとその御言葉と愛にとどまって生きる者とならせていただきましょう(15章5節、7節、9節)。

2.達成感よりも使命感を!
ペトロにとっては、主が愛しておられた弟子が気になる存在でした。それをご存知であった主イエスは、ペトロに対して「あなたは、わたしに従いなさい」との使命に生きるように招かれたのです。人は、この使命感がはっきりすると、それを成し遂げていく達成感や生きがいをもって生きていくことができます。
このように、私たちには、主の弟子として、主の証人として歩む共通の使命が与えられています(22節、24節)。私たちは、主イエスを仰ぎ見つつ、各々の持ち場に遣わされて生きる者となるのです。「わたしに従いなさい」との主イエスの招きに応答させていただきましょう。

力あるあかし(2015.10.18)

宣教題  「力あるあかし」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ3章1~7節

イエス・キリストの救いの福音は、私たちの生活と関係があり、その日常生活の中に現れてきます。ここでは、妻と夫のことが語られていますが、「同じように」(1節、7節)とあるように、あらゆる立場の信仰者に示されている生き方でもあります。信仰が生活化されているのを「見る」ことを通して、力強いあかしとなるのです。

1.感化力をもって  1~6節
妻が夫に従うことを通して、夫が信仰に導かれて救われる、また信仰が回復される場合のことを語っています。そのために、妻が無言の行ないと神を畏れる純真な生き方が用いられるというのです。このときペトロは、裏切る者を無言のうちに愛の眼ざして見つめられる主イエスを想い起こしつつ語ったことでしょう(2章22~24節)。
キリストに結ばれて新しくされた者は、外面の装いではなく、内面的な装いに価値を置いた生き方になります。ちょうど、旧約聖書に登場する婦人たちも時代を越えてそのことを証しし、良き感化を及ぼしました。
神への畏れをもって、妻が夫に従い、また夫と妻が仕え合っていることは(エフェソ5章21節)、神に望みを託した者の生き方なのです。

2.祝福力をもって  7節
夫たちの頭上には、二つの命令が響き渡っています。一つは、「生活を共にし」すべての営みを愛をもってすることです。二つは、妻をかけがえのない人格として「尊敬」することです。そうすることによって夫は、妻が自分より弱い器であることを認め、温かい理解と態度を示すことになります。また、永遠の「命の恵みを共に受け継ぐ者」として、その祝福が見える形で今実現していることを自覚して生きることになります。
このようなかけがえのない夫妻は、互いに愛と尊敬と思いやりをもって、共に祈る信仰の同労者です。同様に、神の家である教会につながるお互いは、愛と尊敬と思いやりをもって、祈りを尊ぶ同労者なのです。

すべての約束の実現(2015.10.11)

宣教題  「すべての約束の実現」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨシュア23章1~16節 エフェソ6章10~12節

クリスチャンの戦いは、究極的には神の武具によって悪魔の策略に立ち向かうものである(エフェソ6章11~12)。しかし、人間が戦えそうもない相手、そして目の見えない相手とどのように戦うのだろうか。

1. すべての戦いは主の戦い
約束の地の征服のための戦いを終え、年老いたヨシュアは、その生涯を振り返りつつ、これまでの戦いは、すべてイスラエルの神である主が戦われたものであると述べた。イスラエル自身もそのことを見てきた(ヨシュア23章3節)。イスラエルは戦ってきたが、それはあくまでも主の戦いであった。わたしたちの悪魔の策略との戦いも、主の戦いである。

2. 過去の戦いから将来の戦いへ
約束の地での戦いはまだ続く。くじによって各部族に分け与えられた土地を獲得する戦いに向かう必要がある(4節)。主は、過去もそうであったように、これからも戦われると約束してくださっている(5節)。これまでヨシュア記で起こってきたことがこれからも続くからこそ、一人で千人を追い払うことができる(10節)。ところが、主の戦いであっても、イスラエルには、モーセの教えの書に従い、他の神に仕えず、主ののみ信頼することが求められている(6~8節)。彼らがこのようには歩まないとき(12節)、この土地から彼ら自身が滅び失せる危険性があるである(13節)。事実、士師記を見ると、約束の地でイスラエルは危機に瀕していた。

3. すべての約束は守られる
なぜ主はイスラエルの行動に基づいてご自身の戦いを戦われるのだろうか。それは、主がイスラエルを、そして私たちをこの世界におけるご自身のパートナーと見なしておられるからである。そして、パートナーである者たちと共に戦うために主が用意されたのが、主の約束である。主が約束された通り、すべてのよいことはこれまで行われてきたし(15節)、契約を破るならば約束通り、パートナーには滅びがおとずれる(16節)。すべての約束を守られる主だから、パートナーである私たちがどのように応答するかに応じて、主はご自身の戦いを進められる。
だから、「主に依り頼み、その偉大な力によって」強くされ、主に忠実でありつづけるように招かれている(エフェソ6章10節)。主は約束のすべてを守ってくださる方であるからこそ、主の約束を知り、それに忠実に生きていこうではないか。