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2017年2月19日

聖なるもの(2017.2.19)

教題  「聖なるもの」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  2テモテ2章14~26節
人は、確かな方に愛され、その方に結びついていたい、確かなことを成し遂げたいと切望しています。その確かな方が主イエス・キリストであることを知るならば、その主のお役に立ちたいと願い、「聖なるもの」とされ続けることを求めるのです。

1.貴いことに用いられることは当然である
主は、私たちが「貴いことに用いられる器」(21節)となり、「主の僕」(24 節)となって、神に用いられることを願っておられます。その主の器は、神の愛と恵みと聖霊に満たされ、それを保ち続け、それを他者と分かち合うために持ち運ばれる者です。
そのことを経験している主の器は、「恥じることのない」熟練した働き手となって、「真理の言葉を正しく伝え」分かち与えることができるようにされるのです(15節)。すなわち、教えることと、その人の生活が聖別されて分離していないということです。語ったように、教えたように生きているかとは絶えざる問いかけです。

2.「聖なるもの」となることを求めることは当然である
続く聖書箇所には、20にものぼる罪のリストが述べられていますが(3章1~9節)、自己愛や高慢や腐敗しているクリスチャンの心の状態が語られています。そうした罪の状態がきよめられて「聖なるもの」となることを求めることは、当然なことなのです。
まず、卑しいものから離れ去り、また避けることを決断し(16~19節)、「正義と信仰と愛と平和を追い求め」続けることが大切です(22~26節)。主ご自身は、そのような者をきよめ続けてくださって、主に役立つ者として用いてくださいます。それは、自分のためというよりは、主の働きのために、どうしても必要なことなのです。
主は、有能な器ではなく、主のために有用な器を用いてくださるのです。

あなたは私に何をしてほしいのか(2017.2.19)

宣教題 「あなたは私に何をしてほしいのか」 宣教 スティーブ・ブレディ師
聖 書  ルカ18章 35~43節
答えがはっきりしている質問を投げかける人がいる。主イエスが盲人の物乞いに、何が必要なのかと尋ねたとき、主イエスの投げかけられた質問はそのようなものであったのだろうか。同じように、主イエスは、われらの必要についての質問をわれらに投げかけられたのだろうか。

1.あなたは主イエスに何をしてほしいのか
何もしてほしくないのか。何かしてほしいのか。すべてをしてほしいのか。

2.どれだけ本気にそうしてほしいのか
バルティマイは、本当にそうして欲しいと切願していたし、自分の必要が何であるか、明確に分かっていた。われらもそうあるべきだ。

3.それらが与えられたとき、あなたは何をするのか
与えられたとき、バルティマイは主イエスに従った。あなたはその意志があるか。あなたはそうするか。